第6話 幸せのベクトル
そして二日後の夜。予定通り、祐河が帰ってきた。
祐河は店に顔を出して、軽く挨拶程度の会話を交わした。詳しい話は後日にとなり、今日は店も早仕舞いをすることになった。
芳は、祐河と共に家路についた。久しぶりの繋いだ手の感触が、何だかもどかしい。
「祐河、お帰りなさい。」
「ああ。ただいま。」
部屋に入る前にも、改めて芳は言った。答える祐河の優しい笑顔が、芳の目の前に帰ってくる。
中へ入ってからも、芳は落ち着かない気持ちで、祐河の背を眺めた。
「祐河、」
「ん、なに?」
「あのね、祐河に謝りたい。」
片付ける手が僅かに止まる。たが、祐河は何も答えなかった。そのまま作業を続けている。
暫くしてから、祐河はゆっくりと振り返った。
「どうして?」
笑顔で問い返す祐河に、言葉に迷う芳の視線がふらつく。
「ぁ…あの、」
ずっと抱えていた気持ちが、芳の背中を小突くように押す。意を決して芳は吐露した。
「ゆ…祐河が初めてせ…ックスしようと言ってくれた時…、僕は…、」
「気にしなくていいんだ。あの時は俺も性急過ぎた。」
歯切れ悪く語る芳を、祐河が止める。そして芳が悪い訳じゃないと優しく抱き締める。
「違う…僕はっ!!」
涙がぽろぽろ零れる。零れた雫が落ちていく様子を、芳も眺めていた。こんなに苦しいなら、いっそ言わない方が良いんじゃないか。祐河だって、きっと聞きたくないだろうし。そう考えると余計に胸が苦しくなる。
それでも芳は訴えるのを止めなかった。祐河もそれ以上、言葉は重ねなかった。
「お父さんにっ連れて行かれた時…っ、無茶苦茶されてもっ…痛かった…けどっ!!…ぃ…一瞬き…きもちイイ…って思った自分が…怖くて…」
祐河はじっと芳の言葉を受け止めた。
「…何にも考えられなかった…それが…凄く心が楽になって…気持ち良かった。」
静かな時間が流れていく。しゃくり気味の芳の呼吸が部屋に響く。幾分か落ち着いて、それから問う様に芳は顔を上げた。
「変、だよね?僕は…。」
包み込む掌が優しく芳を撫でる。
「違うさ。それだけ…心が苦しかったんだろう?芳。」
求める答を初めから知っているような、芳の心に触れてくる祐河の声が、身体の全てに響いていく。芳は胸の奥が熱くなって震えた。
「芳、無理にしなくてもいいんだ。」
その気遣いが、幾度と無く芳を包み込む。大切にされるその想いが、芳の胸にも浸透する。だからこそ、この優しさに溺れる事が辛くて、泣きそうだった。
「違うっ…の、僕が…祐河を感じたい、から。」
必死で芳は声を上げた。
大好きな愛する人を肌で感じたい。繋がってひとつになって、受け入れたい。そして祐河が芳を愛しいと想い、触れてくれる様に、芳自身も自分を汚い存在だと思わずに、自分を認められるように…なりたかった。
「祐河。僕を…抱いて頂けますか。」
涙を拭いて、真っ直ぐ見つめる。そんな芳の双眸に、応える様に祐河も見つめ返した。
「……………………………ああ。」
長い沈黙の後、祐河は頷いた。その手が優しく力強く、芳を受け入れる。芳は漸く迎えるその時を、強く待ち望んでいた。
そして。
約束の日は快晴であった。直己は眩しげに空を見上げる。
いよいよ今日は待ち望んだ芳さんとのデートだ、と浮かれていた。
開園に合わせた約束の時間はもうすぐだ。直己は駅の方角に目をやり、芳がやって来るのをひたすら待ち侘びていた。
「芳さんっ! こっ………、」
人波に乗ってやってきた芳に手を振ろうとして、伸ばした直己の腕が固まる。
「いいのか、俺も一緒で。」
「うん。大勢の方が楽しいもの。」
二人きりだと思っていた直己の目の前で芳と会話しながらやってくる。その男は芳と親しげで、二人はとても仲睦まじく映った。
誰だ!? アイツは!?
