第16話 エンディングと掌の先に君がいる未来へ
車は三人を乗せて、本社ビルへと向かっている。車内で後部座席に乗り込んだ芳は、隣に座る祐河にそろりと手を伸ばす。指先で探り、祐河の手を握った。
流石に二人の邪魔は出来ない、と平塚は助手席に回ったが、時折バックミラーで二人の様子は確認している。
「会社まで見送ったら、俺は帰るよ。」
「側に…付いていてくれないんだ…ね。」
「ああ。」
祐河は繋いだ手に指を絡めて、強く優しく握り返した。
不安は残る。それでも信じる心が背中を押す。芳を送り出す勇気を祐河に与える。
「直に…到着します。」
微妙な心持ちで、平塚は後ろの二人に伝えた。
車を降り、三人はそれぞれにビルの正面玄関前に立つ。芳は俯きがちに、緊張した面持ちを隠す様に足元を眺めた。
父親と会って何を言えば良いのか、未だに気持ちはまとまらない。開かれた扉に仕方なしに歩を進めるも、重くて覚束ない。
駄目だ。こんな…じゃ。
「祐河。」
立ち止まった芳は振り返り、そして精一杯の笑顔を見せる。
「行ってくるね。」
「ああ。」
それだけの短い挨拶だった。踵を返す芳の背が見えなくなるまで、祐河は見送った。
佇む祐河に、傍らで見ていた平塚が声を掛ける。
「…良ければ、送りますけど。」
「いえ、遠くもないですし、大丈夫です。」
平塚の申し出を、祐河は丁寧に断る。しかし少し考えて、平塚に真顔を向けた。
「代わりに伝言、お願い出来ますか。」
気安く平塚も、良いですよと答えた。
「俺はいつまでも芳を待ち続けるから、急ぐ必要は無い。と。」
伝えて下さい。そう祐河は笑う。そして、祐河もまたビルを後にした。
祐河の抽象的な話を、社長は反芻していた。
自分が芳に望んでいた未来…跡を継いで社長になる事。それは芳には荷が重かった…そういう事なのか。
芳が家を飛び出したのは、ただ私に反抗して逃げ出した。そう彼は思っていた。
「………。」
深く溜め息を吐く。
芳が本社に向かうと連絡を受けて戻ったものの。社長もまた晴れぬ心内に頭を悩ませていた。
「到着したようです。」
室内に入る秘書の声に、社長は顔をあげた。直ぐに凛と表情を引き締める。
「芳を、迎えに行ってもらえるか。」
「畏まりました。」
一礼し踵を返す彼女を見送り、背凭れに身体を預けた。社長は軽く眼を瞑り、芳の事を思い返す。
芳には…笑顔を向けられても、その眼に憎しみがこもっている。そんな気配を、今まで感じてきた。
芳の為と思い、無理をさせた事もある。けれどいつか分かってくれるだろうと、社長は願っていた。
「芳の未来、か…」
独りごちに呟く。そして彼は口を噤んだ。
芳が「生きたい」と願う未来を…というなら。今、芳は何を望んでいるのだろうか。
目頭が熱くなる。そっと見られぬ様に彼は泪を抑えた。
不意にノックの音が聞こえた。
「入りたまえ。」
失礼します、と秘書の声が響いた。扉から覗く小柄な身体に、社長も緊張を感じた。静かに芳は中へ入って来る。
一瞬だけ強い眼差しで、芳は社長を見た。また直ぐに伏し目になる芳に、苦虫を噛み締める。
「座りなさい。」
目の前のソファーを指し、芳に促した。芳は躊躇いながら腰を下ろす。
「芳、彼の所に居たのか。」
口を噤んだままで、返事はない。
「お前に危害が及ばなくて良かった。」
心配したんだぞ、と優しく声を掛けてみる。変わらず芳は何も言わなかった。
「これからどうするつもりだ? 芳。」
少し、強めに呼び掛けた。俯きがちな芳の眼は、表情を見せようとしない。
「何か、他にしたい事があるなら、言ってみなさい。」
芳が何か一言でも答えてくれないか、辛抱強く待った。だが、相変わらずであった。
困り果て、社長も押し黙る。元々芳が自分に何かを言った記憶は、あまりに無い。『はい。』と答える声しか出て来ないからだ。
「…やはり、あの男の所へ行くのか。」
溜め息混じりに言葉を漏らした。芳の指先が僅かに揺れ、握り締められた。
社長も疲れた表情で、芳から視線を反らす。
「彼と一緒に暮らす気なら、悪いが私はお前との縁を切る。金銭面でも支援をしてやれん。」
そこまで…本気でするつもりは無かった。ただ社長は、芳が自分から離れていくのを止めたいと望んで、言っただけだ。
「…はい。」
皮肉にも、漸く芳は頷いた。
「…生活費は。どう工面する?」
生活するというのは、容易い事ではない。今までのような、全てが順風満帆に用意された生活ではなくなる。苦労するだけだ。
その覚悟はあるのか、と攻め立てるように問う。
何不自由ない中で芳を育ててきた。そんな自負が社長にはあった。
沈黙の後、静かに芳は気持ちを吐露した。
「有難うございます。今まで育てて下さって…感謝します。」
答えにはなっていない。が、そう芳は頭を下げた。その後の言葉で必死で堪えた筈の涙が、芳の眼から零れ落ちる。
「…御免なさい、あなたの息子として、僕は何も力にっ…なれなっ…」
もう涙が止められない。
