第12話 壊れていく見えない精神
それから数週後。平塚の送迎で、芳は自宅玄関先から都内のホテルへ向かっていた。
しかも滅多に出さない社用車で、だ。
「慌ただしくて済みません。」
「いえ。」
父の命令であったなら仕方がない。困惑したまま、芳は不安を誤魔化すように笑った。
程無く、ホテルに到着した芳は、人目を避けるように従業員通路を通って高層階フロアへ案内される。
「芳。」
客室には、既に父親がいた。傍には父親の専属秘書が書類を抱えて立っている。
「座りなさい。」
言われるまま、芳はソファに腰を降ろした。
目の前のテーブルに、一枚の書類が差し出される。
「まだ、会っているようだな。お前は。」
書類に挟み止められていたのは、祐河の写真だった。他にも店のマスターらしき人物の写真も在る。
「本社にも偵察に来ております。尚、御自宅近辺での目撃情報も上がっております。」
父の秘書である彼女の口からは、何故?と問いただしたくなる文言が出た。芳はきつく手を握り締め、震え出す気持ちを必死で押し留めている。
「一度事件を起こした人間の性根が、そう簡単に変わるものではない。甘く見るな。」
誰の事を指しているのか直ぐに分かった。それでも、違うと言葉を否定する事が出来なくて、芳はただ怯えていた。
「二度と会うな。会おうなどと思うな。危害を加えられてからでは遅い。」
祐河に近づくな。そうきつく咎められる。いいね?と念を押す父親に芳は頷けなかった。
「か…彼はそんな人じゃ…ないです。」
「芳? お前は何を言っているんだ。」
世間知らずだと、頭ごなしに芳は叱責される。
「でもっ!!」
「でも、ではない。お前はあの人間の何を知っている?」
そう言われたら何も言えなくなる。全て知れる訳ではない。それは、芳も理解していた。
「芳。もう少し会社を継ぐ者としての自覚を持ちなさい。容易く他人を信じていては、足下を掬われるぞ。」
しっかりと見極める目を持て、と父親は窘めた。
芳は暫くホテルに足取めされる事になった。半分軟禁されたようなものだ。
「今日は俺が側についていますので。」
平塚のにこやかな顔に愛想しつつ、芳は虚無感に沈み込む。
父親はホテルを後にし、仕事へ戻っていった。芳の肩は竦んだままだ。ここ数日は店へ通うのが楽しい毎日だったのに、もう出来ないとなると途端に不安が胸を覆う。
心を見せられる相手が居なくなる。泣くことも出来ない。
「良ければ何か飲み物でも。」
「いえ…大丈夫です。平塚さんも仕事があるのでしょう?」
暫く休みたいから、と芳は一人ベッドルームへ移動し、鍵をかけた。
祐河は、パタリと来なくなった芳に少々不安を抱いた。何かの急用で時間が取れなくなった、旅行に出ることになった等、様々に理由を繕って、自分を納得させている。
毎日の時間の中で、祐河は芳が戻って来るのを待っていた。
未だに興信所の調査員が付いている事に気付いたのは、ふとした偶然だ。
窓ガラスの映り込みに見る監視視線が、祐河の背中に刺さる。
ああ、と祐河は落胆した。それでも祐河の存在が芳の心傷になっていない、と感じさせて貰えた芳との再会が、今は祐河の心を支えている。
少しの間でも芳に逢えて良かった。以前よりも、祐河は穏やかに受け止められた。
立ち止まった足を再び、祐河は前に進める。このまま離れ離れになっても、昔みたいに追わずに、同じ空の下で芳が幸せに生きていける事を今はただ…願えるのだ。
とはいえ、もう本当に来る事が出来なくなったのだとしたら。そう、芳からの一言があれば…。
無い物ねだりの馬鹿な望みだと、祐河は自嘲した。
溜め息混じりに店の扉をくぐる。そんな祐河をマスターが出迎えた。
「少しは気持ち、落ち着いたかい。」
マスターはいつもと変わらぬ調子で、祐河に問うた。迷いながらも祐河もそれに答えを出す。
