第9話 駆け出す心、求める真実
病院は、芳には嫌な場所だ。芳は父親の部下と共に、長い廊下を前進する。歩きながら、心が無感情に固まっていくのを感じていた。
一番奥の個室が、芳の見舞い先だった。
「あら、」
ベッドの上の女性は、入るなり顔を綻ばせる。
「来てくれたのね、芳。」
とても親しみ深い眼差しで、女性は芳の名を呼んだ。本は退屈凌ぎのものだったのか、すぐに閉じてそのまま脇に置かれる。
芳は作り笑いをして、真正面に向かってくる女性の眼差しを、迎え撃った。
「御加減は如何ですか。母さん。」
「ええ、とても良いわ。」
心配してくれるのね、と彼女は嬉しげに微笑んだ。傍目には、綺麗で愛らしい女性の、朗らかな笑顔。
芳は心の中で眼を背ける。
「あの人と違って、芳がこんな優しい子に育ってくれたんだもの。」
芳の手を取って包むように、彼女は細い指先を腕に絡めた。振り解きたいと強く心が願っても、芳の肉体はビクリとも動こうとしてくれない。
あなただけよ。縋る彼女の細い手指がそう語る。まるで、逃さない、と腕に絡み付いた死神の骨手のようで。取り憑かれた感覚が、芳の背筋を強張らせる。
「芳のお陰よ。あなたの顔を見て元気が湧いてきたわ。」
有難う、と彼女が礼を言った。他愛ない言葉なのに、芳には不可解で耳に入ってこない。
芳はヒリついた眼を向け、薄ら笑いののっぺらぼうな顔を浮かべた。
何を話したのかも分からぬまま、時間だけが過ぎていく。上機嫌な彼女の声。遠い現実感。薄れていく、自分という存在。
芳は息をするのが嫌になった。
苦しい。
それだけが、脳裡に犇めいている。
「そろそろ御時間ですので。」
「ええ、もう?」
時間が経つのが早い、とごねて彼女は溜め息を吐く。面会はこれで終わり。芳も肩の荷を下ろせる筈だった。
「また、来て頂戴。ね?」
約束をねだる彼女に、母の姿よりも女の性を感じ、芳はそんな自分にさえ反吐が出そうになる。
「ええ。」
無意識で曖昧な返事を返す。芳の心は逃げる様に離れ、そして身体も病室から退出した。
「お母様、お元気そうでしたね。」
付き添いの父の部下は、良かったですね。と芳に話し掛ける。相槌を打ったものの、芳の心は虚ろに長い廊下を漠然と眼に映した。
空白が続いているみたいに、すれ違う人も隣を歩く人も、芳の意識の中へ入ってこない。実感というものが持てなかった。
「この後はどうされますか。」
予定を聞かれ、芳は漸く我に返った。行く当てなど、無い。ただ、独りになりたい気持ちが強かった。
家に帰る選択肢はあるが、芳は家に居たくなかった。
「平塚さんは、会社に戻らなくても良いのですか?」
「はい。社長に芳さんが外出中は傍に付いている様に、仰せ付かっております。」
ニコニコと人当たりの良い笑顔で、平塚が答えた。父親が経営する会社の総務課在職で、年も芳より上だ。が、その課の中では、芳には一番親しみやすい人物だった。
そんな平塚に合わせて、芳も笑う。
帰りたくない。
このまま、無くなってしまいたい。この先の自分の時間、全て。
芳は、何も言えずにただ笑った。
廊下の先が忙しない。そろそろ病院も、早い夕食に入る時間帯らしい。患者の食事が、各階の配膳台に乗せられている。
ふと芳の眼が、ある器へ釘付けになった。
プラスチックの椀器に入っていたのは、真っ白なお粥。
「…ァ…、」
不意に、甦ってくる光景に芳は胸が締め付けられた。
差し出された、粥を盛られた椀と、手。祐河の大きな背中が、脳裡に映る。芳は思わず涙を溢しそうになった。
「芳さん?」
どうしたのかと、怪訝に且つ心配する眼差しで、平塚が尋ねてくる。
「何でもない…ですよ。」
懸命に笑顔で堪えて、芳はその場を足早に立ち去った。暫く無言で、平塚を置き去りにする勢いで、芳は歩く。だが、唐突に立ち止まり、振り返った。
「ご免なさい、平塚さん。」
「え、芳さん。どうしたんですか。」
