「天華蓮郷」 絵画鑑賞より

絵画と彼の眼差し

 F150号キャンバスに描かれた群像画は、壁に一点だけで掛けられていた。蓮花シリーズの一つに数えられている絵画だという。

 画伯は宗教を題材とし、尚且つ自由奔放に描くのを得意としている。かなり異端視されていたものの、独特の世界観に魅了されたファンが多いのも事実だ。


 彼は、ふらりと現れて、画伯の描いたその絵画に見入っていた。

「画伯の絵を御覧になるのは、初めてですか。」

 柔らかい物腰で画廊のオーナー、肆嶋美子は彼に声を掛けた。彼の見た目は若く、20代だろうと推測できる。声を掛けられても長く彼は絵画を見続け、5分は経過した頃に漸く美子の存在に気付いたようだった。

 戸惑った眼が狼狽えて、彼は軽く会釈する。そして、足早にその場を立ち去った。受付に戻る美子は、カウンターに座っているスタッフに首を竦めて見せる。

 少しくたびれ気味の黒っぽいシャツ。剥げたヨレヨレのジーンズ。ジャケットも黒色だったが、襟・袖口は伸びて色が抜けていた。

 彼の身形はお世辞にも、整っているとは言い難い。

「済みません。」

 受付嬢は美子に頭を下げた。

 いつ彼が画廊に入ってきたのか。誰も気づかなかったらしい。確かに今日は人の入りが多く、それで把握しそびれたかもしれない。

 平日だが、こんなに来客者が多いのは珍しい事だった。



 翌日も、彼は画廊の前にいた。服装は昨日と同じだった。外から硝子越しに、随分遠目であの絵画を見つめている。

「いらっしゃい。どうぞ入って、近くで御覧になってください。」

 美子は彼に向かって扉を開いた。

 気恥ずかしげに会釈をし、彼は開かれた扉を通った。真っ直ぐに進み歩き、あの絵画の前に立つ。じっと視線を絵画に向ける。それから数時間、彼は微動だにしなかった。

 人の出入りが激しくなった頃に、いつの間にか彼の姿は消えていた。美子は軽く溜め息を吐き、彼が見ていた画伯の絵画を見つめる。

 美子もこの絵は好きだった。繊細で緻密に描き込まれているのに、全体は大胆な抽象的イメージを受ける。きっと使われている配色の所為だろう。

 中心部に向けて明るくなっていく色彩は、舞台の一場面…光が灯された暖かさがあった。その筆遣いが豪快に感じる一方で、丹念に一人一人の表情が読み取れる。

 長く観ていても飽きない、そんな絵画だった。



 三日連続で、彼は画廊を訪れた。

「あの、今日も観させて貰っても…良いですか。」

「え…あ、はい。どうぞ。」

 当番にあたっていたスタッフは、最初驚いたものの直ぐに、にこやかに彼を中へ案内する。今度は少し深く御辞儀をし、彼はこの日もあの絵画の前に陣取った。

「…今日も、来ているの?」

 画廊に着いて早々、美子は彼の事を訊いた。こうも毎日現れるので、すっかりスタッフの間でも話題になっていた。

 真摯に絵画を見つめる彼は、先日とは違っていた。おざなりだった着こなしは、改善されて襟元を正してある。同等の古着とはいえ、彼の出来得る限りの正装なのだろう。そう、美子は受け止めた。

 何より、幾分か彼の絵画を見る眼差しが、穏やかになった気がする。描かれた群像の一人一人を丹念に見つめて、感嘆の息を漏らす。そんな視線の動きに美子はもう一度、彼に声を掛けた。

