第3話

『格が違う』という言葉がある。


 吾輩はあの時、まだ産毛だらけの子猫の身ではあったが、『格が違う』という言葉の意味を身をもって体験した――というか、この目でしかと目撃した。


 人の身でありながら怪異に近しい者、というのは、まあ、多数派ということは出来なくともそれなりに存在している。思い出すのもおぞましいあの女とて、人の身でありながら怪異に近しい者、の一員であったことには間違いない。――だが。


 怪異に『近しい』ということと、怪異を『統べる』ということとは、当然のことながら、まったく別の領域のことであるのだ。


 あの女は、怪異に近しい者であった。

 我が御主人の御母堂は、怪異をすべる御方であったし、今でもそうあり続けていらっしゃる。


 ああ、そうだ。

 だからこそ我が御主人は、怪異と遭遇しても、まるで動ずるところがないのであろう、きっと。







 そもそもの始めから、まだまだ単なる――『単なる』等と言ってしまっては気を悪くする同胞もいるだろうが――猫、しかも子猫であり、人間の言葉などろくろく理解することなど出来ぬ吾輩に向かって、御母堂が「もう大丈夫よ」と言って、にっこりと笑いかけてくださったこと、そして、吾輩が御母堂の御言葉を完全に理解することが出来、しかもその上、本当に、ああ、もう大丈夫なのだと心底安堵することが出来たということからして、それはきっと『普通』ではない出会いだったのだろう。まあ、吾輩達猫族が、人間の言葉を完全には理解することが出来ないからと言って、吾輩達猫族に何かと語りかけてくる人間は、今も昔もこれからも、とても大勢いるだろうし、それに、誰かを心底安心させてやることが出来るということは、もしかしたら、怪異に近しいかどうかとはなんの関係もないのかもしれない。


 しかしまあ、それはそれとして吾輩はやはり、あれは特別な出会いであったのだと思っていたいのだ。吾輩は俗物である。自分自身という卑小にして非力なる存在を、どうしたって『特別』というきらびやかな飾りで飾り立てずにはおれぬのだ。


 閑話休題。まあ、吾輩はともかくとして、御母堂が『特別』であるのも、あの女とは『格が違った』というのも、これはなんの掛け値もない単なる事実である。あの女はしばらくの間、御母堂に向かってニヤニヤといやらしい笑みを向けてはいたが、御母堂にポンと肩を叩かれ、そして耳元で何やらささやかれた時のあの女の顔といったら、いや、実に見ものであった。吾輩、胸がスッとしたのを今でも覚えている。


 そして。


 御母堂といっしょに『地下室』に降りて行ったあの女は、二度と再びそこからあがってくることはなかった。


 ざまあみろ――と、吾輩は思ったのであろうか。……思ったのかもしれない。ここで綺麗事を言ってもしかたがない。ああ、確かに吾輩は、ざまあみろ、と思ったのだ。あまりに急激に事が進み過ぎたせいで、その辺りのことについてはどうも、記憶と感情と様々な印象とが吾輩の内側で節操もなく渾然一体となって、あの時のことについて語ろうとするたびに、吾輩は的確な言葉を探しかねてついには沈黙する羽目に陥る。


 え? そんな事を言う割には、おまえはさっきからずっと、ベラベラととめどなく喋り狂っているではないかって? うむ、まあ、そう言われても吾輩が反論するのは難しかろう。しかしまあ、実のところ吾輩としては、このようにベラベラと喋り狂っていても、それでもいっかな、満足などしてはおらぬ。あの時のことを語るのには、きっと、もっと適切な言葉が、的確な言葉があるに違いないのだという隔靴掻痒の念しきりである。







 御主人と御母堂に連れられて、御二人の家に吾輩、及び吾輩の同胞達は無事辿り着き、そして御母堂はそれから八方手を尽くして、吾輩達に新しい里親がた――猫族の同胞達の中には、『下僕達』と呼ぶものも多くいることを吾輩は知っているが――を探して下さった。


