第11話 迷う心、揺れる心、繋がっていく

 マスターに背中を押された気分で帰ったあの日、芳は自室にてPCの前に陣取った。普段はそんなに使わない。だからか少し緊張した。

 祐河の起こした事件の事を、もっと詳しく知りたいと思ったのだ。

 ネットに繋いで色々と自分なりに捜していく。四年以上前になるので、検索しても大してヒットしないだろうと思っていたのに。

「なに…これ…。」

 初めて見る言葉の数々。加害者である祐河への、誹謗中傷が芳の胸にも突き刺さった。

 なんでこんなにも言われなきゃならないんだろう。祐河が怪我をさせた相手がどんな人かは知らない。でも、祐河だけ見てきた芳にすれば、顔も知らない他人の罵詈は恐ろしく、自分が言われたように胸を抉られる。

 PCを閉じて、芳はベッドに突っ伏した。信じられないし、信じたくない。けれど祐河の本性が書かれていた通りなら。

 父親に無理矢理犯られた時みたいに、祐河ももしかして同じ様に芳の事を犯ろうと思っているのかもしれない。優しく見せてた表情なんて、まやかしで…。

 もう一つの辛い記憶とまぜこぜに、芳の中で交錯する。

「…ぅ」

 小さく声を押し殺して、芳は泣いた。


 定刻を過ぎて、玄関の扉が開く。音でそれを窺いつつ、芳は突っ伏した顔を上げた。

 帰宅した父親が鞄をテーブルに置いて、ネクタイを緩めながら階段を上ってくる。

 足音が止まったのは、やはり芳の部屋の前であった。

「芳?いるのか。」

 ノックを繰り返す。執拗に声を掛けてくる。ドアノブを回そうとするのは分かっていた。

 芳は自分から扉を開いた。

「…お帰りなさい。」

「居るなら、返事をしなさい。」

「…はい。」

 抑揚の無い、無機質な返事を芳は返した。その様子に何か言おうか迷ったが、仕方なしに溜め息を吐いて彼は踵を返した。

 階下へと向かい、降りていく。芳は部屋から出るのを躊躇ってその場に留まった。

「どうした、」

 早く来なさいと催促する眼だ。芳は何も言わずに、父親の後に従った。

 階下に降り、用意されていた食卓に着いて、互いに向かい合う。父親が口にしているのは専ら、酒とその肴だ。既に仕事で会食を済ませたらしい。

 気の進まない食事に、芳は手を付けた。

「母さんの様子は、どうだった?」

 芳の箸が思わず止まる。が、何事も無いように、のそりと芳は箸を動かした。

「元気…でしたよ。」

 いつもと変わらない返事を返す。そうか、とまた彼は酒を煽った。

 気になるなら、自分で見に行けばいい。喉元まで言葉が競り上がってくる。それを、芳は御飯の塊と一緒に飲み込んだ。

「ご馳走さま。」

 目立たぬ程度に、御飯だけ完食して席を立つ。惣菜は殆どそのままに冷蔵庫へ返した。

「芳。」

 待ちなさい。とは言わぬものの、その視線も声音も芳の身体を硬直させるには十分であった。立ち止まる芳をちらりと見、彼はいつもと変わらず芳に問うた。

「しっかり食べているのか。」

 食が細いのは前からだ。そう言い返したくても、芳には声が出せない。俯きがちになる芳にそれ以上は追及せず、代わりに聴きたくない溜息が彼の口から漏れる。

「勉強はどうだ。」

 在り来たりな親の小言。仕事が忙しいのは知っている。けれど。

「だい…じょうぶ…ですよ。」

 精一杯に、芳は笑みを作って答えた。それ以上声を掛けられる前に、逃げるように芳は自室へと戻った。

 再びベッドに突っ伏して、芳は頭に枕をかぶった。これが日常…芳にとっての何も変えられない代物。何の期待にも応えられない自分が、居る事自体許せなくて苦しくなる。

 …いなくてもいいんだ。自分は。芳はそう胸に抱いたまま眼を閉じた。



   ─── *** ───


