Dear my lady
第1話 出会いは突然に
その日は非番であったので。
「お、あった。」
目当てのシャンプーを見つけ、カゴに入れる。その他洗剤類を、と頭をあげたら、見覚えのある顔立ちがあった。
いつぞやの、繁華街に居た家出少女じゃないか。
仕事柄、人の顔を覚えるのは得意である。特にあの時は、割り込んできた男に少女を連れ拐われて、見失って以来、無事かどうか心配もした。
こうして日常の姿を見ていると、無事だったんだなと安堵する。
直己はしみじみと、その人物を眺めていた。
「あの、何か僕に用でしょうか。」
怪訝に眉をしかめて、彼は直己に声をかけた。
「あ、ええと。」
どう答えようか、直己は迷った。あくまでも、その声音も見た目と遠くかけ離れていなかった為、自分の勘違いに直己は気付いていなかった。
「以前、お会いしたのですけど、覚えてらっしゃいませんよね。」
愛想笑いをしながら、ナンパにしても馬鹿な話文句だな、と自嘲する。直己は無意識に視線を相手の買い物カゴへと落として、何が入っているのか、つい確認してしまった。
カゴには、髭剃り用のシェービングムースと剃刀の他、無アルコールのウェットティッシュも放り込まれている。
「彼氏…か、家族の分の買い物を頼まれたんですか。」
「…僕の、です。」
「へえ…っええ!?」
気付いていなかった直己は、漸く理解して驚愕した。視線が胸元と股間を、チラリと往復する。少女だと思っていた人は、どうやら男…だったようだ。
直己はその事実に素っ頓狂な声をあげた。
レジを済ませ、店の外に出てから直己は慌てて、再度彼に謝った。
「済みません。」
芳も恐縮する直己に苦笑いしながら、構いませんからと受け流した。
あまりの大声に、店内中の注目の的になってしまったのだ。
二人とも、目的の品はほぼカゴに取り込んでいた。幸いに店が混む時間帯では無かったので、レジは空いていた。なので二人はさっさと会計を済ませて、今に至るわけである。
「じゃあ。」
芳は軽く会釈し、そのまま去ろうとする。立ち入った話と知りながら、直己はあの後の事が聞きたくて、思わず芳の手首を掴んでしまった。
「待ってくれ。家に帰ったのか?」
知らない相手…と思うが、そんな風に声を掛けられて、芳も少々不審を抱いた。
「何のことです?」
そう返したものの…どうしてだろうか。直己の真剣な眼差しに、芳は何処か見覚えがあった。
そんな風に気遣ってもらった経験は、数える程しかない。
祐河と、祐河に助けて貰った時と…。
「あ…、」
漸く芳も思い出した。
「あの時の…!!」
芳の驚きに、思い出してくれたのだろうかと、秘かに直己は喜びに浸った。
お互いに照れ隠しながら、一先ず陽射しを避けて移動する。芳は直己と一緒に、自販機横のベンチに腰を下ろした。
「此方こそ…あの時はちゃんと御礼も言えず、御免なさい。」
絡まれていたのを、直己は止めに入ってくれたのだ。本当は自分がナンパした事を、芳は内緒にし、その可笑しさに苦顔する。
「改めて、助けて頂き有難う御座いました。」
深々と芳は直己に頭を下げる。そんな光景に、当たり前の事をしただけの直己は、また恐縮する。
「顔を上げて下さいよ。助けたって…結局俺は何もしてないし…。」
実際、第3の男に連れ拐われてしまったのだから。
「あの後、その…ちゃんと家に帰れたのですか。」
少し言葉を濁し、直己は尋ねた。あの男とどうなったのか、とても気になるのだが、そんなこと直接訊くわけにいかない。
「はい。一応、無事に…。」
芳も返答に迷い、言葉を濁す。飛び出してきた住居に自分は居ない。その代わり、新たな"祐河"という…芳にとって心の拠り所ともなる家が出来た。
芳は今、そこで暮らしている。ただ、住民票の他雑多な事柄を放り出したままで、書類上では“家出状態”とも言えなくはない。それが気掛かりなのだけれど。
「そうか…。良かったですね。」
気持ちが晴れることなく、けれど直己は笑顔で返した。
そうだ、と直己は先程の買い物レシートを取り出し、その裏に手書きでメモをする。
「俺、仕事は公務員をしているんです。何か困ったことがあったらいつでも…出来る範囲で力添えしますから。」
書いたのは、携帯の番号とメールアドレス、そして栖原直己という自分の本名だ。私用の携帯の方だが、でもいつも持ち歩いている。
芳は困惑した。
「え…でも、」
ほぼ見ず知らずの相手である。芳には理解し難いし、やはり慣れてない。
困ります、と断れば角が立つし。受け取って、別れた後に捨てればいいだけ…。それも、芳には釈然としない行為だ。
多分何よりも。祐河の顔が芳の目に浮かぶ。彼を裏切っているみたいで、それが芳は一番嫌だった。
直己は、戸惑う芳の胸中を知らずに、強引にメモを手の中に押し込んだ。
「じゃあ、俺、他にも寄る所があるのでこれで。」
何だか芳が困惑している様なので、敢えて距離を置こうと直己は立ち上がった。芳からのメールないし電話が入るかはわからないが、縁があればまたきっと会える。
そう信じて名残惜しさを振り切り、直己は立ち去ろうとした。
「あの…っ」
今度は芳が直己の背に声を掛けて引き留める。直己は思わず振り返った。
「僕は、稲見芳と言います。」
それだけ述べて、芳は頭を下げた。芳の名前を聞いて、ぱっと花が咲いたように直己は破顔した。
「じゃあ、稲見さん。何かあったら遠慮なく電話して。」
軽く手を上げて、笑顔で直己は立ち去った。芳も軽い会釈でそれに応える。
姿が見えなくなると、ほっと安堵の一息が、芳の口から漏れた。
帰りついてから、芳は落ち着かない気持ちをもて余していた。
一人きりの時間を、こんなに長く感じるなんて…。
何もする気になれず、買い物袋をベッドの脇に放り出したまま、突っ伏している。
「…祐河、」
祐河の枕に顔を埋める。汗の染み込んだ枕は、芳の鼻腔に祐河の匂いを届けた。
帰ってくるまで、まだ半月以上掛かる。まだ離れてから3日、経ったかどうか位なのに。
こんなに淋しいと思わなかった。勉強の邪魔になるから、自分で「連絡いらない」と言った手前、芳から何も無いのに連絡など出来ない。
「意地なんて、張らなきゃ良かった。」
ぼそりと愚痴をこぼす。匂いも薄くなってしまった枕が、芳は恨めしかった。
一人悶々としつつ、芳は枕を抱いて祐河を思い浮かべながら、眼を瞑った。
「………。」
身体の芯が熱くなっているのがわかる。そろりと芳は股間に手を伸ばす。
この3日、自慰をしない日はない。祐河とはsexも未だにしていないのに、此処にいない祐河を想うだけで、耐えきれなくなる。
「…っぁ…!!」
呆気ない程、すんなりと手に精液がまとわりついた。その手を眺め、芳は深く溜息を吐くと共に罪悪感に見舞われた。
早く、ギュッと抱き締めて欲しい。優しく包み込むように。
「…祐河、」
自分から拒絶して自分から求めてる。こんな身勝手な醜い心が、芳は嫌でたまらなかった。
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