第5話 笑顔を君へ
暫くの沈黙の後、直己が静かに芳へ懇願した。
「笑って下さいよ。俺、マジで芳さんの笑顔…素敵だなって思っているんですから。」
直己の言葉に、芳は凍ったままの眼差しで口角だけを上げた。笑顔、芳にはそれがどんなものなのかすら、今は分からない。
「そうですよ。その顔です。きっと笑顔でい続けたら、芳さんも自分自身を好きになれますよ。」
俺が保障します、と自信たっぷりに直己は答えた。根拠のない話だと、聞いた心が何処かでそう呟く。だが、ただニコニコと笑って芳は思考を止めた。
「あ、そうだ。今度良かったら、一緒に動物園行きませんか。って、芳さんが嫌じゃなけりゃ…ですよね。」
「動物園…、良いですね。」
「マジですか!! じゃあ俺、絶対休み取りますんで!! 是非行きましょう!!」
立ち上がって芳の手を取り、直己ははしゃいだ。とても素直な、喜ぶ笑顔が今、芳の目の前にはある。芳の胸は羨望が充満し、嫉妬で破裂しそうだった。
直己はにやけて、微笑む芳を眺めた。物憂げな芳の横顔も確かに惹かれる綺麗さはあるが、やはり笑顔の方が魅力的である。直己は自分が傍にいて芳を笑わせてあげられたら、きっともっと自然な笑顔で幸せに出来ると信じていた。
積極的に芳は話に乗って来ないが、少々強引にでも自分がリードして、芳を楽しませる。そんな使命感を抱いて、直己は動物園行きの段取りを芳の前で進めて行った。大まかな道筋がついた所で、後は当日に決める事にし一先ず話を終える。
「それじゃあ、俺はこれで。」
「はい。こちらこそ…有難うございます。」
取り繕った笑顔は重く、芳の顔面は引き攣ったままだ。本当にこれで笑えているのか、未だ疑問が残るばかり。
席を立ち、お互いに挨拶を交わして別れる。
くるりと振り向き、親指を立てて直己は芳に見せるように伸ばした。
「やっぱり、芳さんの笑顔サイコーですっ!」
嬉しそうに直己が言う。薄っぺらな表情の芳は無言のまま直己に、自分自身良く分からない笑顔を向けて返した。
部屋に帰りついた途端、突っ伏すように芳はベッドへ倒れこんだ。
『また今度!! 俺、良い店知ってるんですよ!!』
直己の声が頭に響いている。芳も断り切れずに会う約束を交わしてしまった。
もうすぐ祐河も帰ってくる。待ちに待った日だ。その筈なのに、今は気持ちが浮かない。
直己と共に居た間は、考える間もなく振り回された。仕事をしている間も、仕事に専念して何も感じなくて良い。しかし。
考えちゃダメ。考えちゃダメ。考えちゃ…ダメだ。笑ってなきゃ…。呪文のように何度も繰り返す。
それでも。
「……ャ…。」
小さく。ごく小さく芳は鳴いた。
翌日も仕事をしに、マスターの元へ訪れる。入り口のチャイムが可愛らしく音を立ててくる。開店前の店内はいつもながら、暖かい香りと雰囲気で満たされ、出来立ての朝食が芳を待っていた。
「おはよう。今日も一日宜しくね。」
「はい。こちらこそ宜しくお願いします。」
芳の担当する簡単な開店準備を済ませ、マスターの用意してくれた朝食を頂く。ニコニコと微笑を崩さずに、芳は小さく皿に手をつけた。
「…ご馳走様、です。」
いつにもまして、芳の食は細くなった。薄っぺらな笑顔はずっと顔に張り付いたまま。それを見ていたマスターは僅かに眼差しを変え、芳に訊いた。
「何が、あったんだい。」
笑っている。が、眼は死んでいる。そんな風にマスターには感じられた。何より食の細さが如実に芳の異変を知らせている。
「なにも。ないですよ。」
ニコニコと乾いた声で芳は言う。
「言いたくはないんだね。」
厳しい眼でマスターが言った。芳はハイともイイエとも言えずに、ただ笑っている。
ひとつ深く、マスターは息を吐いた。何も言わない芳の代わりに、その理由を探り、芳との記憶を推測の計りに掛けていく。
「そう言えば、前に同性愛について訊ねていたね。」