 その日の仕事を終えて帰宅した祐河を呼び止めたのは、大家だった。

「田沢くん、大丈夫?」

 マンションの入口で、心配げに彼女は見つめてくる。

 あれから数日、自分の気持ちを振り切るように、芳の事に関して祐河は考えないようにした。不用意に芳を詮索するのは、祐河自身にとっても良くないと分かっている事だ。

「ちょっと気になってねぇ。」

 朗らかな笑顔で彼女は言う。夕食のおかずに、と生鮭の切身を渡してくれた。

「有難うございます。」

 それを受け取って、祐河は部屋に戻った。


 チラシで包まれた鮭をフライパンに移し、晩飯用に祐河は焼き始めた。

 いつもなら、焼いた鮭を容器に入れて渡してくれるのだが。祐河は焦がさないようにフライパンに目をやりつつも、シンクの隅に丸めた包み紙に視線を送る。

 法律事務所のチラシだ。

 恐らく、警察関係か興信所の人間が来ていたという事だろう。対象が祐河である可能性が高かったから、彼女に声を掛けられた。

 そういう事だと、祐河は判断した。

 焼き上がった鮭と、残り物の惣菜、後はインスタントの吸物で、今夜の夕食は完成する。祐河はそれらをテーブルに並べ、手短に食事を済ませた。

 味気無い。箸を付けながらもこの頃は、そう思うようになった。

 一人きりの食事は、もう何年もやっている。芳と過ごした僅かな時間が鮮やかであればある程、祐河の中で現在の時間が虚しく響く。

「………。」

 もう…慣れた、よな。

 祐河は胸内へ呟いた。溜め息も、気付けば外へ零れ出ている。

 洗い桶に沈めた食器が、落水の生む波紋で揺れる。その有様に眼を落として、祐河はのろのろと洗い物の片付けを始めた。


 翌朝。ゴミ出しとゴミステーションの清掃をしに、祐河は一階へ向かった。

「お早うございます。」

「あら田沢くん、お早う。」

 予想通り、管理人の彼女はゴミの分別のチェックをしていた。

「昨日はご馳走様です。」

 御気遣い有難うございます、と再度礼を述べた。彼女もお役に立てたかしらと、嬉しそうに微笑んだ。

 小一時間の清掃を終え、部屋に戻る。

「さてと。」

 祐河は掛け声を出して、部屋の中を見回した。

 何もする気が無い自堕落な気分に身を任せていては、本当に駄目になる。

「気晴らしに、散歩でもするか。」

 自分に言い聞かし呟く滑稽さには、祐河も思わず苦顔した。

 午後は仕事も無く、空いた時間は十分にある。宛てもなくぶらりと洒落こむ気儘さが、本当は良いのだけれど。

 行きたいと望んでいる場所は、もう決まっている。

「…どうするか、な。」

 既に駅まで到着した祐河は、そのまま線路沿いに歩き出した。この方向は郊外の、少なからず芳の住んでいる街に向かっていく方角だ。分かっていながら、祐河は歩き続けた。

 流石に二時間以上の距離は、少しばかり脚に身が入る。

 見覚えのある景色に辿り着き、そこから更に祐河はあの立ち竦んだ公園へ、足を向けた。

「こんな場所…だったのか。」

 到着して、祐河はつい感嘆した。小さいと思っていたのが意外にも広い。その上、緑が豊富だった。

 普段の限られた祐河の行動範囲では、木々に溢れた場所は無い。有っても遊歩道沿いの並木程度。ここの近くには公営のグラウンドもあり、活気に満ちていた。

 広々とした芝生を周回する歩道沿いのベンチに、祐河は腰掛けて、張ったふくらはぎを解した。

 のんびりとした、良い場所だった。折角なので、芝生の上に仰向けに転がってみる。

 きっと、こんな場所で時間を過ごしたなら。煩わしい出来事や気持ちなど、何処かへ忘れ去らせてくれるだろうに。

 脳裏に浮かぶ芳の沈んだ顔を前に、祐河は瞼を閉じた。




