第8話 家に帰ろう

 動物園を出てからは、疎らに歩く三人の足はそれぞれだった。行きと変わらず。軽快に。そして、重い。心模様を表すように、歩みがそれぞれ違っている。漫ろ歩く二人の後を直己は一人、辿っていた。

 戻ってきた時の…芳の眼が真っ先に祐河に向かっている。そのとびきりの笑顔は、二人で会っていた時には出てこなかった。それだけ揃っていれば直己にはもう十分だ。


 駅に到着する頃には直己の考えも定まっていた。これ以上一緒に居ても、自分が嫌になるだけだ。

「済みません俺、急に仕事が入ってしまって。」

 思い切って、前を歩く二人に向けて声を張る。少し距離はあったが、二人は振り向いた。その表情に、やはり直己は嫉妬した。足を止めたままの直己の元へ芳は駆け寄ってくるが、直己の視線を察してか、祐河は離れたまま静観している。残念がる芳に愛想で応対しながら、直己は必死で気持ちを芳へと戻した。

「栖原さん、今日は有難うございました。」

 とても楽しかったです、と本心での笑顔で芳は直己に礼を言う。

「芳さん…」

 普段なら、直己も楽しんだ礼を返すのだが。どうしてもそれは、胸の内から離れなかった。

あの男かれが好き、なんですね。」

「え…?」

 思わぬ直己の言葉に、芳は思考が硬直する。

「あ、いいんですよ。隠さないで下さい。俺だって…」

 笑顔を絶やさず、でも言葉に詰まる直己に、芳ははたと気付いた。

 直己に、酷い事をしたかもしれない。

「俺は、芳さんの笑顔が好きです。自分の気持ちに素直な所や純粋な所も、凄く…良いなと思ってます。だから、」

 正直でいい、と背中を押す直己の気遣いに、芳も向き合わなくては申し訳ない気持ちになる。

「…はい。」

 少し項垂れたものの、真摯に芳は答えた。

「僕にとって、とても大事な…大切な恋人ひとです。」

 フゥと息を吐き、直己も踏ん切りをつける。

「そうですか。」

 でも、それなら祐河かれは何故あんな事を言ったのだろう。

「じゃあ、これからも友人としてお付き合い願えれば。」

「いいんですか?」

「勿論。」

 驚いた表情をする芳に、直己は素直な笑顔を手向けて、頷いた。

「じゃあ俺はこれで。彼にも宜しく言っておいて下さい。」

 そう言うと、直己は芳が知っているままの笑顔で手を振り、去っていった。後に残った芳は、何か気持ちをも取り残されたようで、ただ茫然と小さくなる直己の背中を見送っている。その後姿を見て、祐河はゆっくり芳に近づいた。

「帰ろうか。」

 くしゃりと後頭部を撫で梳く大きな手に、芳は小さく頷く。その温かさに、宛てなく浮いた気持ちが静かに澱みへ変わった。芳自身は、二人への感謝を込めての今日一日のつもりだった。でも、直己は? もしかしたら僕一人で来た方が良かったの?

「あ…のね、」

 歩き出す手前、芳は震える胸の内を抱えたまま、祐河に問い掛ける。直己のことを考えて、考えて芳はハッとしたのだ。気付かなければ何の不安も恐れも無かったけれど、もう気持ちが引き返せない。

「祐河はさ、栖原さんの事…どう思った…の?」

 躊躇いがちに呟く芳の声を耳にしながら、強張るその肩を抱き寄せ、歩き出す。祐河の歩調につられ、芳も歩き始めた。先程までとは打って変わった芳の表情に、祐河も思いを巡らせてみる。

「良い人だな。」

 何の外連もなく、そう返す。そんな裕河の声音に、訊きたいと望んだ想いを問い返す事が出来ず、芳は押し黙った。僅かに俯く芳の頭髪を軽く、そして優しく祐河の手が撫でる。

「今日は楽しかったな。」

「う…ん、」

「芳は楽しかったかい?」

「う……ん、」

 まだ引き摺ったままの気持ちが芳の胸を締め付ける。本当は、『祐河が好き』と言いながら他の男とはしゃいでた芳を、浅ましく思っていたんじゃないだろうか。

「昨夜の悦顔も素敵だが、今日の笑顔も最高に素敵だよ。」

「ぅ…ん?ナ…っ!?!?」

 耳許で囁かれた言葉に、芳はうなじまで真っ赤にして口をパクパクさせた。おかげでパニックを起こした芳の脳は、先程までの自己嫌悪をすっかり忘れて昨夜の甘い記憶へと溺れ落ちた。慌てふためく表情はクルクルと目まぐるしく変化する。

 その横でいきなり、吹き出すような声が二人の周りに響き渡った。祐河が堪え切れずに大きな声で笑っている。芳はむくれて頬を膨らませ、対抗した。

「ゅぅ…の、いじわる。」

 自業自得、というものかも知れないが、笑い揶揄からかうなんてあんまりだ。はっきりと聞こえない様に口籠りながら、芳は密かに文句を言った。




 そんな二人と別れた直己は、 ひとり流れに逆らうように街を歩いていた。直己自身はまだ気持ちの整理が付かずにいる。

『じゃあ、これからも友人としてお付き合い願えれば。』

 とは言ったものの。どう考えてもあの二人の間に割って入る余地など無いし。あれだけ二人でいるのが自然な仲の良さを見せ付けられれば、自分がそこに居る事自体違和感がある。

 まだそんなに深い付き合いでもないし。何ならほぼ直己自身の押しかけ付き合いに等しいし。考え様によっては芳に『邪魔者だから』と遠回しに拒否された、そんな気さえする。

「……………ったく。」

 バカバカしい程の否定的な思考に、軽く頭を掻きむしった。

 近くでイベントでもやっているのか、人は増える一方だ。進み辛さもあって、道を変える。幾分や歩きやすくなったものの、頭を空っぽにしたい直己の心情と裏腹に、もやもやした気持ちは相変わらず。それまでの今日一日を繰り返し直己に見せようとしていた。

 それに、だ。

 未だに彼の言った言葉が気にかかって仕様がない。

 芳に『気が置けない友人が必要』だという事。別にそれ自体はおかしな話じゃないが。彼の醸し出していた雰囲気は、いづれ芳の傍から彼自身が居なくなるような、そんな感じがした。

「なんなんだよ、一体。」

 見せられている情景が穴だらけのジグソーパズルの様だ。納得のいかない気持ちだけが手元にバラバラと降ってくる。多分必要な情報が少な過ぎるんだと、欠片が上手く嵌まらない理由を、直己は勝手に付け替えた。

 取り敢えず、眼前で手のひらを見つめ返す。直己は軽く目を瞑ると、それで思い切り自分の両頬を叩いた。

「うぉっしゃあっ。」

 気合一発。この件は一先ず置いておこう。直己自身、何か出来るとしても今は成り行きに任せて見守るしかない。そう思った矢先、いきなり携帯の電話が鳴った。

「はい。…はい、は…はいっ!!すぐ行きます!!」

 緊急呼び出しに直己は直立する。そしてすぐさま現場へ向けて駆け出した。これからまた忙しくなりそうだ。

 そうさ。どんな困難が立ち塞がっても。

 愛しい君が、いつまでも笑っていられるように。

 愛しい君と、いつまでも寄り添い行けるように。

 そしていつか、君を振り向かせてみせるために。


 前を向いて、直己はその一歩を踏み出した。

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