第3話 罪悪感という魔物
芳自身、財布が無いのに気付いたのは、店に着いてからだった。
何処で落としたんだろう。芳は顔面蒼白で焦る。
「あ、」
記憶を辿って思い出したのは、借りた傘を入れて返す為に持っていた袋の中だった。買物時にすぐ出せるようにと、財布をそこへ移した。芳は自分の行動を恨めしく思う。
今はきっと直己が持っている筈。
どうしようか。迷うまでも無い…事だ、けれど。ぐるぐる思考は逡巡するばかり。
踏ん切りがつかない。祐河から貰った、御守りのような物だったのに。
「………。」
気が重くとも、連絡を取らなければ。
「………。」
会ったのは数時間前で、別にどうという事は無い筈なのに。
「…仕事、しなきゃ。」
動かない指に芳は溜め息を吐く。見切りをつけ、言い訳する様に芳は仕事へと逃げた。
そうして、その日の終業時間をとうとう迎えてしまった。
溜息混じりに、芳は時計を見つめた。仕方なくもう一度直己に電話を掛けようと、芳は試みる。時間も遅いので失礼かと感じながら、コール音を耳にして。
もう切ろうかと思ったその時。
『…はい?』
「あっ、…あの」
声が詰まって、言葉が出ない。焦れば焦る程に、胸の内側が凝り固まっていく。
『芳さん…ですか?』
訝るような声は、落ち着いて芳に問い掛けた。
「…はい。」
消えそうな程、小さい声で芳は頷いた。直己は普段と違って冷静に、まだ仕事中である事を告げ、手短に用件を求めた。
少し突き放された様に感じて、芳は僅かに溜め息を吐いた。
「…ぁの…その…」
どうして、と可笑しな位、気持ちが不安げに揺れてしまう。
『2時頃には俺も一旦自宅に帰りますので、その時でいいですか。』
「ぇ…あ、ぁの」
直己の言葉に、理解出来ない芳はただ戸惑うばかりだ。焦っている様子が伝わっているのか、クスクス笑う声も向こうから聞こえる。
『財布、無いと困りますよね。』
不都合が無ければ自宅まで届けます、という直己に、曖昧に芳は頷いた。
そして。
表札は『田沢祐河』となっていた。
部屋番号と名前の不一致に首を傾げ、直己は怪訝に顔を顰めた。
「此処…合っているのか?」
予定していた時刻より早く、仕事を抜けられた直己は芳のマンションへ来ていた。芳から聞いた住所も、建築物の特徴も合っているのだが。
間違った住所を教えられたんじゃないだろうか。そんな一抹の不安が、直己の心を過る。
芳の名が見当たらない理由を、階間違いや名字違い等の可能性で考えてみたりもした。それでも今はっきりとする物は何もない。
戸惑いながらも、インターホンを押す。
「…はい?」
応対に出たのは、確かに芳だ。
間違っていたのは、名前なのか。少し落胆しながら、直己は届け物の財布を手に、芳に挨拶した。
「こんばんは。」
直己の顔を見て、芳も安堵したように表情を和らげる。
「夜分で済みません。」
「そんなこと、無いです。」
わざわざ足を運んでくれた直己に、申し訳無さそうに芳は頭を下げた。
「ええぇと…。芳、さん?でいいんでしょうか。」
どうしたものか、と思案する。『稲見芳』が本名じゃなかったら、どう彼を呼んだらいい?
困った顔をして直己は笑いながら尋ねた。
「本当は田沢…祐河、さんなんですよ…ね。」
きょとん、と芳は直己を見返した。
妙な間が、二人を包む。
「え…と、あの、ち…違います。」
否定するものの、直己の口から祐河の名が出てくるなんて、想像外の出来事だった。動揺を隠せずに芳は直己に視線を返した。
狼狽する芳の表情に、直己もそれ以上問う事が出来なくなる。
「あの、これ。お探しだったんでしょう?」
直己は手にしていた財布を芳に差し出した。恐る恐る受け取る芳に、笑顔を向けて一歩下がり、声を掛ける。
「じゃあ、俺はこれで。」
会釈し、直己は踵を返した。此処に長居をしても、多分芳には迷惑だろう。
そう割り切るしかなかった。
廊下を振り向きもせず、淡々と歩いていく。未練が踵を重くするが、立ち止まる訳にもいかない。真っ直ぐ顔を上げて、直己は去っていく。
「あ…有難う御座います。」
必死で、去る背中に芳は頭を下げた。一瞬だけ、直己も会釈し返す。でもそのまますぐに歩き進んで、直己の姿は見えなくなった。
芳は立ち去った直己の後ろ姿に、茫然とした。自分は何をしているんだろう、と。わざわざこんな遅い時間であっても、直己は届けに来てくれたのに…。
気付けば、芳も直己を追って前に踏み出した。
追い付くのにそう時間はかからない。マンションを出ていく所の直己に向かって、芳は叫んだ。
「待ってください!!」
息急き切った芳の声に、直己が足を止める。振り返るその表情は、吃驚に目を丸めて芳を見返す。
「どうしたのですか。」
立ち尽くす芳に、ただ素直に直己は問い返した。
「あの…っ、その…。済みません。」
それじゃあ何も分からないと直己は笑って、芳が落ち着くのをそっと待ってくれる。
「済みません。わざわざ届けて下さったのに、何もお礼出来なくて…。」
「いいんですよ。」
ただその事を言いに追い掛けて来たのか。少し呆れながらも、芳の行動が直己は嬉しかった。
「もう遅いですから。」
緩やかに肩に手をかけ、部屋に戻るよう芳に促す。直己も帰って少し仮眠を取ればまた、仕事に戻らなくてはならない。
「今度、ゆっくり話を聞かせて下さい。芳さんの。」
芳の体を反転させて建物の中へ押し戻した。
戸惑う双眸は今にも泣きそうに震えている。そんな芳の眼に見送られつつ、直己は手を振る。
「じゃあまた。」
向き直り、直己は夜道を歩き始めた。
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