第5話 知りたい本音と喫茶店

 ふと、芳は眼を開けた。

 明かりが消えている事にも気付かなかった。どうやら眠ってしまったみたいだ。

 けれど、あまりすっきりしない。だる重さを抱えた頭を持ち上げて、周りを窺う。

 人の気配に、そっと頭をずらして見ると、ベッドのすぐ傍で祐河が寝息を立てていた。

 座り込んで、壁に凭れた姿勢のままだ。

「………。」

 疲れているんだろうな。

 そっとベッドから降り、それまで着ていた布団を祐河に掛ける。同時に喉の渇きもあって、芳は潤しにリビングへ向かった。


 勝手の分からないキッチンで、戸惑いながらコップを探した。なるべく音を立てない様に、と心掛けはしたが。派手に鳴らさないだけで精一杯だ。

 蛇口より水を汲んで、一杯飲む。水道水だからそう美味しい訳じゃないが、何だか気持ち落ち着いた気がした。

「…ふう。」

 どうしようか。このまま此処に居ても仕様がない。

 ずっと居ていい、なんて虫が好すぎる事、ある筈も無いのだから。

 答えの出ぬ問いが、何度もぐるぐると頭の中を巡る。コップを置いて、一応の光沢を放っているシンクを見つめた。

「……!!」

 不意に後ろから抱き竦められる。心臓が止まりそうな程、芳は驚き硬直した。

 主は、祐河であった。

「…かお…る…」

 頭が半分夢の中の祐河は、その後ろ姿を抱き止めた。

「いかないで…くれ…」

 切ない声で芳に聞こえた。祐河も頭が冴えて来たのか、頑なだった腕が緩み、静かに芳から離れていく。

「あの…」

「悪い、忘れてくれ。」

 そう言って祐河は背を向けた。あまりに情けない、自分の感情を芳にぶつけてしまったことを、祐河は後悔した。そのままシャワーを浴びに、洗面所へ向かう。

 追い縋ろうか、迷う芳を残し、祐河はリビングを出た。

「行かないで、って、どういう意味だよ。」

 分からない。考えれば考える程、思考は縺れてわからなくなる。

 芳は不貞腐れる様に、ベッドへ戻り、布団を被った。


 朝にはもう、祐河の姿は無かった。「仕事に行ってきます」のメモ書きと、ラップして置かれてある朝食と、そのままだったカフェのチケットだけが、いつものテーブルに残されている。