「お早うございます。栖原さん。」
「お…、おはようございま…す。」
動揺する気持ちに、声がブレる。しかし、満面の笑みと共に、楽しげで嬉しそうな芳の表情は、残念感の滲んでいる…かもしれない態度をも改めさせる威力で、直己をノックアウトする。
本当に今まで見たこと無い、最高な芳の笑顔だった。
「えぇ…と。…初めまして?ですよね?」
嫌だったが、自分から直己は笑顔を繕って男に会釈した。芳より一足歩引いて立つ彼は、軽く直己に頭を下げる。
「あの…栖原さん。彼はね、バイト先の先輩で、僕が部屋をシェアさせてもらってる
間に入る形で、芳が男の紹介をした。男に芳の前へ出られるのも、何か腹が立つ。だからって、芳が代わりに紹介する…というのも、何だか釈然としない。一人で直己は悶々とした。
男が一歩前に踏み出し、改めて名乗った。
「田沢祐河と言います。」
覚えのある名だった。芳の住んでいた部屋の主に違いないだろう。納得はしたが、宜しく、と会釈だけする態度はやはり、イケ好かない。
「二人だけより三人の方が楽しいかも、って思って。」
いいですよね?と芳に、それこそ極上の笑顔を盾に訊かれたら、嫌…とは流石に直己も言えなかった。
「良かった。ね、祐河。大丈夫だって。」
言ったでしょ?とはしゃぐ芳を尻目に、微妙な空気で直己は祐河と対面したのだった。
芳と祐河、それに直己の三人は、あれから並んで園内を歩いていた。真ん中は当然芳が入り、その一歩後を左右に分かれて祐河と、直己も続く。
芳が連れて来た男…田沢祐河は何処か直己の記憶に引っかかっていた。初対面に違いないと思うが、どうにも気に掛かる。
「あ、あれ。」
生態展示の動物達が伸び伸び過ごしている中、芳の指差す方向には、ペンギンのマークが入った看板が掲げられていた。
「あっちの方に行ってみませんか。」
「いいですよ。」
直己も、芳に付いていく様に足の向きを変える。歩きながら直己は芳に質問した。
「芳さんはペンギンが一番好き、なんですか。」
「えぇ…と。猛獣とか大きな動物とかが苦手で。何か安心するんですよね、小動物の傍にいると。」
そんな芳の一面を、祐河も初めて耳にした。はにかむ芳の優しい面持ちに、直己は小動物とのツーショットを思い浮かべる。ぴったりはまる愛くるしさに直己は思わず頬が緩み、一人慌てた。
「祐河は好きなのとか苦手なのとか、そういう動物は無いの?」
「俺は…特に無いかな。どれでも同じ様に感じるし。」
「俺はやっぱり勇ましいライオンとか、トラとか。見るの好きですよ。」
一人でにやけて変な奴に思われてないかと心配したが、大して気にされてなかった、と。芳の態度を見て直己は感じた。安堵よりも正直、残念な気持ちになる。
が。それ以上に、つまらなさそうに言う祐河の意見に、腹立たしさを覚えた。
「威風堂々、百獣の王らしく悠然と歩く姿なんて、カッコいいじゃないですか。」
なので、打ち消さんとする勢いで直己は答えた。
折角芳さんと一緒に来ているんだ。つまらない、なんて言わせねぇ。
「ネコ科、好きなんですね。」
「はい!!…ぃ?」
勢いで芳に答えたものの。どういう意味なのか、直己にはよくわからなかった。もしくは、軽くあしらわれた、のか?
「あー、気持ち良さそう。」
先へ進む芳の視線はもう、家族で寛ぐカピバラ一家に向かっている。
取り残された気分で直己は芳を見つめたが、はしゃいでいる芳の姿に、そんな自分の気持ち等どうでもよくなった。
「芳さんっ!エサやり体験、出来るって!」
直己も乗り気で一緒に騒ぐ。看板を指差し、芳を誘った。その笑顔は純粋に、今を楽しむ者の明るさに満ちている。
祐河はそんな二人を微笑ましく眺めていた。
「祐河もっ!」
「ああ。」
早く、と呼ぶ芳の声に合わせて、祐河は先に居る二人の元へ足早に歩き進めた。
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