第2話 思慕と不審者

 数日間、芳と似た背格好を無意識に追う日々を重ね、祐河もいい加減に今までの生活に戻ろうと意識していたが。

 また、よく似た髪の高校生とすれ違う。

「あっ、」

 別人とわかっていて、尚声を掛けてしまいそうになる。そんな自分に苦顔し、無理矢理に声を飲み込んだ。祐河は改めて前に向き直り、歩き出そうとしたその時。

「あらら、田沢くんじゃないの。」

 背後から呼び掛けたのは、いい年をした中年の女性だった。

「大家さん。」

 祐河は緊張していた顔を緩めた。彼女は祐河の住んでいるマンションの常駐管理人だ。

「買い物ですか。」

「ええ、そうよ。」

 汗だくの額を祐河に向けて、彼女はシミの隠せていない化粧下手な顔を綻ばせる。

 両手にはパンパンに膨れた買い物袋が、重そうにぶら下がっていた。

「持ちますよ。」

 今日は特売日だったんだな、と祐河の頭の中で推測する。皮算用が始まった。今夜のおかずが何になるのか分からないが、当てに出来そうなのは間違いない。

 自然な流れで祐河はにこやかに、彼女の手から買い物袋を外し、代わりに受け持った。

「いつも悪いわねぇ。田沢くんはホント優しいから。」

 嬉しそうに、自慢気に彼女は話す。そんな彼女の言葉を、歯痒い思いで祐河は受け止めていた。

「そう言えば、昨日ね。」

 歩きながら、暫くして彼女は話を切り出してくる。

「田沢くんの部屋を覗き見している子がいてね。」

 唐突な話だが、祐河の耳も傾いた。苦い経験を幾度も重ねているので、彼女の観察癖には祐河も助かっている。

「長い間見ていたみたいだけど、声を掛けたら恥ずかしそうに会釈して、逃げていったわ。」

 あたしの感だと悪い子じゃないわね、と思い出してか一人頷いている。

 祐河もその人物について質問を返した。

「どんな容姿だったんですか。」

「そうねぇ。」

 少し考えて、にまりと彼女は不敵な笑みを向けた。

「かなり小柄で…少女みたいな顔をした少年、という所かしら。」

 とても愛らしかったわよ、食べちゃいたい位。と、彼女にしては珍しく冗談を交えて、答えてくれた。祐河も感謝しつつ、その風貌に想像を巡らす。

「アンタまた変なのに目を付けられたんじゃないかと思って、心配したわ。」

 そう言いながら豪快に彼女は笑った。


 マンションまで着くと、いつものように彼女は祐河を部屋へと上げた。

「余り物だけど、ケーキがあるの。」

 取って置きのだから、と嬉しそうに、彼女は切り分けて祐河に差し出した。

「はい、どうそ。」

 淹れられた安い日本茶と共に、目の前の一片のパウンドケーキを受け取る。

「頂きます。」

 それでも祐河は笑顔で有り難く頂いた。

 祐河の食べる様子に、満足げな笑みを浮かべ、彼女は茶のみを胃に流し込んだ。

「そうそう。あの子が居たのは、丁度あの防犯カメラの下だったわ。」

 そう窓の外向けて、彼女が指差した。釣られて祐河も振り返る。薄いレースの掛かった鉄格子付の窓越しには、向かいビルの入口が見えた。防犯カメラは、そのビルに取り付けられたものだ。

「また来るかしら。」

 ぼそりと彼女が呟いた。祐河は座卓に向き直り、黙々とケーキを口にする。

 それから他愛ない話を交わし、暫く祐河は彼女の退屈凌ぎに付き合った。

 管理人である彼女と祐河が親しくなったのは、マンションの管理維持への積極的参加をしていたからだった。その代わり共益費を免除してくれるというシステムで、今や祐河にとって、エントランスの蛍光灯の付け替えやゴミステーションの清掃等、手慣れたものになっている。

 他の住人達が面倒くさがるので、尚の事祐河が独占している形ともなっていた。


「…あら。」

 不意に彼女の声音が高くなった。眼は窓の外に向いたまま、慌てた風情で祐河に手招きをする。

 祐河も疑問に思い、視線を窓の外へと向けた。すると、そこには周りの眼を窺いながら、頻りに上方を気にする人物が居た。

「やだ、ほら、あの子よ。」

 何処と無く、嬉しそうに聴こえる彼女の声を余所に、祐河はその瞳を大きく見開いた。

 それは、芳、のように思えた。気付けば半立ちで、祐河は今にも飛び出して行きそうになる。

「ちょっと待ちなさい。」

 そんな祐河を制したのは、彼女であった。

「あの子、逃げ足早いわよ。」

 今がっついても逃げられるだけ、と代わりに一つアイデアを提案してくる。

 二人で挟み撃ち、はどう?と本気で身を乗り出して、彼女は眼を輝かせた。

 そんなことで上手く芳を捕らえられるとは思わない。が、それでも芳かどうかだけでも判れば、祐河には有り難いと思えた。


 未だ、その少年が居るのを確認し、二人はそっとマンションの非常口より出て、左右各々に分かれた。




 遠回りで道路に出ながら、祐河はボーと芳の事を考えていた。

 芳と判ればどうすれば良いのか、まだ自分の中で決着がついていない。でも、芳に訊きたい事なら山程有った。有った筈だった。

「くそっ。」

 何を訊きたかったのすら、思い出せない。恐らく訊いてどうする?という、感情が働いているせいだろう。でも、そう迷っている時間は無い筈。

 この歩く先には、芳らしき人がいて、管理人の彼女が更にその先から此方に向けて、その人物を追い立ててくれる手筈になっているのだから。

 尚も釈然としないのは、やり方自体が汚く思えて、それも本当は嫌なのかもしれない。


 モヤモヤしたまま、祐河は目的の場所に到達しようとしていた。肉眼でも、少年らしき者と女性の人影が見えている。二人は何か言い争っている様にも見えた。

「あっ、」

 女性を振り切って、少年が駆け出して此方に向かってくる。祐河は気付かれない様に顔を隠して、タイミングを伺った。

 確かに思いの外、速い。卑怯だと思ったが、祐河は自ら身体をぶつけに行った。

「済みません、大丈夫…」

 手を差し伸べて、転んだ相手を助け起こそうとして、祐河は動きを止めた。

 やはり、芳だった。

「…ぁ、」

 芳は祐河を一目見るなり青褪めて、振り切るようにまた走り出した。祐河には茫然と、その後ろ姿を見送る事しかできなかった。

 あの怯えるような、縋るような、そして責めるような眼差しが、祐河を雁字搦めにしたからだ。

「田沢くん、」

 追い付いてきた、管理人の声で、漸く祐河は我に返った。

「どうして逃がしちゃったの。」

 彼女はもっと根掘り葉掘り訊きたかったようだが。祐河は乾いた笑いをし、済みません、と頭を下げた。

 でもこれは、どうやら無意味でも無かったようだ。頭を下げた祐河は、目にした紙切れを丁寧に拾い上げた。多分芳が落としたものだろう。

 ショーパブの店の名刺だ。住所も書かれている。

 その近くに行けばきっと芳の手掛かりはある。そう確信して、無言で祐河はポケットにしまった。

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