いきなり芳に頭を下げられて、平塚は困惑する。おろおろと辺りを見回し、落ち着ける場所がないか探した。
「どうしても、一人で行きたい場所があるんです。」
芳は真剣な顔つきで、平塚に迫った。護衛する立場上、首を縦には振れない。説得しなくては…と考えたものの。じっと見つめる芳の強い眼差しに結局、平塚は折れてしまった。
芳を陰で見守っていればいいか、と頭を切り替えて、笑顔で承諾する。
「いいですよ。余り遅くならない内に、自宅に戻ってきて下さいね。」
「有り難うございます。」
華やぐような、明るい笑顔に平塚は思わず心臓が飛び跳ねた。芳のそんな笑顔は初めてだったのだ。
病院を出て早々に、芳は駅の方向目掛けて走り出す。脇目も振らず、一直線に向かう姿には、平塚の胸を打つような…力強いものを感じた。
「…っと、俺も急がなきゃ。」
思わず見惚れていた自分に、苦顔しながら平塚も芳の後を追った。
平塚と離れ、一人で走る芳の胸中は、まだほんの少し揺れていた。
思い出したのは、祐河の手や背中だけではなかった。
『怖い、か?』
そう、祐河は言ったのだ。あの時に。
その意味が、何となく今なら理解できる気がして。
どうしたいのか、自分でもよくわからない。けれど、それを確かめるべく、進まずにいられない。そういう気持ちになっていたのだ。
芳はあの喫茶店へ…マスターの元へと駆けて足を踏み出していた。
陸橋側に到着すると、外から芳は中の様子を窺った。何人か、客らしき人影はあるものの、祐河の姿は見当たらない。
祐河がいないのを確認した芳は、表に回って以前通った入口から、店内へ足を踏み入れる。
「いらっしゃい。」
この間と変わらぬマスターの笑顔と声に、芳は少し躊躇した。意固地を張った自分をマスターはどう思っているか、不安が頭を擡げたからだ。
が、意を決した気持ちに芳は従って、マスターと真正面になるよう向き合う。
「…この間は、色々と御迷惑をお掛けして、済みませんでした。」
まずは頭を下げる。最初に何を言おうか、迷った挙げ句の言葉だ。
マスターは、そんな芳に気兼ねすることなく、あっけらかんと応えた。
「迷惑を掛けられた覚えは有りませんけどねぇ。」
豪快に笑いながら、まあどうぞ、と芳の前のカウンターテーブルに水を差し出す。芳も頭を上げ、再度軽い会釈をして席に着いた。
ゆったりとした音楽に、サイフォンの沸き上がる音。他の客席からも多少の雑談が聞こえていた。
程なく芳を残して他の客が帰っていく。他に訪れてくる客もいない。
一人になった事を感じて、芳は漸く口を開いた。
「訊いてもいいでしょうか。」
「ああ。」
構わないよ、とにこやかにマスターは応えた。
「祐河…田沢さん、てどんな人なんですか。」
じっと芳はテーブルを見つめたまま、マスターに問い掛ける。視線を合わせれば、どんな言葉であっても受け止められそうになくて。芳は顔を上げられなかった。
「そうだね。優しい、真面目な人ですよ。」
眼を閉じれば、芳の瞼にも祐河の優しい笑顔が映る。堪えきれずに芳は眼を開いて、祐河の姿を消し去った。
しかし、マスターは予期せぬ言葉を紡いだ。
「彼の前科も聞いただろう?」
咄嗟にビクッと芳の肩が震える。
あの時、刑事から聞かされた事が芳にはある。祐河がストーカー事件を起こしていた事、相手に後遺症の残るような傷を負わせた事。
その時の恐怖を思い出し、怖じけて身体が強張った。
「田沢君に出逢ったのは、4年程前になるかな。」
ぽつりとマスターは一人話を始めた。
最初に会ったのは、裁判所だった。丁度公判が終わり、彼は判決を言い渡された後でね。
私も諸事情があって、丁度その頃同じ裁判所に通っていた。彼の公判の内容は、少しばかり聞き齧っていたかな。
彼は、執行猶予三年の実刑判決だった。謝罪の言葉は最後まで出なかったらしい。だが、彼は控訴をしなかった。
