第4話 看病する温かな手

 背中に芳の温もりを感じながら、祐河は自宅マンションに戻ってきた。

 途中で市販の風邪薬を購入し、祐河は芳に飲ませた。それに含まれる睡眠剤だけで、こうも眠りに堕ちるとは…。相当疲れていたんだな、と芳を気遣う。

 穏やかな寝息を立てる芳を前に、祐河は大きく息を吐いた。

 少し血色の悪い顔だが、愛らしく調った顔立ちは、まるで愛玩人形の様に美しい。乾いた唇も艶を取り戻せばきっと桜桃のような輝きを見せるのだろう。

 少し痩せた様に思える頬を撫でて、そっとベッドに芳を寝かす。

「………?」

 一瞬、芳の眼が開いた気がした。薄暗がりのままで見返すと、やはり変わらずに眠っている。気のせい、だったのだろうか。

 そう頭を切り替えて、祐河は芳の為の食材を仕入れに、静かに部屋を後にした。


 戸の閉まる音を聞いてから、ほんの少し芳は瞼を開いた。

 体を動かすと祐河に気付かれてしまう。そんな懸念から曲げた腕もそのままに、薄暗がりの部屋をぼんやりとみる。

 祐河が部屋にいる気配はなかった。もしかしたら、出掛けているかもしれない。

 なるべく静かに芳は身を起こし、足を床に着けた。

 まだ少しふらつくものの、祐河の背中で眠ったお陰で、大分楽になっている。

「………ふぅ、」

 大きく一呼吸し、息を整える。誰かの世話になるのは、やはり弱味を見せるみたいで…怖い。

 人知れず芳は自嘲した。

 きっと、叱られるだろう。いいや…祐河が怒る。そうならいい。そのまま呆れて諦めてくれれば、祐河を頼ろうと思わなくて済む。

 祐河の顔を想像しながら、けれど芳は部屋を出ようと決めていた。祐河の気持ちを蔑ろにすると、分かっているけれど、まだ一人でいる方が気が楽だから。

 浮遊感に足元が覚束無い。そんな体なんて、暫く歩いていれば慣れてくる。そう思いながら芳は伝い歩きでゆっくりと進んだ。

 玄関ドアを開くと、柔らかい手が芳を抱き止めた。

「…ぁ」

 祐河は芳を見て、何も言わなかった。

 黙ったまま、芳を連れて部屋へ戻る。熱のせいか、不安な為か、僅かに震える芳の体を祐河は気遣い、奥部屋のベッドに腰掛けさせる。

「目が覚めたんだな。」

 その祐河の声音は優しかった。

「冷たいぞ。好きな所に当ててごらん。」

 保冷剤にタオルを巻いて、祐河は芳の手に持たせる。ひんやりとした冷気は、熱る手を心地好く和らげた。

「………、」

 ごめんなさい。喉元までせり上がってくる感情を、芳は声に出せなかった。

 萎縮したままの芳の肩に、祐河は布団を掛ける。その手で、芳の体をベッドへ引き倒し、休ませた。

「熱が取れるまでは、大人しく寝ている事。いいな?」

 もう、今の芳には頷くしか無かった。


 再び芳が大人しくしているのを確認し、祐河は戸をそっと閉めた。

 これじゃあ眼が離せない。

 芳の着替えを、と思ったが買いに行く間も無さそうだ。せめて芳の熱が取れるまで…それでも本音は、ずっとこのまま芳の力になりたいと、そう祐河は願っていたのだ。

「馬鹿…だよな。」

 望んでいる事が、お互い同じだとは限らない。それを、嫌というほど味わった筈なのに。

 祐河の手には先程触れた芳の温もりが残っていた。




 翌朝、芳は一人目が覚めた。枕元には、服が一揃え置いてある。

 薬が効いたのか、額に手を当てても熱くない。その手も、昨夜ほどの熱を持っては無さそうだった。

 パジャマがわりに着替えさせてくれたTシャツを脱いで、用意されたラフな服装に着替える。ご丁寧に、下着も祐河は用意してくれていた。

「ゆる…」

 履き心地に思わず、愚痴を溢して芳は笑った。

 祐河の方が身体が大きいのだ、ということを知って、込み上げる嬉しさがなんだか可笑しかった。

 一先ず隣の部屋へ移ると、テーブルの上に手紙が置いてあった。

 芳はそれを手に取り、開いて読んでみる。


『おはようございます。よく眠れたかい?