 それから祐河は、休日毎に公園へ通うようになった。何をする訳ではない。ただ芝生に転がりに行く程度だ。そしてそんな中、決まって想いを馳せる相手は、芳…であるけれど。

 一方で、店にも少しばかり変化があった。

「いらっしゃい。」

 ドアを開ける癖で、来たのが芳だとマスターはすぐに分かった。今や芳も此処の常連になりつつある。

「こんにちは。」

 安心の眼差しで、芳はカウンター内へ視線を送る。この時間は祐河が居ない、と聞いている所為かもしれない。

 芳は前と同じ席に着いて、ゆっくりと呼吸をした。

「いつもので良いですか。」

「はい、お願いします。」

 何をする訳でもなく。珈琲が入るまで、ただじっとマスターの所作を眺めている。芳にはそれが居心地良かった。

 また芳の視線を気にせぬマスターの姿が、何だか有り難くて安心出来て、つい此処へ足を向けてしまう。

 そんな芳だが、別にマスターとの会話を求めもしてはいなかった。だから交わすのは挨拶程度だ。

「お待たせしました。」

 どうぞとカップが差し出され、テーブルに置かれる。

「明日はちょっと所用が有りましてね。」

 留守にすると言う、マスターの言葉に軽く相槌を打ちつつ、芳は温まるカフェラテに身も心もほっこりした。


 そして昨日の今日である。

 留守にすると、マスターが言っていたのを芳が思い出したのは、店の扉を開けた後だった。

「いらっしゃい…ませ。」

 久しぶりに顔を合わす祐河がそこに居た。祐河の表情もまた、驚きに満ちていた。だが懐かしさを滲ませた視線で微笑み、祐河は芳を出迎える。

 怖じ気づくのは芳の方だ。そんな芳を他所に、いつも座る席へ水と御絞りを差し伸ばし置く。

「あの…」

 傍目にも優しさを感じる祐河の姿に、引け目と怖れで芳の足は固まっていた。その様子に、祐河も苦顔し困った様に笑みを向ける。

「マスターでなくて、済みません。」

「なんでそんなこと…謝るんですか。」

 思わず自分で言葉を返して、芳も酷く驚いた。慌て焦って顔が赤くなる。

 祐河も張っていた気が少し抜け、楽に肩を下ろした。

「相手が俺でも、構わないのか。」

 厭だ、と逃げるのも嫌だったし。渋々、芳はいつもの席に着いた。組んだ芳の指先は正直で、震えが止まらない。祐河には見られないように、手を握り込んで中へ隠した。

「いつもの、で良いですか。」

 無言のままで、肯定も否定もしない。そんな芳だったが、祐河は席を立たない芳に対して、いつもマスターがしている様に淹れていく。

 出来上がったカップを、そっと芳の前に置いた。

「クロー…バー?」

 小さな白いキャンバスに、四つ葉が愛らしく浮いている。描かれたラテアートを見るのは、初めてだった。

「幸福のおまじない。まだ始めたばかりなので、上手く描けないけれど…」

「ううん、そんなことない…です。」

 何を言っているんだろう。返した自分の声に驚きながら、同時に芳は呆れていた。

 きっと今は客…だから優しくみせているんだろうと、祐河の笑顔に期待する自分を窘める。一方的に関係を切ったのだ。普通なら怒って当然だろう。

 芳の心中を他所に祐河は、気遣ってかあまり芳に眼を向けて来ない。カウンターの中で、普段通りに仕事をこなしている。

 ただその表情が楽しそうに見えて、芳は疑問を抱いた。勝手に込み上げる悔しさに、地団太を踏みそうになる。ちらりと祐河を盗み見つつ、芳は何度もそれを繰り返した。

「もし…」

 ポツリと不意に祐河が呟いた。芳の視線に気付いたのかと、焦って芳は顔を俯かせる。

 真剣に、今の今まで言うのかどうか、祐河も迷った。今日一日芳が来ていなくとも、祐河はずっと心に思い留めていた事だっだ。

「もし、嫌でなければ、これからも此処へ来てくれませんか。」