 何だかすっきりしない気持ちを抱えて、芳は朝食を口にした。

 今日の着替えも祐河の服だ。体調も良い。なのでいっそのこと、と芳は外出してみた。


 部屋の鍵をポケットに入れ、駅前に向かって歩き出す。反対のポケットには、平仮名で名前の書かれたあのチケットが、しっかりと握られていた。

 駅に着いたものの、お金を芳は一銭も持っていない。カフェは此処から2駅先にある。方向を確認して芳はまた歩き出した。




 人通りの賑やかさから逸れて、駅ビルの一角、小さな入口と看板を掲げたその店は、不意に芳の前に現れた。何処か穴場的な、不思議な雰囲気を醸している。

 「open」の文字はあるものの。静かすぎて本当に営業しているのかさえも、窺い知れない。

 芳は戸惑いながら、入口の中へ足を踏み入れた。


 短い通路の先で、角を二つ曲がると唐突に店の扉が現れた。jazzっぽい曲がその向こう、微かに流れている。勇気を出して、芳は重い扉を押し開けた。

「いらっしゃい。」

 澄んだ音色を奏でて、ドアベルが芳の頭上で鳴る。カウンターの先には、物腰の良さそうなマスターらしき人がいた。

 祐河の姿は見当たらない。

「あの、」

 にっこりと、マスターは淹れる手を休めて、芳に顔を向ける。

「私しか、居りませんよ。」

 そう言われて、何だか心が見透かされた…そんな気になって、怖れに芳は足が竦んだ。

 それでも「入っていらっしゃい」と掛けられた柔らかな声音は、優しい眼差しも伴って、芳の気持ちを解してくれる。

 深呼吸をして勇気を奮い立たす。カウンターを挟み、芳はマスターの真正面へ足を進め、身体ごと向き合った。

「何か飲みますか。」

「ぁ、いえ。いいです。」

 席に着くのも気が引けるし、立ったままも居心地が悪い。芳はポケットの中で握り込んだチケットを、ゆっくりと取り出した。

「これ、祐河……田沢さん、て言う人に貰ったんです。」

 何も言わず、差し出されたそれを、マスターは受け取る。芳は俯きがちだった顔を上げ、悩みながら言葉を続けた。

「彼に、返してい…」

 最後まで言うその前に、マスターは慣れた手付きで一枚ちぎり、残りを芳に返してきた。

「メニュー表はそこに置いてあるので、好きなものを選んで下さいね。」

 どれがいい?と、逆に訊かれてしまう。

「ちが…」

 違う、という言葉を、返せずに芳は飲み込んだ。

 祐河の事を素直に尋ねられたなら、こんな苦しさは無いのに。

 マスターの優しい笑顔が、芳の弱い心を更に際立たせる。

「まあ、まずは腰掛けて貰って、良いですか?」

 芳の様子を微笑み見ながら、マスターは水を差し出した。その言葉にハッと顔を上げ、芳はばつが悪そうに、静かに腰を下ろした。


 言われるままに座席に着いた芳の目の前で、マスターは湯を沸かし始めた。取り出した茶筒の中身を一匙、ティーポットの中に入れ、待つこと暫し。

 温めておいたカップに、茶を注ぎ入れた。

「ジャスミン茶。口に合うと良いのですが。」

 そのまま芳の前に差し出す。花の芳香が柔らかく芳を包み込む。

「リラックス出来ますよ。」

 サービスです、と顔に似合わぬウィンクで、マスターは芳に勧めた。そのマスターの顔と、カップの中の茶を、共にじっくり見つめ、芳は小さく溜め息を吐く。気遣いは有難い。だけれども。

「ごめん…なさい。」

 項垂れる芳に、気を害した様子もなくマスターは外連みのない笑顔で軽く応えた。

「お気に召さなかった、でしょうかな。」

 来るべきじゃ無かったかも、しれない。そんな風に後ろ向きな思考が頭を過り始めた芳に向けて、そっとマスターは言葉を投げ掛けた。

「他人の好意は苦手かい。」

 返事なんて、芳には無理だった。

「受け取る、受け取らないは自由だ。けれども、受け取る事も、相手の気持ちに報いる術ですよ。」

「…貰う、理由なんて僕には無い、です。」

 拒絶するように、芳は答えた。

「理由ね。」

 コポポポポと、静かに気泡が沸き立つ。

「大変だね。」

 マスターはサイフォンの火力を微妙に調整して、何気無しに呟いた。何が大変なのかは芳には分からなくて、ただ心が重く、余計に沈む。

「もっと気持ちを楽に持てたら良いだろうに。」

 憐憫とも取れる言葉を、感情無くマスターは口にした。芳は項垂れてそれを聞いた。

 何故か、胸に突き刺さる。

 グッと堪えて、反論を吐いてしまいたい衝動を、芳は無理やり抑え込んだ。

「はい、どうぞ。」

 目の前に、焼き立てのホットサンドが差し出され、食欲を誘う香りが鼻腔を刺激する。

「頂けません。」

 頑なに、芳は意地を張った。身体は素直に、欲しいと訴えているのに。芳は唇を噛み締めて、美味に香る料理を乗せた皿を睨んだ。

 困ったものだ、と呆れ笑いを見せるマスターに、芳はいよいよ肩肘を張っていく。

 そんな二人の緊張を解す、来客を告げる鐘の音が店内に響いた。

「か…おる…!?」

 芳が会いたかった顔が、そこにあった。店に現れた祐河の表情は心底驚いていて、真っ直ぐ芳を見ている。

「お帰り。大体揃ったかい。」

「あ、はい。」

 マスターの声で棒立ちしていた事に気付き、祐河は慌てて持ち場に戻った。カウンターの中へ入ると、慣れた様子で忙しなく動き出す。

 初めて見る祐河の仕事ぶりに、羨ましさが少し芳の心に募った。

 いつもと然して変わらぬ店内の時間が流れ出す。別の曲のリズムが静かに壁に響いていく。その合間でカウンターから食器を洗い磨く音や、豆を挽く音等、様々に日常の音が奏でられていく。


