手紙~空の向こうへ綴る想い ひとしずく

第1話 届いた手紙

 とある日の夕方。

「ちょっと。芳ちゃん。」

 管理人室の前を通り過ぎようとしたら、大家さんから声を掛けられた。祐河と一緒に暮らし始めて随分慣れたものの、未だに他の人には馴染めない。

 そんな臆病風に身を竦めながら、芳は足を止めた。ニコニコ顔の彼女は気にもせず、愛想良い声でそれを差し出す。

「これ、田沢くんに渡しておいてくれるかしら。」

 白かったであろう封書は、彼女の手から芳に渡った。


 仕事から帰ってきた祐河を、玄関先で芳が待ち構えていた。

「お帰り。」

 いつもと同じ出迎えの挨拶だが。落ち着かない眼差しは、祐河に助けを求めている様に見受けられる。

「ただいま。」

 祐河は笑って芳の頬を軽く撫でた。どうした、と問う代わりの仕草だ。芳も分かっているからか、眼差しが安堵に変わっていく。

「ん…あのね。祐河宛ての手紙預かったんだけと。」

 へぇ、とそれまでと変わらない表情で、祐河は封書を受け取った。だが、裏に書かれた差出人の名前を見て、瞬時に険しくなる。

 同じ田沢姓で書かれていたから、祐河の親戚なんだろうな。そう、芳は思っていた。けれど。

 祐河は封を切って、僅かに戸惑う指先で折り畳まれた紙を開く。ざっと眼を通していく祐河は、最後に深く息を吐いた。

「なんて、書いてあるの?」

 恐々訊いても、祐河は黙ったままだった。何度も視線を往復させ、それからまた元の様に折り畳む。見つめる芳に、申し訳なさそうに祐河は笑んだ。

「俺の…父方のじいさんが、入院したんだって。」

「入院…どこが具合悪いの?」

 心配そうに、芳は尋ねた。笑った祐河の表情が無理しているみたいで、見ていて辛くなる。

「一度、行かなきゃならないかも知れない。芳、付いてきて…くれるか。」

 躊躇う様に、祐河は声を絞り出した。一人で向かう勇気が、どうしても出て来そうに無かった。

「そんなの、当たり前だよ!! 行くの、早い方が良いよね?」

「ああ。手配は俺がしておくよ。」

 手紙が一年半もの間、彷徨っていた事を知らず、芳は遠出の準備をする。祐河は何も告げずに最悪の事態を想定して、心積もりした。






 電車に揺られて五時間半。そこから更にバスで奥へと向かう。田舎ではなかったが、着いた頃にはもう日が暮れる前であった。

 学生が目の前を横切る中、祐河と芳は似たような家が並ぶ住宅地を彷徨った。

「祐河…」

 心細い芳の指先が、祐河の袖を引く。このまま見つからなければ…行く先を見失って途方に暮れる。そんな気配が夕闇の中に過った。

「…あった。」

 漸く目当てらしき家の表札を見つけ、祐河も芳も安堵する。

 インターホンを鳴らすと、応対よりも先に玄関扉が開き、住人らしき人物が表に出てきた。

「まあっ!」

 戸口に現れた白髪の御婦人は、祐河を見るなり表情を綻ばせた。

「よく帰ってきたわねぇ。裕文ひろふみ。」

 中へ入りなさい、と祐河の腕を引く。あまりの喜び様に祐河が戸惑っていると、また玄関扉が開いて、今度は中年の女性が顔を覗かせる。

 彼女は慌てた様に、駆け寄ってきた。

「お義母さん、そんなに腕を引いちゃ…困らせちゃうでしょ。」

 御婦人を優しく宥め、捕らえた祐河の腕を放させた。

 ご免なさい、と迷惑の掛かった祐河に謝罪しがてら、顔を見合わす。

「もしかして、祐河くん?」

「はい、田沢祐河…です。」

 驚いて、女性は思わず声を上げた。

 何も状況のわからない芳は、見ているしかない。

「ねえ…。」

 小さく祐河を呼んで、確かめる。大丈夫だよと、祐河はただ優しく笑んで芳の手を握った。




 まず通されたのは客間だが、祐河が尋ねる前に彼女はその部屋へ案内した。

「仏壇はこちらなの。」

 床の間に替わって置かれていた立派な仏壇に、二人は神妙な面持ちになる。

 ほぼ何も言わずに、祐河は手を合わせた。芳もそれに倣い、手を合わせる。

 拝んだ後も思う所があってか、祐河はじっと仏壇の中央に目を定めたままだ。

「祐河…。」

「…戻ろう、か。」

 芳の声に祐河は表情を緩めた。でも仏壇を見ていた祐河の顔は、思い詰めた深い表情だった。

 心配だけれど、芳には何も言えなかった。


 客間に戻ると戸棚から冊子が出され、テーブルに並べられている。

「今お茶淹れるから、少し待っていてね。」

 冊子はアルバムで、どれも収められているのは古い写真だ。

「この人…祐河に似てる。」

 写真を見ていた芳がふと呟く。セピア色に褪せた印画紙。写っている景色も30年以上前のもので、不釣り合いに芳は感じた。

「ああ。俺の父親だ。」

 祐河は丁寧に一枚ずつ捲っていく。懐かしさよりも何となく、険しさがその眼差しに際立つ気がして。芳には不可解だった。