刑が確定したことで、長い勾留から彼は解放されたのだが。誰一人、迎え入れる者は居なかった。彼に付き添っていたのは唯一、国選弁護士だけだ。
彼は暗い眼をしていてね。私はずっと気になっていたんだよ。
手続きが済むまで待って、私は彼に声を掛けた。珈琲を飲みに行こうと誘ってみた。彼も私の誘いに乗った…のだろうな。黙って付いてきた。
この店を始める前で、彼が私の初めての客になるかもしれない。
このカウンターの席に座って、変わらぬ表情で俯いていた。私は淹れたての珈琲を彼に差し出した。
彼はただじっと、見つめていたよ。私が淹れた珈琲を。
随分長い間、そうしていたかな。時間が経って、珈琲を温め直そうか考えていた時だ。
ふと、彼を見ると涙を流していた。私は驚いてね。
色々聞いた話では、どんなに酷い状況でも、彼が泣いているのを見たことがない、と。そう耳にしていたので。
それからだ。
声を必死で殺し、しゃくりあげる息を飲み込んで、彼はずっと、ただ泣き続けていた。
「後にも先にも、田沢くんの涙を見たのは、その時だけですかね。」
マスターの話を、芳はじっと聞いた。わからない部分の気持ちもある。
芳の中の祐河は、優しさと強さを持った包容力溢れる人だ。正直泣いている姿なんて、想像出来ない。
「…どうして、相手の人に謝らなかったんでしょうか。」
「さあ。田沢くんではないからね。」
分からないよ、とマスターは笑う。
「私も訊いて宜しいですかな。」
マスターの言葉に芳は面を上げた。
「何故、此処に足を伸ばしたのですか。」
マスターは笑っているが、その質問は芳の胸を鋭く突いた。恐らくは、祐河と鉢合わせする確率が高いのに、その危険を冒してまで訊く必要があったのか、と。窘められた気分だ。
芳は苦虫を噛み潰したみたいに表情を歪め、自嘲気味に呟く。
「田沢さんに…会いました。」
多分、本当は彼がどう思っていたのか。芳はそれが知りたくて。
俯く瞳から、不意に透明な滴が落ちる。言葉にして、初めて自分が抱えていた祐河への今の気持ちが、芳の中で浮き彫りになる。
何も言わずに去って行った背中が、サヨナラ、なんだと。
そう芳には思えて仕方がない。
「さよなら、って言葉も掛けてくれなかったんですよ…ね。」
淋しげに芳は一人、笑ってみせた。磨き込まれたテーブルに、そんな自分の顔が映っている。
「サヨナラ、と言ったならきっと、本当にもうそれで終わりになってしまうんでしょうね。」
マスターの言葉に、芳は顔をあげ、仰ぎ見る。
「いつかまた。逢って笑える時もくる。
そう願う希望も完全に手放さなくてはならない。そんな風になるんじゃないかと、彼は思ったのかもしれないね。」
不思議と、祐河がそう語っているように思えた。肩の力が抜けて、芳は穏やかに心が落ち着いた。
…いつか、また。
何も言わず、芳はその想いを胸の内に飲み込んで、そっと大切にしまった。
眼を閉じれば、祐河と乗ったゴンドラの風景が思い出される。あの時みたいに、また二人で心の温まる時間が過ごせるだろうか。祐河の優しい眼差しと、優しい声と…。
『…俺の事を、好きだと思った時に…』
ふと、そう耳元に声が甦る。語った祐河の気持ちに、芳は初めて気付かされた。
「周りの意見も確かに大切ですが。」
仕事に戻り、背中を向けていたマスターが、ぽつりと芳に語りかけた。
「最終的にどうしたいのか、決めるのはあなたですよ。」
「…はい。」
何だか背中を押された気分だ。芳はピリリと緊張感を伴って、答えた。
でも、気持ちはとてもすっきりしている。
芳は席を立って、マスターに礼を言った。そして店を出る扉の手前、少し立ち止まる。
「あの、」
躊躇いがちに、芳はマスターの眼を見つめた。
「また、来てもいいですか。此処に。」
「勿論。」
有難うございます。最大の感謝を込めて、芳は再度気持ちよく頭を下げ、店を後にした。
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