差し出す掌の先に

九榧むつき

差し出す掌の先に

第1話 一夜限りの出会い

 実は朝からそこに居たのを、田沢たざわ祐河ゆうかは知っていた。

 人通りは疎らで小さな陸橋の上、すぐ下は幹線道路で交通量も著しい。脇に鉄道も走っているのだから、騒音も大したものだった。

 祐河の勤めている喫茶店の窓からは、その陸橋がよく見えていた。

店長マスター、じゃあ俺先に上がりますんで。」

「ああ、御苦労様。明日も頼むよ。」

「はい。」

 手早くエプロンを畳んで、私用のロッカーに放り込む。祐河は上着を羽織り、店を出ると、いつも利用する駅とは逆の方向へ脚を向けた。あの、陸橋のある方角だ。

 人波に逆らうように歩きながら、朝から変わらずに佇むその人の事を考えている。

 身体は小柄で可愛い顔をしていたな。制服だろうか、だとしたら学生? 何故あんな所にずっと佇んでいるのだろう。

 全く見も知らぬ他人の事。だが、気になって仕様がない。

 細い階段を上り、陸橋の上へと程なく辿り着いた。

「あ、」

 憂いを帯びた眼差しは、幼顔を際立たせ、少女とも少年とも付かぬ中性的な面立ちを見せつける。

 俯きに橋下の車通りを眺めるその姿勢は、妙な危惧を祐河の心に抱かせた。

 ふわりと、小柄な身体が一瞬宙を舞うように思えた。

「…危ない!!」

 言うが早いか、祐河はその人物の肩に掴み掛かっていた。

「なんっ…でしょうか?」

 驚きと不安と、怪訝な眼差しが、真っ直ぐに祐河を見上げている。肩を握り掴んだ己の手の強さに気付いて、慌ててその手を引っ込めた。

「あ、御免。」

「いえ。」

 にこやかにその人は笑う。だが、続けられた言葉の不釣り合いさは、祐河に違和感を感じさせ、煽っていた。

「僕が飛び降りて自殺するとでも、思われたのですか。」

 お生憎様、そんな馬鹿な真似はしませんよ、と明るい表情を見せるものの、しかねないだけの何かを抱えているのは、容易に感じられる。

 だがそれよりも、祐河は馬鹿げた質問を口から滑らせてしまった。

「君は、男、なのか。」

 服装は男子に近い。けれど身丈は女子と見紛う程に華奢だ。憤然とした表情を露に、その人はきっぱりと答えた。

稲見いなみかおる。歴とした男です。」




 変わらずムス、と唇を尖らせて芳は顔を背けている。祐河はただただ苦い笑みを浮かべていた。

「それで、君は朝から何をしていたのかな。」

 どうやらその口調も気に入らないらしい。床に置いたボストンバックを足で弄りながら、不服そうに芳はグラスの中を掻き回した。

 先程の詫びと称して、ファミレスでご馳走すると、芳を連れ込んだのはいいが、終始この有り様だ。

 成り行き上、放っては置けず、祐河は少しでも事情を聞き出そうとした。だが、全くの逆効果のようで、芳の表情は益々不機嫌になっていく。

 いっそ関わらねば良かったか、と後ろ向きな思考も祐河の脳裏に過っていた。

「これでも成人してます。もう21歳ですよ。」

 何をしようが勝手、と言わんばかりの文句だ。

「本当に二十歳を越えているのか!?…っと、大声出して済まない。」

「証明するものは何も有りませんけれど。」

 皮肉たっぷりに笑う。そんな芳の様子に、心内で祐河は溜め息を吐いた。

「ご馳走様です。迷惑だったでしょう?」

 口許で笑みを作っていても、その眼差しは射る様に鋭く、祐河を見据えている。

「物足りなければ、もっと頼んでもらって構わないんだが。」

 実際、芳はパスタ一皿だけで、量も一番少ないものを選んでいた。朝から今まで何も食べていない筈だ。

「十分に足りていますので、ご心配なく。それより…」

 少し言葉を濁し、足下のバッグに目をやる。ちらりと上目遣いに祐河を見、試すように芳は静かに口火を切った。