社長は唖然とした。否、一人の父親として、寛人は声が出なかった。
こんなに泣きじゃくる芳を見るのは初めてだった。それに気付くと同時に、いつも同じ表情しか見ていなかった事に愕然とする。
これでも芳の事をいつも気に掛けてきた。良い父親であろうと、慢心した自分に寛人は気付く。
「もういい。好きにしなさい。」
項垂れて肩を落とす。これも息子の成長なのだろう。ずっと守ってやりたいと思う気持ちが落胆を招き、寂しさに寛人は眼を伏せた。
「あの…」
無理矢理涙を拭い、息を整えて芳は寛人を見つめる。
「母さんの事、宜しくお願いします。」
何を言い出すかと、呆れて寛人は苦顔をする。頭を下げる芳に、寛人は薄く笑ってその震える肩に手を添えた。
「心配するな。彼女は私が選んだ女性だ。お前の事とは別だ。」
優しい声に芳は、愛されていたんだと改めて感じる。
「父さん。僕はあなたの息子で居られて…良かった。」
泣きながらの笑顔は、深く寛人の胸に刻まれた。素直な芳の気持ちであり、感謝に包まれた暖かな笑顔であった。
真っ直な眼眸を向けて、芳はもう一度深く礼をする。笑顔を最後に、背を向けて部屋を出ていく芳の後ろ姿を見て、寛人は追い縋るよう手を伸ばした。
「芳…っ!」
もう声は届かない。少し悔しげに笑みを溢し、寛人も手を引っ込めた。
「追わなくて、宜しいのでしょうか。」
「ああ。いいんだ。」
隣室に控えた秘書の気遣いに、無言で感謝する。
寛人は微笑を胸に込めて、静かに椅子に身体を預けた。
エントランスまで降りた芳は、息急き切って表通りに転がり出た。待たないと言っていた祐河を追い掛けて、駅に向かって走り出す。
どっちだろう。店なのか、マンションなのか。祐河が帰った先を想像して、芳は真っ直ぐに走った。
「芳さんっ!!」
後ろから平塚が必死の形相で追い掛けてくる。
「で…伝言があるんです…田沢さんか…らっ」
ゼィゼィと喘ぐ息のまま、平塚は芳に向かって叫んだ。芳も立ち止まり、聞きながら息を整える。
「待たなくて…いい?あっ、」
口にして違うと気付き、平塚は言い直した。
「ずっと待っているから。急がなくていい。そう言ってました。」
きちんと思い出して、笑顔で伝える。それを聞いて芳はますます加速した。
「か、芳さん!?」
あっと言う間に見えなくなる。
呆然と平塚は立ち尽くした。慌ただしく街を行き交う人の波が、夜灯の光に溢れていた。
店はもうすぐ閉店を迎える。そんな時刻である。
マスターには真面目だなと呆れられつも、祐河はカウンター内で仕事に就いていた。
来客をチャイムが告げる。息急き切って現れた芳に、祐河は眼を見開いた。
「芳…」
驚きはしたものの、嬉しさも併せ持って祐河は笑顔で迎える。
「あ…あのっ…!!」
全速力で走った反動で、息が上がりっぱなしだ。
乾いた芳の声に、祐河は水を差し出した。芳は深く呼吸し、落ち着いてから一口分の水で喉を潤す。
真顔で祐河を見つめて、徐に芳は言った。
「祐河の淹れたカフェ・ラテ、飲みたいから。」
「え…ああ、構わないけれど。」
此処に来た理由をどう告げればいいか、誤魔化す様に芳は言ったつもりだった。するりとそのまま受けられて、拍子抜けしてしまう。
でもその分余計な緊張が解れて、芳はほっとした。
「…ちゃんと、話せたのか。」
珈琲を淹れながら、祐河が問う。やはり訊かれると戸惑う自分が出てくる事に、芳は苦い顔をした。
「話したよ。でも。」
何か言おうとして、止める。代わりに微笑を浮かべて祐河に尋ねた。
「今夜、泊めて貰えますか。行く所無くしたから。」
結果は良好…と行かなかったのか。それでも芳の決断は、祐河も真摯に受け入れるつもりだ。
「勿論。知っているだろうが、狭いぞ?」
冗談めいて答えを返す。
いいよ、と照れ臭そうに芳も笑う。
「父さんにね、今まで有難う、と言って来れた。」
祐河のおかげと、はにかんだ笑みを芳は見せた。
きっと、言えなければ何処かで気持ちを引き摺ったままだったかもしれない。
祐河と出逢い、祐河と別れて、祐河にそのままの心をぶつけて…。改めて、芳は自分と向き合えたような、そんな気持ちに満たされる。
全てはこれからなんだ、と今は意気込みに胸を踊らせていた。
仕事を終えて店を出て、共に芳は祐河と帰宅する。鍵を開けて中に入ろうとする祐河を、芳は少しだけ引き止めた。
「どうした。」
「祐河にも言いたい事があって。」
スゥと息を溜める。芳の中には胸一杯にその言葉が有る。
待っているからと言ってくれた大切な人。大切にしたい、これからの人生に向けて。何より芳はその言葉を、祐河に伝えたかった。
「ただいま。」
差し出す掌の先に、君がいる。幾久しくこの手を繋いでいたいから。
「お帰り。」
祐河も笑って、力強く手を取り合った。
二人の第一歩は、ここから始まる。
─── 了 ───
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