 淹れられた茶で、二人は乾いた口唇を潤わせた。ソファーに腰掛けたままの二人だが、祐河は無言だった。芳は肩身が狭い気持ちで座った。

 訊きたい事は山程ある。どれもこれも芳の胸中で渦を巻いているが、尋ねてはいけない気がして苦しい。

 芳は一人俯いた。祐河が今何を思っているかも分からないし、何だか遠い。それが心許なく、淋しさを感じて不安になる。


 程なく、今までと別の人物が客間に足を踏み入れた。

「祐河…くん、か。」

 顔を見せたのは、50代の男性だった。面立ちは祐河にも似ている。

「お久しぶり…です。」

 急に立ち上がって、祐河は頭を下げた。つられる様に芳も慌ててそれに倣う。

 男性は笑みを浮かべながらも、苦い表情をした。

「よく、来てくれたな。」

「…済みません。」

 互いに言葉を捜す雰囲気が、客間に緊張を高めた。

 男性にも、祐河にも、心に秘めたものがあるのだと。芳は一人、ずっと置いてきぼりを食らっている。

 男性は徐に視線を芳に移した。

「君は…祐河君の友人かい。」

 急に振られて芳は困惑する。

「ぁ、ぃ…稲見芳です。あの、祐河とは…」

 何と答えたらいいのか。迷いに迷っている間に、男性は自己紹介を始めた。

「稲見…君だね。初めまして。僕は祐河君の伯父で、田沢真弘まさひろと言います。」

 どうぞ宜しく、と差し出された手は力強くて大きかった。

「ぁ…はい。」

 縮こまったまま、芳も手を握り返した。

 座ってくれ、と伯父は立ったままの二人に勧める。それを受けて再度、二人はソファーに腰を降ろした。

「元気にしてたか。」

 祐河に向けて、伯父は優しく尋ねる。複雑な眼差しで、それぞれが互いを見ていた。

「はい。」

 短い返事で、祐河もなかなか言葉が切り出せない。

 他人とも言えず、身内とも言えず、知らぬわけでも知っている程でもない。そんな中途半端な間柄だからだろうか。

「…あのぅ、」

 恐る恐る、芳は声を上げた。沈黙が続く空気を打ち破りたくて、勇気を出してみる。

「祐河のお祖父様の御加減は、如何でしょうか。」

 入院しているのだから、見舞いに行きたい。それが本来の目的だった。

 詳しい事情を知ろうと、芳は懸命に言葉を捜す。

「親父…ですか。」

 的外れな言動に唖然とする。そんな顔付きを、伯父は芳に返した。

「入院先までは頂いた手紙に書かれていなかったので。」

「芳、」

 祐河は、強めに発して芳を制した。祐河には唖然とした伯父の姿が、物知らずな不埒者と、己を指す様に感じたからだ。

「なんだ、俺なら生きとるぞ。」

 直後、いきなり降って湧いた声に、全員部屋の扉へ眼を向ける。祐河の御悔やみ顔の所為か、そこに立っていた御老人は、そんな言葉を発した。

「親父!?」

「真弘の客か、随分若いな。」

「若いもなにも…親父の孫だよ。祐河君がわざわざ訪ねて来てくれたんだ。」

「おお、そうか!!」

 それを聞いて、御老人は大喜びをする。今度は芳と祐河が、唖然とした。

 祐河は自分の思い違いに、芳は手紙の内容が随分昔だった事に気付いて、狼狽えていた。

「しかし…手紙?」

 覚えが無い程、忘れ去られた手紙の存在を、伯父も記憶の底で漁る。タイミングよく、義伯母が二杯目の紅茶と茶菓子を持ってきた。

「お義父さんが入院する事になった時でしょう? もう一年以上前になるわねぇ。」

 宛先不明で一度戻ってきたのに、ちゃんと祐河くんの元に届いたのね。と嬉しそうに彼女は話した。

「ああ、そうか。あの時の手紙か。」

 伯父も納得する。

「でも、不思議な縁よねぇ。ひろちゃんが呼び寄せたのかもしれないわ。」

 勝手に進む話を、祐河も芳も黙って聞いた。義伯母はアルバムを開いて、微笑ましい眼で見つめた。

「今度十三回忌をするのよ。裕ちゃんの。」

「そうだな。本当に裕が呼んだのかもしれないな。」

 伯父も頷き、喪主となる筈だった祐河に視線を送った。長らく法要の主を代わりに務めて来たが、本来は息子の祐河の方が喜ばしい。そう…裕文も感じている筈、と家の誰もが思っていた。

「今日はもう遅いから、家へ泊まっていってね。」

「墓参りするだろう? 明日、案内するが…都合は良いか?」

 矢継ぎ早な二人の会話に、芳はたじたじになる。祐河は腹が座っているのか、動じる様子はない。

「泊まる所はもう予約してありますので、今日はこれで失礼します。」

 祐河は思案せず、伯父母夫婦の申し出を断った。墓参りも、場所さえわかれば自分達で行ける。

 何より、急に訪ねた自分達の為に、その手を煩わせたくなかった。

「水臭いじゃないか。此処へ泊まって行きなさい。」

 その位の持て成しをさせてくれ、と伯父は言った。

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