 芳はフッと残念がる自分が心の隅にいる事に気付いた。

「マスターも喜ぶだろうし、俺が居た時はそのまま帰っても構いません。」

 そう言う祐河の横顔が、愁いに揺れている。笑顔を浮かべる口許と対照的な祐河の愁眉が、芳の口火を切らせた。

「どうして、そんなことを言うんですか。」

 キツイ口調が祐河を責めている。芳にはもう嫌われていると、改めて祐河は思い感じた。

「嫌です。あなたの指図は受けません。」

 考えてみればそうだ。祐河は辛くなりそうな心情を飲み込み、仕方がないと諦めの吐息を吐く。気持ちを振り切る様に笑顔を作り、芳の方へ向いた。

「僕が来たいから、此処に来ているんです。祐河さん、あなたが居たって帰りませんよ。」

 気付けば芳はボロボロ涙を溢していた。半分祐河を睨み付けながら、瞬きもせずに眼を凝らして祐河を見ている。

「芳…、」

「あれ…なんで?」

 涙が止まらない事に困惑し、何故泣いたのかにも芳は困惑した。祐河はくるりと身体を反転させ、中から何かを取り出す。

「はい、どうぞ。」

 差し出された御絞りは、温かく清潔だった。

「俺からも一言、いいかな。」

 ビクンと芳の肩が震える。もしかしたらその一言が“サヨナラ”なんじゃないかと、芳は危惧した。

「有難う。逢えて嬉しいよ。」

 次の言葉を祐河が紡ぎ出す前に、芳は無理矢理に口を挟んだ。

「なんであんなこと…」

 サヨナラだけは、聞きたくない。顔を上げてまともに祐河を見る事も出来ないくせに、その思いだけは意固地に芳の胸中にあった。

「あんなこと…か。」

 芳の言葉に祐河は眼差しを宙に投げた。過去の事件のことだろうか。二人が離れるきっかけとなったのは、それしか思い浮かばない。

 そう考えを巡らせた上で、苦く祐河は笑みを溢す。

「あの事件の事なら、弁解はしない。」

 ぐっと更に強く、芳は掌を握った。爪が刺さる痛さよりも、祐河の紡ぐ言葉の方が怖かった。

「何をどう言っても、俺が傷を負わせた事に変わりないから。」

「でも…っ」

「世間に詫びても、意味がない。というか、別に世間が俺をどう見ようと、興味が無かったしな。」

 何処か飄々と祐河は語る。ただその瞳が悲しみに憂いている様に、芳には映った。

 お互い黙ったまま。沈黙は長く、祐河にも芳にも時間を感じさせる。静かにグラスを拭く祐河は、口を開く素振りも見せない。

 言葉を返そうにも、何も思い浮かばない。それが芳は悔しかった。

「でも、いつか謝りたい…かな。」

 僅かに祐河の唇が紡ぐ。

 叶うのなら。どれだけ謝罪しても付けてしまった心傷は消えないし、許されても決して無かった事にはならない。

 風が囁くような独り言を、祐河は殆ど声に出さずに呟いた。


 四つ葉の浮かぶカップに、芳は口を付けた。いつもより少し、甘くて芳醇な味わいがある。

 全て飲み干すと、踏ん切りをつけて芳は顔を上げた。

「あ…あの、僕の事を嫌いだと…会いたくないと、思っていないなら、」

 跳ねる心臓に歯切れも悪くなる一方だ。微笑を浮かべ見つめている祐河に、芳は必死で自分の想いを伝えようと試みた。

「その…また会っても構わない?ですか。」

 上目遣いに祐河を見る。

「本当に、良いんですか? 俺は危ない人間ですよ?」

 笑って話す祐河が意地悪くて、芳の癪に障った。

「自分から悪人を名乗る人に、根っからの悪人なんて居ませんよ。」

 いつぞや似たような事を祐河に言われた気がする。芳は祐河へ言い返すついでに、あっかんべーと舌先を覗かせた。

 祐河は涙が出る程、笑声を上げた。

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