五月の花が咲く頃に
テイカカズラと恋想う君へ
小さなリースを腕輪にして、軽快に扉を開ける。珈琲の香り、馴染みの曲にいつもの顔が出迎える。
「お帰り。」
「ただいま。」
頼んだ買い物以上に大きな、木の枝を抱えて芳は戻ってきた。両手に抱えた荷物に埋もれつも、芳は合間から必死で顔を覗かせた。
「貰っ…ちゃった。」
どうしたんだ、と聞かれる前に芳は祐河に告白した。枝の先には鈴生りで白い花が付いている。
「ウツギだね。」
カウンターから見ていたマスターが、即座に答える。花名の正解に芳は目を丸くして驚いた。芳自身は、花枝をくれた人から初めて聞いて、知った位だ。
「腕に巻いているのは?」
買い物袋を受け取る祐河が、もう一つの植物に気付いて声を掛ける。芳も少し胸弾ませ、少し気恥ずかしげに応えた。
「テイカカズラ、って言うんだよ。」
小さく細い五弁の花びらが、風車の様に開いていた。花はジャスミンにも似て、香り良く感じる。
折角だから壺生けにしようと、手頃な大きめの筒箱をマスターが持ち出す。テーブル席の一角に据えて、ウツギの枝を差し、形を整える様に広げた。
「これも…可愛いな。カウンターに飾るかい。」
芳の腕に絡まった蔓を指差し、軽い気持ちで祐河は訊いた。芳も頷くと、そっと自分の腕から外して祐河に渡す。
「ねぇ知ってる?」
受け取った草蔓の形を整える祐河に、少し得意気な眸で芳は話し掛けた。
「テイカカズラって名前は、藤原定家のお墓に咲いていたからなんだって。」
「へぇ。」
初耳だと祐河は笑った。
「昔、藤原定家を好きになった女御が、死んでからも一緒に居たい、ってお墓を取り囲む様にこの植物に姿を変えたんだよ。」
少し興奮気味に語り、熱い視線を祐河に送る。
「そこまで恋人を想うって凄いな、って。」
素直な気持ちを芳は口にした。
「祐河は、好き?」
祐河にも、そんな風に想って貰えたら…甘い期待に胸を膨らませ、芳は祐河の答を待った。
「俺は…どちらでもないかな。」
愛する人とはずっと共に居たい。けれどそんな風に束縛するのが怖い。その怖さがどうしても、祐河の胸中から消えずに抵抗している。
「そ…っか。」
自分の考えの甘さに、芳は落ち込んだ。吐き出した頷きは、どれだけ明るく笑ってみても、何だか重い。
「そう言えば、こんな話があるな。」
唐突にマスターの声が二人の間に割り込んだ。沈む空気に芳はマスターを注視し、祐河も耳を
「ある女性が渓流を歩いていてね…」
そんな風にマスターは話し出した。
そこは小さな川だった。川幅も数メートルしかなく、渓流に沿って道路が続いている。歩き始めた動機はある意味ただの気まぐれで、軽い気持ちで彼女は川へ降りて上流に向かってみた。
進むにつれて両側は樹木が生い茂り、日が遮られていて先は暗い。足元の岩は砂岩か、もしくは泥岩で出来ていたのだろうか。乾いた所は白っぽく見えるが、水に濡れた部分は黒くて、緑陰と相俟って闇の世界に迷い込んだみたいだった。
彼女はそんな中を、滑らないように足下を見ながらただ、ひたすら歩いていた。頭上高くなってしまった道路に戻るには、歩いてきただけの距離を引き返さないといけない。でも、この先の上流部でまた道路との高低差が少なくなる事も知っている。歩き進むことを決めて、彼女は人の寄らない川闇に乗り込んでいった。
不意に、だ。足下ばかりを見ていた眼に白く斑に、浮かぶ物が映り込んだ。背景が暗いから、尚のこと鮮明に浮かび上がったのだろう。まるで星が降っているようだった。よく見るとそれは落下した花だった。足下に散らばる白い星の花は、彼女の眼に綺麗に瞬いている。
彼女は立ち止まって、真上を見た。
そして息を呑んだ。目の前には無数の星が鈴生りに花開いていた。
言葉に現せぬ程、暗い空に瞬く満天の星以上に、清く美しく生命に溢れていた。鮮烈に魅せられて、胸が詰まる思いがした。涙を零しはしなかったものの、言葉を失う衝撃は彼女には初めての出来事だった。
心に焼き付いたその美しさが今でも忘れられないという。もう一度この目で見たい、と望むこともある。
しかし、例え同じ時期の同じ場所で同じ状態に咲くその花を見上げても無理なのだ、と彼女は言う。
一度焼き付けてしまったが故に、もう二度と同じ鮮烈さで感じることは出来ないだろう、と。
「それで…?」
どう話が繋がるのか、よく分からなくて二人は顔を見合わせた。恐る恐る掛けられた問いにマスターは照れ笑い、言葉を続けた。
「いや。君達の話を聞いていたら、ふと思い出してね。」
余談で、先程の話に出てきた星の花は〝エゴノキ〟という名の樹木。実には毒があり、かつては擂り潰して川に流し、魚を気絶させて獲る漁があっとたという。現在は勿論禁止されているが。
「樹の名がエゴノキというのも、面白いね。」
エゴは自己、自我。利己主義の代名詞とも繋がる。
「敢えて言うなら、人の感じ方は様々だ、という所かな。」
相変わらず的を得ているのかよく分からない答に、二人は愛想笑いをした。
「美しいものを見て感動する、とよく言うが。感動の根源にある情は、嬉しい・楽しい、ばかりではないからね。」
芳はやはりよくわからずに、困惑の笑みを浮かべている。祐河はそれを聞いて何となくだが理解できた気がした。先日に見たあの絵画を思い出し、一人そっと微笑う。
「さあ、閑談はこの位にして、仕事の続きだ。取り掛かろう。」
マスターは二人を追い立て、珈琲豆を取りに店外へ出た。その老いた背中の小ささに、祐河はハッとした。
今は無き百合の花が『忘れないで』と囁いている。そんな錯覚を見て、申し訳なさが胸中に広がる。
「祐河?」
芳が祐河の顔を覗き込む。祐河はそっと心の中でマスターの背に頭を下げた。
「さあ、頑張ろう。」
「うん。」
芳も祐河と微笑を交わして互いに動き出す。
何事もない日常の有り難さを、身に染みて感じるからこそ、出来る話なのかもしれない。
もう一度、と感じる想いの中に、二度とは廻り合えないと気付く自分がいる。その一瞬が永遠であっても、無常であることの儚さが心に染み入る。
そんな気持ちを胸に、互いの笑顔が溢れる店は今日も穏やかに有り触れた一日を紡いでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。