「はい。」
一時の様な重暗さはもう、祐河には無い。
音沙汰の無くなった芳に想いを寄せながら、丁寧に祐河は仕事をこなした。またいつ芳が顔を覗かせても、変わらぬ笑顔で迎え入れられる様に。
花瓶に飾られた百合の花が、そっと祐河を見守っていた。
店に寄らない事と移動が車になった二つを除き、ホテル暮らしの芳の日々は、変わらずに続いていた。
今は常に平塚が側にいる。確かに彼も優しいが、その眼差しが見ているのは、将来の社長候補。芳ではない事位、わかっていた。
セミナーを終え、平塚と共に昼食を取る。受講の内容は、意識していたつもりでも芳の頭からすり抜け、記憶外に落ちている。身が入っていないと自分でも分かっていた。
そんな落胆した気持ちで、小さく切り分けた料理の欠片を芳は口に運ぶ。
気持ちが悪い。
「芳さん?」
「…済みません、ちょっと。」
そう言い、席を立つ。そのまま芳はトイレに駆け込んだ。
個室に着くと、直ぐ様食べた物全てを吐いてしまった。暫く呆然とし、動転した気持ちが落ち着いてから水を流す。
渦を巻いて流れていく様を見ながら、芳は情けない自分に項垂れた。僅かに涙も溢れ、床に落ちる。また暫く、騙し騙しに食事を摂らないといけない。
食べれない訳ではない。ただ、嫌なのだ。食事を摂るのが。
いつからそんな風に思うようになったのか。そして何故そうなってしまったのかも、芳にはわからなかった。
「芳さん、大丈夫ですか。」
トイレの入り口にまで来ていた平塚の声が、芳の耳に届いた。唐突だったのと戻るのが遅いのとで、心配させたのだと芳は焦った。
「ご免なさい、もう大丈夫です。」
「まだ、顔色悪いですよ?」
姿を現した芳に、平塚は無理せぬ様にと声をかける。気遣う平塚の視線が、芳には重い。もっと笑っていなきゃダメだ。でないと心配を掛けてしまう。
心に無理を重ねている。だが、その事に芳は自ら眼を瞑っていた。
「大丈夫ですよ。」
芳は笑って言う。そうやって自分にも他人にも、全てに誤魔化した。
平塚が店を訪れたのは、それから一週間もしない間であった。
「あの…付かぬ事をお伺いしたいのですが。」
歯切れの悪い言い回しと焦燥した眼差しに、祐河のみならずマスターも怪訝に眉を顰める。
平塚は写真を取り出し、二人に見せた。
「人探しをしているのですが、こちらに見えていませんか。」
「いいえ。」
マスターは簡潔に事実を述べた。何かあったと察するのは容易だが、それを尋ねるのは祐河には難しい。
「芳…さん、どうかしたのでしょうか。」
「いえ、ご存知無ければ結構です。」
お邪魔しました、と平塚は店から退散した。
平塚は芳の足取りを辿るべく、もう一度車を止めた繁華街の近くへ戻る。
戻りながらその時の状況を、平塚は再度頭の中で整理した。
酷く酔った様な芳の顔色の悪さに、平塚の判断で停車させた。その日は病院へ見舞いに行く日でもあった。少しでも楽になる様にとシートベルトを緩めた。それでも苦しそうだったので、平塚は車外へ芳を連れ出し、介抱した。
そこまでは普通、だった。
背中を擦っていた平塚の手を、信じられない位強い力で芳は撥ね飛ばした。その足で、突然芳は脱兎の如く走り出したのだ。
勿論、平塚も後を追って走った。だが振り切っていく芳の姿は、すぐに平塚の視界から人込みに紛れ、消えてしまった。
未だに何が起こったのか、何故そうなったのか、平塚には見当もつかない。
「くそっ…何でだよ。」
戻ってきたものの。平塚は途方にくれて、頭を抱え込む。方々へ手は尽くした。
だが結局、最後の頼みの綱を失った平塚の痛手は大きかった。
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