第3話 想い出に眠る記憶はいつまでも
車で帰宅したのは、昼前だった。義伯母が昼食の準備をしていた。出来上がるまで、伯父と共に父親の遺品を祐河は見ていた。
「これは裕文が建築士の合格発表時に撮った写真だ。」
多分、父親と母親が一緒に撮影されている、唯一のものだろう。祐河は手に取って、じっくりと見た。
その他にも、かつて父親が実家にいた頃に愛用していた筆記具やノート等、応接室のテーブル上に広げられている。
「祐河君、欲しいのがあるなら持っていきなさい。」
伯父も、惜しみなく祐河に両親の思い出になる物を与えるつもりでいた。
その申し出に、祐河は甘える事にした。けれど祐河にはあまり馴染みのない物ばかりだ。若かった頃の父親の姿は、祐河の中では他人の様で、記憶の面影と繋がらない。
そんな中でも心が惹かれたのは、両親が写っている写真と、父が描いたデザインが記されているスケッチノートだ。
二つを手に取り、大事に見比べる。
「両方でも構わないよ。」
躊躇う祐河に伯父は忌憚無く笑って勧めた。有り難く、受け取る祐河は胸中に収める。
「後のは良いのかい?」
「はい。」
淡々と祐河は答えた。確認を取ると共に、伯父は軽くテーブルの上を片付ける。
「渡したいものが、もう一つあるんだ。」
そう言い、暫し伯父は席を外した。その間、緊張する気持ちに手先が震えるのを、祐河は感じ取っていた。
今更…という苦さに自嘲する。そんな折に、僅かに芳と眼が合った。
「どうした。」
「ううん、何でもない。」
芳は素っ気ない表情で、視線を逸らした。
程なく伯父は戻ってきた。小さなキューブを祐河の目前のテーブルに置く。
「この中にも、裕文の遺骨が入っている。」
怪訝な表情の二人に、伯父は説明する。
「骨上げの時に作っておいたんだよ。祐河くんが訪ねて来た時に渡したいと思ってね。」
掌にしっくり収まる、白磁の小さなキューブだ。もっと身近に故人を偲べる様に。そういう物らしい。
シンプルな形は、祐河の手に渡ってから好みの装飾をすればいい、との伯父夫婦の配慮だった。
「有難う、ございます。」
気持ちの整理はまだ付かない。祐河は一先ず頭を下げた。
「さあそろそろ昼食にしよう。」
先程席を離れた際に、義伯母に声を掛けられたようだ。伯父は声を上げて、食卓へ祐河達を追い立てる。
「済みません。もう帰りのバスの時刻が近いので…」
色々世話になった引け目が祐河には有る。やんわりと祐河は身を引きたがった。
遠慮がちな態度を見て、伯父は強めに祐河の意見をを否定した。
「なんだ。俺が駅まで送るから心配無いぞ。」
「そうそう。しょっちゅう会える訳じゃ無いでしょ。新幹線の駅まで
いつの間にか義伯母も顔を覗かせ、口を挟んだ。ローカル鉄道ではなく新幹線の近郊駅まで、となるとグッと帰路の時間は短縮される。
甘えていいのだ、と伯父母夫婦は祐河に示した。
胸にくるものを飲み込んで、小さく祐河は頭を下げた。
「済みません。先にこれ、仕舞わせて下さい。」
「ああ、」
手持ちの遺品を見て、そうだね、と伯父は頷いた。
「ちょっと、待って。」
今度は義伯母が引き留める。思い付きでか、客間の戸棚の奥から一冊の本を取り出し、祐河の前で開いた。
「この手紙、きっと
本に挟まれていた一通の手紙を差し出す。祐河は戸惑いながら手に取った。表書きには、懐かしい字で母親の名が記されている。
「父さん…が?」
震える指先で、丁寧に便箋を開いて、祐河は中身を読んだ。
「…祐河?」
俯いて、小さく丸く祐河の背中が縮こまっていく。そんな気がして芳は、必死で掛ける言葉を探した。
「…ごめん。一人にしてくれ…今は。」
それだけを言い、祐河は芳に背を向けた。
手紙は。
もうずっと過去で、心の中で流してしまった遠い記憶も古い感情も、その一文が現在へ全て引き揚げていく。
『いつか真澄さんと一緒に…』
励ましで綴られた父の文には、母への愛情と思慕が込められていた。その想いに応えるように、小さく母の字で文末に書き添えられている。
涙が溢れ落ちる様を、祐河はひとりで感じていた。
芳は祐河を残したまま、廊下に出た。立ち止まった足は、どうするか迷っていた。