 暫く芳は祐河の姿を眼で追った。邪魔したくない気持ちも有って、声は掛けられない。けれど、祐河を近くに見られる事が、芳を安心させる。

「…食べないのか。」

 仕事の最中だが祐河は芳に声を掛けた。手を止めずにほんの僅か視線を送り、尋ねてくる。

 芳は改めて、皿に目をやった。

「ぁ。…うん。」

 食べないと祐河に心配させる? 危惧の様な心の不安が芳の脳裡に過ぎり、そう考えると意固地になる自分が恥ずかしくなった。ちらりと横目で芳はマスターの様子を盗み見る。

 マスターは素知らぬ振りをして、愛用のコーヒーミルで好みの豆を挽いていた。

「うん。…頂き…ます。」

 小さく手を合わせ、そろそろと指先をサンドイッチに伸ばした。もう冷めてしまったが、香ばしく焼かれたパンの感触が優しく指先に伝わる。

 そのまま芳は、かぷりと食んだ。

「………。」

 どうしてこんなにも、優しいのだろう。味も感触も、身体を包み込む音楽も気配も。

 小さく嗚咽が溢れてしまいそうだ。芳は聞き取られないように、懸命に飲み込んだ。

「芳?」

「ううん、何でもないです。」

 ゆっくりと、時間は掛かったが芳は完食した。祐河もそうだが、マスターも遠目でその様子に満足げな笑みを溢す。

「ご馳走さま。」

「どう致しまして。」

 祐河も手を休め、マスターの代わりに芳に返した。

 食器を片付けながら祐河は、隣に居るマスターが合図を送っているのに気付いた。目配せで、仕事上がりをしても構わないと伝えてくれている。

 空腹が満たされて少し眠気を催したか、芳はうつらうつらしていた。祐河はもう一度、マスターに視線を向けた。

「もうすぐ16時。上がる時間だろう?」

 本当は閉店迄の当番日なのだが。いつも頑張ってくれているからね、とマスターは気を利かせてくれた。

「済みません。それじゃあ、お先に失礼します。」

 頭を下げて、祐河は着替えに入った。そして寄り添うように、芳の元へと戻っていく。

 フラりと頭を揺らす芳を、そっと肩に抱き寄せた。

「ゅ…か?」

「帰ろうか。」

 こくりと素直に芳は頷いた。それ以上、芳は何も言わずに体を祐河に預けてくる。

「気を付けて。」

「はい。」

 掛けられた声に再度頭を下げる。マスターの微笑に見送られて、祐河は芳を支えながら、店を後にした。




 電車は帰宅ラッシュに差し掛かっていて、混雑している。芳を座らせてやりたいが、それもままならない。祐河は降車扉の隅へ芳の身体を預け、自分の身でガードした。

「まだ、眠いか。」

 聞こえているか分からないが、カクンと芳の頭が前に揺れる。もう数分で降りる駅に着くものの、人混みに巻き込まれるのは避けたい。

 思案する間も無く、ホームへ車両は入り込む。

「降りるぞ。」

 芳に声を掛け、抱えるように祐河は開いた扉から外へ出た。押される勢いのまま、ホームの隅へ身を寄せていく。

 普段なら、駅も電車も只の通過地点。ホームの隅から人の流れを見ていると、現実という社会から置いていかれた気になる。

 祐河は感傷的な心を傍目に、芳の事を思った。最初の夜から別れて数日間、芳も同じ様に感じたのだろうか。もしくは、あの最初に出逢った陸橋の上に辿り着いたのは、そんな気持ちにさせられたからだろうか。

 偶々空いた近くのベンチに芳を座らせ、寒くないように自分の着ていた上着を掛ける。祐河もその脇に腰を屈めた。

「………。」

 何も言わずに、芳の指先が祐河の二の腕を手繰り、強く握った。離れたくないと、必死で握っているようにさえ感じた。

 その指先の存在に、祐河も心が打たれる。頼られているのだ、と感じられる事がこれ程嬉しく思える事を、長らく忘れていたから。

「ゅ…か…」

 消え入りそうな声で芳が呼ぶ。祐河は何も言わず、此処にいると掌を芳の肩に添えた。

 慌ただしい乗り換えの人混みが一段落したのを期に、祐河はそっと芳を背負った。ゆっくりと家に向けて歩き出す。


 ホームを出て、改札口を通り抜けると、空はもう夕焼けに染まっていた。

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