第4話 自分が嫌い、な気持ち
部屋に戻った芳は一人、ベッドの上に座っていた。震えが止まったのはもう明け方になろうとする頃。漸く落ち着けたと感じられるまでになって、芳はやっと顔を上げた。閉じ籠ったままの心に、昔と同じ嫌気が芳の胸を襲う。
此処に来てからずっと傍にあった安心感。その源となっていた存在。
祐河が居ないと言うだけで、こんなに脆くなるなんて。今は訳の判らない不安で胸が潰れそうだ。
「…早く帰って来てよ。」
不意に、ピピピッと電子音が鳴った。目覚ましの音だと気付いて、のそのそ体を動かす。
仕事に行かないと。それが唯一、今の芳の支えであった。
店に到着すると既にマスターが珈琲を沸かしていた。
「おはようございます。」
芳の挨拶に気軽にマスターも返事をする。
「ああ、おはよう。…寝不足、かな。」
芳の眼を見て即座に呟いたマスターの言葉に、ビクッと体が反応する。
「あ、…はい。済みません。」
芳は伏目がちに視線を逸らした。構わないよ、と笑ういつも通りの声が優しく芳を受け止めた。
だがそれも、怖いような苦しいような、そんな不可解な感情を芳にもたらす。
朝食を用意するマスターの代わりに店を開ける準備をしながら、芳はそっと溜息を吐いた。
「今朝はおまけでフルーツを付けておくよ。」
「い…いえ、普通で大丈夫です。」
いいから、とマスターは用意した器をそのまま芳に差し出す。
余ってしまったので、食べて貰った方が有難い。と、マスターも同じく切り分けた一切れを口に運んだ。
「そろそろ次のシフトを組んでおこうかと思っているんだが。稲見くんは休みの希望、あるかい。」
「ぁ、いえ。」
「そうか。じゃあいつもの様に振り分けておくから。都合の悪い日があったら言ってくれ。」
「はい。」
仕事の話を中心に、マスターとの会話を繰り返す。漸く、芳も気持ちが日常に戻っていった。
繁忙時間を過ぎ、一息ついた頃。胸のもやを振り切ろうと、芳は大きく息を吐いた。
「お疲れ様。今日もよく頑張ってくれたね。」
見ていたマスターが暖かい声を掛ける。そんなマスターの眼差しに、芳も笑って返そうとした。だが、泣きたい衝動が不意に芳の胸中を襲う。
優しい眼差し、だ。意識する気は無いが、同じく優しい直己の眼を思い出すと、何処か胸の内が苦しくなる。友人としての好意の眼差しと受け取っていればいいのだろうけれど。
思わず潤んだ芳の双眸に、一瞬マスターは驚きを見せた。が、直ぐに変わらぬ口調で休憩用に一杯の珈琲を差し出した。
「はい、どうぞ。少しリラックスしよう。」
涙を零さぬよう言葉を飲み込む芳は、お礼の代わりに頷き返した。カウンターに座って温かい珈琲に口付ける。
「いつでも気の向くまま、此処で吐き出すといい。」
遠慮はいらないよ、と頭を撫でる手が温かく芳を癒す。芳は伏目がちに、抱えている直己の事とは別の話をマスターに呟いた。
「男同士で恋仲なんて。やっぱり世間から外れてますよ…ね。」
男である自分を愛していると言ってくれた祐河を、変人だとは思ってない。
「人が人を好きになる。素敵じゃないかい。」
マスターは何の躊躇いも無く、そう返した。釈然としないままだが、芳はマスターの気遣いに感謝していた。
「そう…ですね。そう言ってもらえたら、少しは気持ちも楽になれますよね。」
少し勇気を貰ったように思う気持ちに、顔を上げて、芳は笑った。
笑ったが。それでも、祐河を男だと初めから知っていて恋している自分と、男から性欲対象に見られる自分には、どうしても気色悪さが纏わり付く。
芳の心の本音は、言葉どおりに頷けなかった。けれど、芳はその事から眼を背けた。
「気持ちを楽に…気楽が一番、だよ。」
「有難うございます。」