 俺は仕事に行ってきます。冷蔵庫に入っている物は、好きに食べてくれて構いません。

 君の服はクリーニングに出しているので、済まないがその間、俺の服で我慢してください。


  祐河』


 素っ気ない内容だった。

 芳は手紙をたたみ、テーブルに置き戻した。その時、小さな紙片も一緒に置かれていたことに、気付いた。

 それは、名刺サイズのカフェチケットだった。表面に店の名前と地図がデザインされている。

「………。」

 裏側に、手紙と同じ字で『いなみかおる様へ』と、書かれている。

「…名前、教えてなかったっけ。」

 くしゃくしゃに顔を歪めて、手のひらに握り込む。しゃくりあげる胸の内側が、今の芳には辛い。

「…優しくなんてしないでよ。」

 芳には、何も責めない祐河が恨めしく思えて、どうしようもなかった。




 いつも通りに店を開け、ランチも一息ついた所で、祐河は買い出しに向かった。

 今頃、芳はどうしているのだろう。

 仕事を終えて帰りついても、既に蛻の殻かもしれない。そんな危惧は消えてくれそうになく、溜め息になって零れ出る。

 せめて飯だけは、芳が出ていった後でも困らないように、店のチケットを手紙と一緒に置いてきたのだが。

「あいつ、分かるだろうか。」

 無料券は多目に20食分用意してある。此処に来れば確実に食べられる、そんな安心があれば、昨日のような事もしなくて済むだろう。

 でも、出来るなら…。

「………。」

 祐河は目を閉じ、雑念を振り払った。何度心に望んでも、切りのない事だ。

 踏み出す足に力を込める。祐河は全てを吹っ切るように、歩足の速度を速めていった。




「ただいま。」

 午後7時を少し過ぎて、祐河は自宅に戻ってきた。鍵の掛かっていない、不用心な扉を開けて、中へと入る。

 もう既に無いであろう芳の姿を無意識に探して、祐河は奥のベッドまで足を運んでしまった。

「芳…」

 やはり、ベッドは蛻の殻だった。脱力感に肩を落とし、祐河は溜め息を吐いた。

 リビングへ戻ると、置かれたままの手紙にも気付いた。

「何で…」

 今朝と同様、全てがそのままの姿に、淡い期待が打ち砕かれていくのを感じる。

 芳、今どうしてる?