人が人を好きになる。芳が拒絶するなら何についてか。その源とは。思い当たるまでにはそう時間もかからなかった。
店の準備はさておき、マスターは真正面に芳の前に腰を落ち着けた。
「稲見くん。君は田沢君の事をどう思っている?」
言われた意味がよくわからず、芳は困惑する。
「好きかい?」
素直に芳は頷いた。
「だったら、その好きだと思う自分の心も、君は嫌いなのだろうか。」
言われて、芳は答に詰まった。こんな自分が祐河を好きと想う事自体、祐河にはやはり迷惑なんじゃないかという懸念が消せない。
「もしくは、田沢君を好きだと思う人物を、稲見くん、君は嫌な奴だと否定するのだろうか。」
「…え、」
それは。
「つまりは君自身という事だよ。客観的に自分という存在を切り離してみて、自分と同じように田沢君を好きだと感じる、稲見芳という人物を、君は嫌な奴だと思えるかい。」
回りくどい説明をマスターは続けた。芳は混乱気味に頭の中で整理を続ける。それでも、すんなりと納得出来るまでに至るのは難しい。
「誰にでも、自分自身を嫌う心はある。けれど、全てじゃない筈だ。」
いつもと違って真面目な表情で、真摯にマスターは芳に眼を向けた。
「口にする時は大抵、片方の感情しか言わないものだよ。でも、本来両方存在するんじゃないのかな。」
嫌い、と思うのは。好きな自分の姿をちゃんと描けるから。好きだと思う自分の姿が有るのなら、その姿に近づけるように努力をすればいい。そしてそれは、己を嫌って卑屈に下を向く事ではない。
芳は大きく双眸を開いた。
「まあ、そう簡単に割り切れるものではないからね。感情というものは。」
僅かにマスターも眼差しを緩めた。固まった芳の心が少しでも解れてくれれば、と願って笑顔に変える。
「私もそうだが。田沢君だって、君が幸せを感じて生きていってくれる方が嬉しいと、きっと思っているよ。君だってそうだろ? 稲見君。」
祐河に幸せになって貰いたい。マスターの言った事柄よりも即座に、祐河の存在が芳の胸に浮かんだ。
もう開店時間はとっくに過ぎている。それでもじっくりと、マスターは芳に向き合って話をした。
「苦しくなったら、同じ所ばかりを見ていないで違う方向を向いてごらん。嫌いな部分ばかりを見ているより、気持ちは楽になれるだろう?」
視点を置く位置で、捉える物事の見方は変わってくる。自分自身を好きになれなくても、そんな自分を受け止めればいい。受け止めるのが難しければ、そんな自分というものが存在する事を認めればいい。言葉は違えど同じ事だ、とマスターは継ぎ足した。
「ごめんなさい…、でも有難うございます。」
芳も、言われた内容の全てを理解した訳じゃない。だが今度こそ、卑屈さに埋もれ俯いた心顔を、上げて芳は答えた。
それと共にドアベルが鳴る。タイミング良く来客を告げる音色に、芳もマスターも同時に目を向けた。
「もう良いかい?」
顔を覗かせていたのは常連客だ。openを確認する仕草に、急いでマスターが迎え入れる。
「どうぞ。御待たせ致しました。」
「悪いね。」
定席へ案内した後、カウンターの側にいる芳の所へ戻ってくる。マスターは顔を見合せ、再度口を開いた。
「もっと言えば、自分自身を『嫌いだ』と思っていてもいいんだよ。ただ、自分自身を『嫌い』でも、どの感情を選ぶかは自分次第だ。」
だから幾らでも、人は変わっていける。どんな自分でも、否定せずにより良い方向になるように変えていけばいい。それを信じる事が大切だと、言いながらマスターは珈琲を淹れにカウンター内へ入っていく。
「さあ、今度こそ。話はこれくらいにしよう。看板を表に返して来てくれるかい。」
「はい。」
芳も元気に答え、仕事をする為に動き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。