声を掛けてくれたマスターに、はにかみつつも礼を言う。顔を上げて前に進もうと、芳は決めた。もう一度直己と会って、ちゃんと話をする。そして気持ちをすっきりさせる。すっきりするかどうかは…わからないけれど。
そんな思いを胸に秘めて、芳は仕事を終えて帰宅した。
後日、連絡を取って芳と直己は前回と同じ駅前で落ち合った。
「この間は本当に済みません。」
「謝らないで下さいって。」
困った事に、ずっと芳は謝り続けている。お礼がどうのというより、直己に迷惑をかけてしまったと、深く落ち込んでいる様だった。
「届けにいくと言い出したのも俺だし、その前に勝手に傘を貸し付けたのも俺だし。」
芳が謝るような事は何もないと、どう説明すれば納得してくれるのか。
事情を聞いて、直己は芳の心中を察した。ルームシェアの相手が今は留守で、少し心細くなっていたから。芳の動揺は全て、その所為だったと一人納得する。
嫌われてた訳じゃない。不謹慎だが、直己は心の中でそう喜んだ。また、独り暮らしだと、嘘を付かせてしまったのは自分かもしれないと反省もした。
「お互い様、ってことで。」
芳がそう謝るなら同じ位俺も謝らないといけませんね、と直己は笑って制した。
「……栖原さん、」
未だに瞳の輝きは沈んだままだが、芳は顔を漸く上げた。その澄んだ瞳に、直己は一瞬で釘付けになる。
芳に…どんどん惹かれてしまう。ルームシェアの相手とはどういう関係なのか、直己には分からない。だが代わりに自分が芳の力になりたいと、強く願ってしまった。
「俺、どんなことでも良いですから、芳さんの力になりたいんです。」
力になれるだけで嬉しいのだ、と輝く双眸が芳に向けられた。その眩しさが、余計に辛くて。炙り出された陰が悪心となり、芳の胸を突いて出る。まるで心に棘が生えたみたいに思えた。
「僕なんかの何処がいいんですか。」
卑屈な気持ちが、芳の中でざわついている。直己は機嫌を損ねたんじゃないかと、庇う様に言葉を重ねた。
「芳さんは自分じゃ気付いてないかもしれませんが、とても素敵な人ですよ?」
優しいし、気遣い出来るし、何よりその純粋さが直己には愛らしくて、綺麗だと感じていた。
「…それは栖原さんの…買い被り過ぎです。」
善意を向けてくる直己の眼差しが、芳には痛かった。自分はそんな人間じゃない、と否定する心の奥の声がずっと芳を苛み続けている。
直己には殆ど聞こえない様に、芳は胸の内を吐露した。
「…僕は自分が嫌い…ですよ。」
目を合わせない芳の仕草とその言葉。少なからず直己には
「自分が嫌い、だなんて言うな!!」
思わず直己は怒声を発していた。芳の言動を窘めたいという思いに、偽りは無かった。だがその声音に驚愕する芳は、眸を強張らせて身体を縮こませる。
「俺はあなたが好きなんだ。だから、そんな悲しい事言わないでくれ。」
直己の嘆願に、芳は怖じ気ながらも小さく頷くしかなかった。
少し、気不味いままに時間が過ぎる。直己は沈黙する時間に苛立ち、後悔した。何とか雰囲気を改善しようと思い悩み、頭を下げた。
「あの…済みません。怒鳴ってしまって。」
「…いえ。」
直己が悪い訳じゃない。それは痛い程、芳も理解していた。それでも。
「俺は正直、芳さんに嫌われてるんじゃないかって。」
「そんなこと…無い、です。僕は素敵な方だなって、思ってました。」
直己に対しては、素直にそう感じられる。けれど、卑屈で愚かで身勝手な…そんな自分をどうすれば好きになれるというのだろう。
苦しい。心が悲鳴をあげている事を、それでもまだ芳は気づかずにいた。
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