 祐河の心の呟きに、応えを返してくれる人はいない。

 もう会えないかもしれない愁思が、思い悩んでも仕方のない感情を助長させてしまう。祐河は机に手を付いたまま、その両肩を震わせた。


 そんな祐河の姿を、彼は見つめていた。

「お帰り…なさい、」

 遠慮がちにその言葉が、祐河の背に掛けられる。

 幻ではないか。そう勘ぐる程、祐河の鼓動は波打ち、その勢いのままに振り返る。

「かお…る」

 少し腫れぼったい眼が赤く、祐河を見つめる。立っていたのは、間違いなく芳だ。

「あの…」

 言い淀み、芳は視線を反らした。

「芳。」

 自分でも無茶苦茶だと、苦虫を噛み、祐河は芳を引き寄せた。直ぐ様、額に頭を寄せ、うなじにも手のひらで触れてみる。

「もう、大分下がったみたいだな。」

 安堵の声音で祐河は優しく微笑み、そっと芳の肩を押して離れた。

「手荒に扱って…済まない。」

「………。」

 驚きの方が強すぎて、何も芳は言えなかった。

 手荒に…と謝られても、その理由など分からないし、何より祐河が心配をしてくれた事が、芳の胸を強く打つ。それは良くも悪くも、であった。

「あの、クリーニング代…」

 ほんの少し息を飲み、意を決して芳は祐河に話し掛けた。すんなりと口に出来ないのが、芳自身もどかしい。

「あ…ああ。ごめん。まだ取ってきてないんだ。」

 少し困ったように笑顔で誤魔化す。祐河は立ったままの芳に、座るよう勧めた。熱が引いても、薬で抑えた一時的なもの。今はあまり疲れさすのは良くない。

「何か食べるか? 何がいい?」

「…そうじゃなくて。」

 歯痒さに唇を噛み締める。嬉しそうな声音、眼差し、それを向けられているのが苦しくて。芳は居た堪れなさに喘いだ。

「もう、大丈夫ですから。服、取り替えたら…」

 パタン、と祐河は冷蔵庫の扉を閉めた。祐河も分かっていた筈だった。

 それでも心が、どうしても…と騒ぐ。

「芳…くん。今は薬で熱は下がっているだけだ。実際に症状が治まるまでは、まだ三、四日かかる。」

 努めて冷静に、あまり変わらない穏やかさを心掛け、祐河は言った。

「後、四日…三日間でもいい。此処に居てくれないか? その後は…」

 唇を噛む。言えば、やはり出ていくのだろう芳を思うと、祐河はすんなりと口に出来なかった。

「好きにすればいい。」

 笑顔でいる事が出来ないから。祐河は顔を合わさずに、芳にそう呟いた。

「………はい。」

 消え入りそうな、小さな頷きで芳は答え返した。


 お互いに無言のまま、二人はリビングに留まった。

 簡単に家事をこなす祐河と、俯いて顔をあげない芳と。それぞれに、胸には口に出来ない想いを秘めたままだ。

「御飯、食べていないんだろ。」

 背を向けたまま、祐河が言った。声に出すのも怖くて、芳はただ小さく頷くだけだ。

 その気配を横目で確認し、梅干し、乾物の昆布を出して、冷や御飯でお粥を作る。祐河はコトコト米がふやけるのを眺めつつ、ポツリと呟くように、言葉を投げ掛けた。

「怖い、か?」

 訊いても意味が無い。何度も自分の中でそう窘めてきた言葉だ。祐河はそれでも、訊かずにいられない心をもて余した。

「何が…ですか。」

 あまりに唐突な、訳の分からない問いに、顔を上げて祐河を見た。芳に見えるのは、祐河の背中だけだ。

 その、返された芳の言葉に何も言えず、祐河はただじっと、小鍋の中の米粒を見る。火を止めて、何事もないように、祐河は茶碗にお粥を装った。

「さあ、出来た。」

 どうぞ、と箸を添えて芳の前に差し出す。食欲なんてわかなかったが、祐河の手前、芳はそろりと箸をつけた。

「…おいし。」

 お世辞ではなく。今まで然程、美味いと思って食事した事など無かったのに。

 ふと感じた視線を辿れば、そこには温かな祐河の眼差しがあった。

「そうか。」

 良かった、と祐河の表情が安堵する。それを見て、芳の胸にも突き動かされる想いが芽生えてきた。

「あの、僕も訊いて…いいですか。」

 申し訳無さげに、芳は上目に祐河を見た。

「どうして優しくしてくれるの…?」

「優しくするのに、理由が必要かい?」

 思わぬ答えに、芳は目を見張った。驚く芳に臆することなく、俺がそうしたいんだ、と祐河は芳に微笑んだ。




 食事も終え、軽く汗ばんだ身体も清め、祐河は芳をベッドへ誘導した。

 まだ、今は睡眠が大事である。ほぼ強引に床に就かせて、芳の枕の側に腰を落ち着けた。

「しっかり食べて、しっかり眠れば、直に良くなるさ。」

 眼を開いたまま、所在無げに視線をさ迷わす芳を、宥めるように言い聞かす。

 昨日は既に眠りに落ちていたので、枕が替われば眠れない…なんて事があるとは思っていなかったが。

「眠れないのか?」

 祐河は、ふと芳に尋ねた。

 眠るのが怖い…なんて口が裂けても言えない。芳は怯えたまま、伏し目がちに祐河から眼を反らした。

「目を瞑っているだけでもいい。楽になれる。」

 何も答えないが、芳のことだからそうなのだろう。眠れないなら、眠れないで、それでも出来うる限り、身体が休まればいい。

 そこまで無理強いしたくない。その気持ちが祐河には強かった。

「お休み。」

 そっと芳に囁いて、祐河は立ち上がる。一人の方が、芳には気楽で眠りに付きやすいことも有り得る。

 枕元の明かりだけを残して、祐河は部屋を後にした。


 言われるままに、芳は眼を瞑った。

 弱っている体と心では、まともに他人と向き合えない。気を張るにも、相手に隙を見せないでいるにも、それだけ力が必要になる。

 今の芳には何も、考える気力すらなかった。あるのはただひたすらに「怖い」という感覚だけだ。

 祐河が怖い訳じゃない。それだけは、はっきりしている。

 出口の無い迷宮をさ迷うように、芳の意識は何度も暗がりの中を模索した。

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