第8話 二度と逢えない別れ、距離

「ちょっと宜しいですか。」

 デートからの帰り際、そう声を掛けられたのは、改札口を通り抜けてホームへ向かう上り階段の手前。祐河と芳は怪訝な顔をして振り返った。

「稲見芳くん、だね。」

「…はい。そうですけど。」

 不審な眼差しで、芳は二人連れの男達を見る。スーツ姿のサラリーマン、に眼には映っていた。

 男が胸から黒革の手帳を取り出した時、祐河の目の色が変わった。

「祐河?」

 芳の不安げな声が耳に届く。祐河が芳の手を離し、一歩引き下がったからだ。

 男達は刑事であった。左右に分かれて、祐河と芳の間に割って入り、二人の身柄を別々に確保する。

「ゆう…か!?」

 一番事態が飲み込めない芳の悲痛な呼び声が、祐河の耳にこだまする。それが、芳との別れになった。

 芳に捜索願いが出ていた事を、祐河はその時に知ったのだった。




 朝を告げる雑音が、壁の向こうから聞こえてくる。通りを行き交う車の音。世間話の声。鳥のさえずり。今日の日常が始まっていた。

 祐河は突っ伏していた身体を起こした。目を閉じれずに時間だけが過ぎてしまった、と他人事に感じている。

 一先ず顔を洗いに、洗面台へ向かった。

 祐河の中にある現実は『もう芳に逢うことは無い』それだけだった。

 そのまま軽く身仕度をし、祐河はいつも通りに仕事に出掛けた。


「やあ、お早う。」

「お早うございます。」

 マスターは祐河の顔を見るなり、手を止めてしまった。驚きの眼で見るも、祐河はスルーし、制服に着替えて開店前の清掃を始める。

 黙々と仕事をこなす祐河を前に、マスターは思案した。考えた末に、熱めに温めた御絞りを祐河に用意する。

「田沢君。これで顔を拭いて、少し休みなさい。」

 手渡された御絞りに、祐河は自嘲気味に笑んだ。

「有難うございます。」

 そうか、そんなに俺は酷い顔をしているんだな。余りに可笑しくて、涙が出そうだ。

 そんな祐河を窘める様に、マスターは言った。

「客商売に、そんな顔で出てくるものではないよ。」

 何かあったんだね、と察する。けれどマスターはそれ以上は言わず、穏やかに祐河を気遣った。

「…済みません。」

「今日は奥でゆっくり在庫管理してくれればいい。」

 軽く頭を下げ、祐河は掃除道具を片付けて、カウンターの裏側へ身を隠した。




 日常は祐河の心情に関係なく続いた。

 あれから1週間、このまま日々が続けば、恐らく芳の事も過去の記憶として埋もれていく。それだけを期待するように、虚ろに祐河は街の空を眺めた。

 そんな時だ。

「…か…」

 街の中に、芳が居た。

 目の前の信号が青に変わった。にも関わらず、祐河はその場に立ち尽くして動けずにいる。

 見たくない。あれは幻だ、と何度も胸中に叩き付けて。けれど無意識に視線が芳に向いてしまう。

 芳の側には、会社員風の男性が付き添っていた。どうやらボディーガードしているようだ。

 彼と話している時の芳の笑顔が、祐河の胸を突き刺す。社交辞令のようなものであっても、もう自分には向けられない。そう感じるだけで、苦しくなる。

 祐河は目を反らし、歩道に佇んだ。

 芳が幸せなら、それでいい。祐河は呪文のように繰り返し、自分に言い聞かせた。

「………。」

 少し気持ちが落ち着いて、祐河はゆっくりと顔を上げた。再び青から赤に変わる信号を前に、角のコンビニで二人が何かを話している。

 男性は所用があるのだろうか。周囲を窺った後、芳に一言声をかけて、近くのビルに姿を消した。芳はコンビニの前で男性を笑顔で見送ると、そのまま軒下でガラス壁に凭れている。

 俯く芳の顔が、冷めて無表情になる。何処かで見たようで、祐河の胸はざわついた。

 憂いにまみれた表情だった。陸橋で見た芳の姿に、祐河の中で重なっていく。

 芳が幸せなら…。

 まるで裏腹な現実に感じた。

 再び信号が青へ変わる。皮肉にも、そんな祐河の目の前で、芳に災難が降りかかろうとしていた。

 コンビニの駐車場近くにいた若者達が、芳に近付いていた。見た目、素行の悪そうな連中に思えた。

 信号が点滅している。気付けば祐河は、真っ直ぐ芳の元へ向かっていた。


「ねー、俺達もヒマしてるんだ。」

 良かったら付き合ってよ、と下手したてに安っぽい笑顔でナンパする。若者達は左右から芳を挟んで、声を掛けた。

 華奢な芳の身体が若者二人に囲われて、身動きが取れずにいる。

 芳は恐怖心に身を強張らせつも、気持ちは投げ遣りになって聴いていた。

 そんな折、更にその二人組を凌駕するように、人影が芳の足元に映り見えた。

「悪いがそいつは俺の連れなんだ。」

 聞き覚えのある声。直ぐに誰なのか、わかった。

「芳、待たせた。」

「ゆう…か、」

 声が震える芳の眼差しが、祐河と合う。

 彼氏付きと知って、幸いナンパの二人組は大人しく引き下がってくれたが。

 芳は硬直したまま、祐河から目を反らした。

 祐河は隣に並ぶと、同じように壁に凭れた。

「風邪、完全に治ったか。」

 優しい気遣いの声を聴きながら、怖じ気づく自分の身体を芳は握り締めた。

 手を伸ばせば届く距離なのに。祐河に向けて指先を出すのすら、芳には出来ない。

 人、一人分空いた距離が祐河には遠く感じた。芳も近くに寄ってくる気配無く、ただじっと下を向いている。

 ごめん、と言うべきなのか。有難う、と言えばいいか。けれどもう、どんな言葉も芳を恐がらせるだけにしか、祐河は思えない。

 黙って空を見上げ、佇む。

 空が青い、と祐河は感じた。芳と別れる前の、まるであの日の空のように。

 暫くして本当の付添人がビルから現れた。こちらへ向かってくる。それを見て祐河は安堵に表情を緩め、壁から身を起こした。

 そして、芳に背を向ける。

「じゃあ…な。」

 そのまま去っていく祐河の背を、芳は縋る様に眼で追った。その姿と入れ違いに、父親の会社の部下が、芳に近付いてくる。

「芳さん。大丈夫ですか。」

 何かあったのかと心配する男性に、弱々しいが芳は笑みを浮かべて答えた。

「大丈夫です。何でもない、ですから。」

「良かった。この間みたいにストーカー犯に誑かされては大変ですよ。」

 さあ行きましょう、と背中を押す男性につられて、芳もまた歩き出した。

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