果たして祐河に付いてきて良かったのか。この1日が、とてつもなく芳には重い。亡き祐河の両親の存在が、壁となって芳の目の前に立ちはだかっていた。
芳はただ、ひとり蚊帳の外でずっと祐河を見つめている。
程なく客間から出てきた祐河は、一人離れて頂いた物を鞄に入れに仏間へ行く。
「…ゅぅ…っ」
声すらかけるのを躊躇った自分に、芳はより不安を感じた。
そんな芳を不意に襲う手があった。後ろから握り取られて芳は驚き、強引に腕を引っ込める。
咄嗟に振り向くと、祖母が芳を見上げていた。
「真澄さん。」
「ま…すみ?え、いえ、違います。」
慌てて否定したものの、祖母は気にせずにっこり笑みを浮かべ、芳に頭を下げた。
「どうか裕文の事、宜しくお願いします。」
丁寧に彼女は芳に頼み込む。一生懸命なその姿が、芳の胸に深々と染み込んだ。先程手荒に腕を引っ込めてしまった事が、申し訳ない気持ちになる。彼女をおかしいと思うよりも、ただ暖かい真心を感じて芳は涙が零れそうになった。
「お袋、ここに居たのか。」
芳より先に客間を離れ出た伯父が困顔で祖母に声をかけた。義伯母も気付いて、上手く祖母を宥めて連れ離す。
深く溜息をついて、伯父は芳に向き直った。
「ごめんな、芳君。お袋、少し認知症が出ているんだ。」
気を悪くしないでくれ、と謝る。その姿に困惑しながら芳も頭を下げた。
伯父と共に食卓へ移動してきた芳を捕まえて、義伯母はにっこりと笑う。
「芳ちゃん。ちょっといいかしら。」
「はい?」
嬉しそうな眼眸は輝き、携帯を手に取り出して芳に見せた。
「良かったら電話番号教えてくれない? 」
少し不機嫌そうに義伯母を伯父が見る。諦め気味の表情には、これがよく有ることなんだと、芳に伝えていた。
「祐河くんにも聞こうと思っているんだけど。ほら、13回忌の連絡や、他色々と…お互い知っておいたら便利でしょ?」
「…はあ。」
義伯母の勢いに押され、曖昧に相槌を打つ。
「芳ちゃんとも繋がってたら心強いし、ね?」
断る理由が見つからない。なんだか…他人の芳だけれど此処に居て良いんだよ…と手を差し伸べられた気にもなる。
「そうですね。分かりました。」
はにかみ笑顔で、芳は義伯母に了承した。
程なく祐河も食卓に顔を出し、揃った所で食事を始める。この半日で随分慣れたが、食事中でも伯父夫婦の掛け合いは賑やかだった。
そして唐突に義伯母の話の矛先が祐河へと変わっていく。
「でも本当に祐河くん、見違える位“イイ男”になったわよ。」
どういう意味だか、分からずに芳も祐河も聞き流した。
「元が良いんだ。当然だろ。」
自分もイケている、と少し自慢の入る伯父を交わして、義伯母はかなりとんでもない発言をした。
「あら、だって。最初の印象は根暗な子だなあ…と。」
「そう、ですか。」
悪びれないストレートな伯母の言葉に、一瞬だが祐河が不機嫌な表情になる。デリカシーが無いぞと伯父も諌めた。伯母も流石に前言を撤回し、慌てて言い直した。
「13年前は本当に子供だった。…と思ったの。」
逞しくなったのは、体つきだけじゃない。その表情も落ち着いて、何処か投げ遣りだった気持ちの影は、今の祐河の眼眸に見当たらない。
「きっと芳ちゃんのおかげね。」
そう言って、芳にも目配せする。きょとんとする芳の横で、祐河は照れ臭そうに白米を掻き込んだ。
あらかた食事が済むと、義伯母は弁当用に重箱を取り出してきた。
「今晩の夕食用に持って帰ってね。」
「え、でも…」
いいのいいの、と楽し気に詰めていく。戸惑いつつ、芳も指を伸ばし手伝っていく。横目でそれを見て、祐河は伯父に向き合った。
「本当に色々と世話になりました。」
深々と祐河は頭を下げた。此処へ着いた時より、遥かに気持ちは楽になった。
「いつでもおいで。気軽に電話も掛けてくればいい。祐河くんも、芳くんも。」
二人に声を掛ける伯父の眼差しは、とても温かだった。第二の故郷として、気軽に帰って来て貰いたい。何も力になれなかった過去から、今また絆を繋いでいける。
そんな想いを伯父の眼を見て、祐河は感じた。祐河もまた同様に受け止め、密かに微笑んだ。
変われたのは確かに芳のお陰…なんだろう、と。
「はい。しっかり食べなきゃ駄目よ。」
包み終わった重箱を義伯母は芳の腕に乗せる。ずっしりと圧し掛かる重みに芳は眼を丸くした。気づけば三段に増えている。