「迷惑ついでに泊めて頂けませんか。別に断って下さって結構ですよ。」

 唐突の願い出に、祐河はあんぐりと口を開けた。放っておいて欲しいのか、それとも構って欲しいのか。芳の言動と態度が、祐河には真逆に見えた。

「家出少年…か。」

「だから二十歳は過ぎてますって。」

 何だか馬鹿馬鹿しい押し問答に、祐河は思わず吹き出した。芳は愛想笑いを浮かべていたが、祐河が断れば多分路頭に迷うのだろう。

 仕方がない。これも何かの縁、だ。

「狭いがそれで良ければ。」

 差し出す祐河の手を暫し眺め、芳はしっかりとそれを受け取った。




 2DKの一人暮らし。マンションは5階の角部屋だ。

「散らかっているけどな。」

 どうぞ、と祐河は芳に薦めた。何処の誰と分からぬ相手を部屋に上げようというのだから、無用心と言われても仕方がない。

 まあ、それでも金目の物はたかが知れている。元々盗られて困るような物も無いしな。と、楽観視する祐河を他所に、芳は落ち着かぬ様子を見せていた。

「有難う。一応、御礼に。」

 先程とは違い、しおらしく伏し目がちに芳は顔を近付けてくる。柔らかい唇が祐河のそれに押し当てられた。

 不意の芳の行動に、祐河の眼が見開く。

「…何処で気付いた?」

「何となく。その手の人は分かるんです。」

 腑に落ちない、芳の言動であった。

 確かに芳に声を掛けたのには、少なからずの欲望があったからだ。その事を否定するつもりはないが、敢えてそちらに持ち込む気も毛頭ない。

「そのつもりで俺を誘ったのか?」

「誘うだなんて。飯に誘ったのも、泊めてを断らなかったのもあなたでしょう?」

 責める眼差しが一瞬.祐河を捕らえた。だがすぐに言葉を濁すように、視線が彷徨う。

 居心地の悪さが、二人の間を埋めていた。

「お前も…なんだな。」

「いいえ、違いますよ。」

 間髪入れずに、芳は否定した。

「人間を好きだと思った事など、一度もありません。僕は無性愛者ですから。」

 そう言い切る眼は、拒絶している様にも見える。それでも何処か迷いがある様に、揺れてみえるのは気のせいだろうか。

 押し黙った祐河を見て、芳が痺れを切らしてか、投げ遣りに言葉を紡いできた。

「御免なさい。有難うございました。家に」

 僅かに言葉が詰まる。悔しそうに唇を噛み締め、でも芳は吹っ切る様に、明るい笑顔を祐河に向けた。

「家に帰ります。」

「待てよ。」

 これには流石に祐河も異を唱えた。

「帰りたくないから、家を飛び出したんだろうが。」

 今日見てきた中で、一番痛い芳の笑顔だった。そんな笑顔を見せ付けられて黙ってはいられない。そんな所は、祐河も大人では無かった。

 このまま芳を放り出す真似など出来ないし、したくない。

「事情を知らないあなたに、何が分かるんですか。」

 芳の眼差しは再びきつくなっていった。それでも祐河は引き下がらなかった。

「泊まっていけよ。今何時だと思っているんだ。家が何処だか知らないが、こんな遅くに帰るバカがあるか。」

 もう終電も無い。タクシーを呼ぶにしても、それだけの金を芳が持っているとは思えないし、そんな金は祐河も出したくなかった。

「身体が目的ですか? このまま僕を此処に監禁するつもりですか。」

「お前な。相当ひねくれているぞ。」

 他人の恩を仇で返すつもりか、と問い質したくなる。

「有難うございます。元々ひねくれ者ですので。」

 挑む眼付きは変わらない。膠着状態に近い形で、祐河と芳は向き合った。

「今日は此処に泊まれ。気になるなら、俺は外で寝るから。いいな。」

 一方的に念を入れて、祐河は立ち上がった。追い縋ろうとする芳を振り切る様に、祐河は部屋を後にする。慌てた芳の表情が蒼白になるのに気付かず、祐河は靴を履いて外に出ようとした。