「気に入られましたか。」

 彼は無言だった。後、力を抜いた微笑を、彼は浮かべて呟いた。

「有難い。」

「有難い…ですか。」

 彼の言った意味が、美子にはわからなかった。神仏画や曼荼羅などは、他にある。崇拝の意味で観るものとしては弱く、どの人物も等しい存在感で扱われていたからだ。

 何に感謝をしているのか、彼の心境は測りかねた。けれど、それはさておき美子はこの絵画の謂れを彼に話し始めてみる。

「この絵画は副題に『竿頭会』と銘されているんですよ。」

「竿…ですか。」

 不思議さに彼は問い返した。

「ええ。一人一人の立つ蓮葉の下に真っ直ぐ伸びる茎が描かれているのが、お分かりになりますか。」

 彼は眼を凝らし、そっと頷いた。蓮葉すらも周囲の色彩に溶け込んで、よく見ないと気づかない。

「百尺竿頭進一歩、という禅語よりインスピレーションを得て描いたと言われております。」

 意味は『竿の先に立ち、そこから尚且つ一歩前へ足を踏み出せ』というもの。『百尺竿頭』とは、これ以上先が無いと言う究極の境地を指している。

 少し納得した顔で、彼は再度眼を蓮葉の茎へ向けた。中央で明るく笑顔を湛えている三人の人物像。その表情が素に等しく、心から滲み出ているものであると感じられた。誰をモデルに描かれたかも、直ぐにわかる。

 またその周囲の人物達も同様に…しかしまだ、迷いのようなものも表情から感じ取れる。

 外へ向かう程に暗い色彩には、苦悩に歪む顔が千差万別に描かれていた。

 改めて、彼は一人一人の人物を追った。湿潤する瞳が、この絵画の全てを焼き付けようとしている。美子は彼の動作が心に掛かり、釘付けになる。

 眼を閉じた彼が俯いて、溜めた息を吐き出すのを見届けてから、美子は静かに現実を伝えた。

「明日でこの個展は最終日になるのですが。」

 彼は明日も来るのか、期待と不安が美子の胸に過った。

 それを聞いた彼は、僅かに顔をを綻ばせた。しかし眼差しは、落胆の陰りを見せていた。

「俺みたいな者に、観覧する機会を与えて下さって、感謝します。」

 へりくだる彼の態度に、美子も困惑しながら微笑みを溢す。

「また画伯が展覧会を開かれる際に、御案内状をお送りしたく存じますので。」

 来客者名簿の記帳をと、美子は彼を誘った。しかし彼は首を横に、記帳を断る。

 取り付く島の無さに、美子はこのままではいけないと焦った。

「御名前だけでも構いません。」

 いけませんか、と尋ねる美子に、彼は無下に断れない雰囲気を悟ったようだ。困った眼眸が美子を見ている。

「田沢と言います。」

 観念したか、彼は己が名を美子に答えた。稲田の田にさんずいの沢で良いのか、字を尋ねつつ、下の名もと美子は求めた。

 彼は美子の手を取り、握られた手帳に直接、祐河、と書き込んだ。

 そうして彼は画廊を後にした。

 二度と逢わないかもしれない。彼の背を見送りつつ、美子は少し後ろ髪を引かれる気がした。

 彼の眼差し、彼の表情。

 思い浮かべて美子は、祈る様に手を合わす。彼の人生が幸福に満ちていくように。細やかながら強く心に秘めて願った。






 そして今日こんにち


「久しぶりだね。」

 その後に小声で「デート、だよね?」と囁く芳は、祐河の眼を見てはにかむ。

 デート、に出掛けたのは随分前。もう2ヶ月以上は経っていた。芳は浮かれた顔で、嬉しそうにエスカレーターを昇っていく。

「ああ。そうだな。」

 笑って祐河も芳に返す。二人揃っての外出は、少なくはない。とはいえその殆どが、スーパーへの買い出しや店の仕入れ配達等、仕事での事。

 祐河ははしゃぐ芳を見て、チケットをプレゼントしてくれたマスターに感謝をする。

 百貨店の催し会場で行う絵画展に、祐河達は向かっていた。展示即売も行っているらしい。常連客からの差し入れだと、招待チケット二枚を祐河に渡して、マスター自身はドライブへ。新しい豆の試飲に、今頃は友人宅まで高速道をひた走っていることだろう。