「は……はい。」
結局、義伯母の言いなりに押し切られてしまった。見るからに、食べ切れない。途方に暮れそうな丸い目の芳を置いて、伯父は朗らかに二人へ声をかける。
「じゃあ、そろそろ行くかい?」
「はい。」
祐河も晴々とした顔で頷く。別れる、という感覚は無い。またいつでも此処へ帰ってこれる。
立ち上がった祐河は、席に着いたまま自分を見上げる祖母の視線に気付いた。不思議そうな眼が、何処へ行くのか問う様に見つめる。
「ばあちゃん。また来ます。」
膝を付いて祐河は身を屈めた。椅子に座ったままの祖母をしっかりと抱きしめる。そんな祐河の背に祖母も軽く手を回す。
「ひろ……」
何か言おうとしたのか、半分開いた口をそのままに祖母は停滞した。随分長い間の後、ピクリと動いた手が再び強く祐河を抱き締める。
「…………ゆう…か、」
やっと気付いた本当の名を祖母は口から溢した。すぅと祖母の眼からもひとしずく、笑顔と共に輝く。
「…ごめん。ずっと、来れなくて…」
謝りたかった一言が、祐河からも零れ出る。包み込む祖母の手は母の様にたおやかで、祐河は自分の腕に心を込めた。
「お義母さん…」
思わず口元を押さえ、義伯母は涙声を飲み込んだ。伯父も固唾を飲む。夫婦二人とも、その光景には心底驚いていた。
予定よりも少し遅くなったが、伯父と共に祐河と芳は車に乗り込んだ。一路、新幹線の駅まで向かう。道中はスムーズに進み、無事駅舎へ到着した。
「また、連絡するからな。」
「はい。」
気を付けて帰れよ、とエールを受けて、祐河も芳も改札を通った。伯父に見送られながら、二人はホームへと上がっていく。
搭乗する新幹線が目の前に、緩やかに入ってきた。他の乗客と共に、開いた扉から中へと滑り込む。座席に腰を降ろして、動き出す車体の揺れや音に二人は身を傾けた。
不意に祐河は、芳へ呟いた。
「今日は、有難うな。」
「…え?」
聞き返すように、祐河へ振り向く。前を向いたまま、遠く見据えるような眼差しで、祐河は芳に言葉を続けた。
「芳が居てくれたから…」
来て良かった。そう素直に祐河は感じていた。そして、それが出来たのも、芳という存在が傍に有っての事。
祐河は躊躇いがちに、この先に望んでいる気持ちを芳に告げる。
「もう少し。迷惑を掛ける…」
「僕は何もしてないし。何の力にもなって…ない。」
芳は俯いて、淋眸を細めながら微笑んだ。
「芳。」
心に残る不安は拭えない。でも、祐河に泣きそうな顔は見せたくなかった。
「俺が…」
言い掛けて祐河は唇を噛んだ。気持ちは定まっているが、それを上手く表現できるか。また、芳への感謝を伝えきれるか。
自信は無い。だが思うままに言葉にしようと、祐河は静かに息を吐いた。
「俺は、離れ離れになった父さんと母さんをもう一度、一緒にしてやりたい。そう思っている。」
芳は黙って聞いていた。
「今度の事でつくづく感じたよ。父さんと、母さんを。」
祐河が育った家庭は、幸福だった。多分、全て失われるまでは。
そんな想像が、容易に芳にも付いた。
「芳は何もしていない訳じゃない。」
祐河は深く眸を閉じた。
一人きりだと間違いなく今、此処に自分は居ない。夕闇の流れる車窓に目を移し、伯父夫婦や祖父母との交流に想いを馳せる。
「俺に…付いてきてくれた。そのお陰だ、俺が父さんに向き合えたのは。」
「祐河、」
芳も顔を上げて、祐河を見た。
記憶にあるのは、仲睦まじく笑い合う父と母の姿。祐河がいつも目にして来た両親の面影。
あの手紙が祐河に思い出させてくれたもの。読み返せば、心臓がそれを覚えている。
「俺は、母さんの所へも行くつもりだ。今度は待っていて欲しい。いつ行くかは分からないけれど。」
「…うん。」
小さく肯く事しか出来なかった。ついて来るな、と祐河が言ってるように聞こえるのも、芳自身の勝手で卑屈な思い。その事を芳も理解していた。
暗くなる車窓には、少し伸びた祐河の後髪と混迷する心に揺れる芳の眼差しが映っている。
長かった一泊二日の旅路は、馴染みある駅名のアナウンスと共に終わろうとしていた。
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