 御母堂の――いや、少なくとも御主人の予定としては、吾輩もまた、その『里親』のうちの一人、もしくは一家庭に引き取ってもらうつもりだったらしい。だが――冗談ではない。そんなことになったりしたら、吾輩は御主人にも御母堂にも、受けたご恩をまったく返すことなど出来なくなってしまうではないか。『犬は三日の恩を三年忘れず、猫は三年の恩を三日で忘れる』などという忌々しい言葉があるが、冗談ではない。確かにまあ、そのような同胞がいることを吾輩とて否定したりはしない。だが、それはそれとして、吾輩までそのような輩と同じ穴の狢だと勝手に思い込まれるのは、まことにもって迷惑千万というものである。


 だから吾輩は、『里親』の元になどやられないために全身全霊をあげて努力をした。生来純真で天然な吾輩の命の――いや、魂の恩人、吾輩の御主人様は、『里親』候補がやってきて、吾輩ではない別の同胞を選んで帰って行くたびに、吾輩を見つめて、ちょっと悲しそうな、ちょっと不思議そうな顔をして、おまえはこんなに可愛いのに、みんななんでそれがわからないんだろうな。あれだな、おまえはきっと、人見知りだから損をしているんだな。なあ、おまえ、知らない人が怖いというのはそれはそれでしかたがないことだと思うけど、でも、もう少しだけ愛想よくしてみたら、きっとみんなおまえがすっごく可愛いっていうことに気がつくぞ、と、どこか大人びた口調で諭してくれた。だが、吾輩としては、そのような有象無象、いや、御母堂がせっかく吾輩達のために探してきて下さったかたがたを有象無象などと言ってしまっては申し訳ないが、だがしかし、とにかく吾輩は、恩返しもせずに御主人の、そして御母堂の側を離れるというわけにはいかなかったのだ。


 どれくらいの時が無為に――いや、吾輩にとっては全く『無為』などではなかったのだが、しかし傍から見たらそう見えただろう――流れ去ったことか。御主人が吾輩の背中をなでながら、その可愛らしい唇をムゥととがらせながら、なあ、おまえこのまんまじゃ、うちの子になるしかないぞ? とおっしゃってくださった時、吾輩はまさに欣喜雀躍した。……む、今気づいたのだが、どうも吾輩は、初めてお会いした時からずっと、御主人と御母堂の御言葉を、ほぼ完璧に理解することが出来ていたようだ。うむ、書く事によってはじめて気づく事があるということ、しかも、それがかなり多いという事に、吾輩は今まさに、書きながら気づきつつある。


 そんな、ちょっと拗ねたような御主人に、御母堂が穏やかな声で、だったら、その子に名前をつけてあげたら? とおっしゃった。御主人は、大きく目を見開いて、いいのか? 本当にいいのか母さん? と、息を飲みながら御母堂にそう問いかけた。


 あなたがずっと、この子と一緒にいたいのならね。


 御母堂は、そうおっしゃって御主人に微笑みかけた。


 御主人は、黙って大きくうなずいて、そして吾輩のあごの下をそっとくすぐりながら、吾輩をまっすぐ見つめて、そして、告げてくださったのだ。


 そして、吾輩は名づけられた。


 御主人は、ただ一言、吾輩の名をきっぱりと告げた。


 すなわち。


「りんたろう」――と。


 御主人が名づけてくださった「りんたろう」という名に漢字をあててくださったのは御母堂だ。いや、正確に言うと、『林太郎』『凛太郎』『凛太郎』『燐太郎』『鈴太郎』などいう、様々な『りんたろう』と読める漢字を書きだしたカードを御主人に指し示し、どの字がいい? と問いかけたのだ。


 こう言ってはなんだが、御主人はまだ、そんな難しい漢字など、読む事も書く事も出来なかったはずなのに。


 御主人は、一瞬のためらいもなく。


『凛太郎』と書かれたカードを選び出し、そしてにっこり微笑んだ。

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