「あなたみたいな馬鹿は初めてですよ。僕が泥棒だったらどうするんですか!!」

「それだけ相手を思う気持ちが働くのなら、大丈夫さ。非道な真似はしないよ、お前は。」

 振り返り、そう芳に皮肉たっぷりの笑みを向けた。

「やめてよ。何であなたが出ていくんですか。」

 俯いて、弱々しい声で芳は祐河の腕を引っ張った。迷惑を掛けたくない筈なのに、いつも何処かで何かがずれていく。

 それがたまらなく芳は嫌だった。

 ぽたりと落ちた雫に気付いて、流石に祐河も我に返った。

「稲見…くん?」

「芳、でいいです。」

 ぐい、と涙を拭い、芳は顔を上げた。

「あなたの言う通り、今日は御厚意に従いますから。あなたは此処に居てください。」

 お願いします。とどちらが部屋の主か分からない嘆願を受けて、祐河は部屋に留まった。

「ああ、わかったよ。」

 自ずと可笑しさに笑みが零れる。芳は未だに固い表情を浮かべていたが、祐河に押されて共に部屋へ戻った。

 きっと勝手な思い込みに違いない。だが祐河は芳との蟠りの様なものが、ほんの僅かだが解れた気がした。




 ひとまず腰をおろし、お互いに気分を落ち着かす為に、祐河は常備してあったミネラルウォーターを芳にも差し出した。

「え、と、あなたの名前、田沢さんでいいでしょうか。」

 少し困惑気味に芳が尋ねた。そう言えばまだ名も名乗っていなかった、と祐河は密かに己を恥じた。

「俺は田沢祐河。祐河でいいよ。」

「じゃあ、祐河さん。今夜は御厄介になります。」

 宜しくお願いします、と深々頭を下げる。そんな芳の態度に祐河も恐縮した。

「堅苦しいことはいいから。ベッド使うか?」

「いえ。何処でも構いません。」

 まだ何か引け目を感じているのか、心許ない眼差しが宙を彷徨う。

「どうした?」

「いえ。」

 言葉を濁しつつ、手に持った水を芳は一気に飲み干した。


 奥の3畳の部屋にはベッドがある。リビングとダイニングを兼ねたこの部屋も、同じく3畳。

 どちらを取るにしても、布団は一つだけだ。

「今夜はベッドで寝てくれないか。俺はこっちで寝るから。」

 一応も何も、芳は客人になる。私物は最小限に抑えてある為、上着を布団がわりに寝るしかないか、と祐河は一人ごちにため息を吐いた。

「…はい。」

 まだ何か言いたげであったが、芳は大人しく従った。




 物音に気付いたのは、夜明け前の午前四時頃だっただろうか。

「う…ん?」

 ひっそりと扉の閉まる音に、祐河は目を覚ました。覚ましたが、いつもの起床時刻には早いので、再び瞼を閉じる。

 翌朝、それが何であったのか、わかって祐河は苦虫を噛み潰した。

「…黙って、出ていくなよ。」

 既に、もぬけの殻となったベッドを前に頭を掻き毟る。多分、再び会うことは無いのだろう。漠然とそんな感覚が、祐河の脳裏を過っていた。

 気の重さに心が沈み込む。もう二度と芳には逢えないのだろうか。嫌な考えばかりが浮かんでは、祐河を翻弄し、芳のあの泣きそうな笑顔を何度も思い起こさせた。

「ちっ…くしょう。」

 八つ当たりに等しい拳を枕に叩き付けて、祐河は眩しく光る朝日を睨み付ける。

 置かれた紙に短く「お世話になりました。」と、一言だけ書き残して、芳は去っていった。


 出勤時刻よりも早く店に到着した祐河は、サブキーで店内に入った。真っ先に、窓の外に目をやる。

 昨日の午前中には、そこに芳がいた。あの陸橋の上で項垂れて、立っていたのだ。

 今は誰もいない。

 何も言えずに、縋るような眼で陸橋を眺めたが、変わらぬ現実に打ちのめされるだけ。祐河は諦めて開店準備に取り掛かった。

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