 初めて足を踏み入れる催し会場に、祐河は覚えある人物の姿を捉えた。

 偶然は奇なるもの。

「あら。」

 設営を担当していたのは、肆嶋画廊だった。

 あれから五年は経過している。彼女は以前と変わらぬ美しさで、祐河に微笑を向けた。

「お久し振りです。」

 軽く祐河は会釈する。美子は嬉しそうに、祐河を出迎えた。



 会場内を美子は自ら進んで案内した。少し早い足取りに、芳は観賞する間が無く、仕方なしに付いていく。

 ただのスタッフに案内されているなら、芳も気持ちはまだマシだった。芳の知らない美子と話す祐河が楽しげで、下らないと分かっていても嫉妬する。

 絵画はそんな心を諭すような、美しい世界に彩られていた。

 進んだ先の奥の壁には、あの群像画が掛けられていた。

「あれからね。画伯にあなたの話をしたら、『この絵は非売にする。』とおっしゃられてね。」

 それからは画伯が展覧会を開く毎に、象徴のように飾っているの。と、美子は微笑んだ。祐河も同じく慈愛の眼差しで絵画を見つめる。この絵に再会出来た、その喜びを噛み締める。

 芳は一目見て、驚きに惚けた。圧倒的な人物のうねり、リアルに書き込まれた人々の表情、存在感。

 けれど何処か清々しいような、暖かいような、納得させられるものがある。

 初めて目にする絵の世界に、芳は感嘆の声をあげた。興味津々で、のめり込む様に観賞する。

「今日は御友人と、ですか。」

 いえ、と祐河は首を振った。

「俺の大切な人です。」

 祐河は芳を見つめて微笑んだ。その眼差しは他人が見ても妬ける位に、愛しみに溢れており、即座に美子は理解した。

「そう…ですか。今は幸せ?」

 ふと、そんな言葉が美子の袂から飛び出した。何故訊いたのかと思う程に、分かりきった事だった。美子は気恥ずかしさに少し紅潮し、微笑で祐河に誤魔化してみる。

 答を聞くまでもなく、祐河は力強く頷き、視線を再び絵画に向けた。

「彼にいつかこの絵を見せたかったんです。」

 その眼差しに、美子は心惹かれた。自分よりも遥かに年若い青年であることが不思議な位、思慮深い眼眸が愛しみに溢れたこの絵画を見つめている。

 不覚にも見惚れてしまった美子を引き戻したのは、他のスタッフの呼び声だ。慌てて美子は会釈しながら、祐河に詫びた。

「ご免なさい、どうぞゆっくり観賞していって下さいね。」

 爽やかに笑顔を残して去っていく。祐河も軽く頭を下げて、美子を見送った。


 芳は彼女が離れていくのを、横目でずっと見ていた。これで漸く祐河と二人…。

 ピト、と祐河に身体を寄せる。それでも祐河にすれば、長らく会っていなかった知人との再会だし。もっと話したい事とか有ったんじゃないだろうか。

 一人、勝手に申し訳無さが芳の中で際立ってくる。

「…あのね。」

 軽く頭を撫でてくれる祐河の指先に、芳は項垂れた。彼女はどんな人で、祐河とどんな関係で、それで…。

 知らなくていい。そんなことは、無理に訊く事無いのだから。

 しみじみと、芳は祐河に呟いた。

「なんかね。温かいね。」

 そのまま絵を見つめて芳が言う。

「あの子みたいに、笑えているかな。」

 中心に近寄る小さな身体。無垢な眼差しと無邪気な好奇心。顔を上げて笑っている赤ん坊が羨ましく、芳ははにかんだ。

「ああ。勿論だ。」

 スッと伸ばした手で、芳の肩を抱き寄せる。芳は祐河の暖かな心に、三人の内の一人、薔薇の花咲く荊冠を被った人物を重ねて、身を委ねた。

 きっと祐河なら多くの人に、暖かくなる気持ちを与えられる。

 自分はまだまだ子供、歩き始める前の赤ん坊みたいなもの、だから。

 そんな風に秘かに芳は胸の内で想った。


「行こうか。」

「うん。」

 芳は祐河に眼を移して頷いた。絵画を背に、二人はゆっくりと歩き出す。もう一度、僅かに振り返る祐河は、絵画の端に描かれた暗い群像に目をやった。

 あの頃よりも、少しは光ある中心に近付けただろうか。泣き叫ぶ狂顔よりも、耐え忍ぶ偽笑よりも。もう少し、穏やかに俺も笑える様になったかな、と。

 微笑を手向けて、祐河は去った。その背を、絵画の中の群像は静かに見守っている。

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