クッキー・ルーキー:クッキー

 雲一つ無い抜けるような青空。降り注ぐ陽光の下、十月の穏やかな風が吹きわたる。

 今のあたしの気分とは正反対だ。

 右手でフェンスを叩いてみた。

 ――がしゃん。

 あまり大きな音がしない。空しさだけが募る。

「ふう」

 溜息を吐いた直後、あたしの背後でギシギシと木材が擦れ合う音がした。

 反射的に振り向き、音の主を目で探す。同時に急いで目尻を手で拭い、持っていた袋を腰の後ろに隠す。

 すぐそばのベンチの上で誰か――大柄な男子生徒が身を起こす。背もたれで見えなかったのだ。彼もサボリ?

 彼は腕時計を確認すると、こちらに視線を合わせてきた。その目が少し見開かれる。

 なんだか優しそうな瞳だな。

 この人見覚えがある。隣のクラスの人だ。

 先に話しかけてきたのは彼だった。

「きみは確か、一組の片桐さん。ありがとう、お陰で五限に間に合うよ」

「え、ああ。どういたしまして。二組の、えーと」

 あたしは彼の名前までは知らない。彼は照れたような笑みを浮かべ、名乗った。

「冬見。冬見翔平」

 翔平。そういえば、志帆の幼馴染みの一人に、翔ちゃんという人がいたっけ。

 もしかたらこの人だったりして。……なんてね。

「よろしく翔平。あたしのことは洋子でいいわ」

「よろしく洋子。ゆっくり話をしたいところだけど、もう時間がないな」

 翔平は軽く頭を振った。まだ眠いのかな。

「五限サボるつもりなんだろ? でも屋上の扉は用務員に閉められちゃう。おそらく五限が終わる前に」

 見透かされてる。あたし、そこまで不良っぽいのかしら。

 普段の生活態度、改めた方がいいかも。……そんなことよりも。

「知らなかった。閉められちゃうの?」

「授業が終わったら開けに来てあげるよ。携帯のアドレス教えとく。もし屋上にいるのが飽きたのなら、授業中でも構わないから呼んでくれ。腹痛を装って抜け出してくるから」

 午後の授業をサボろうとするあたしを責めることなく、翔平は微笑んだ。日だまりのように暖かい笑顔、少し眩しい。あたしもつられて笑顔になる。

「ふふっ、ヒーローみたい」

「閉め出しをくったヒロインを救出するだけの? しょぼいヒーロー」

「素敵なヒーローよ」

 用務員に見つからないようにと言い残し、翔平は屋上を後にした。あたしは彼の姿が見えなくなってからもしばらく見送っていた。

 翔平は、いわゆるイケメンというタイプではない。ただ、優しそうな内面がにじみ出た表情のせいか、大きな身体にもかかわらず愛嬌がある。近くで見ると結構素敵かも。逆三角形のガタイをしたマッチョマンは苦手だと思ってたけど、認識を改めた方が良さそう……ってあたし何考えてるんだろう。たった今、告白を失敗したばかりだというのに。


         *         *         *


 今日、あたしはふられた。クッキーを手に、昼休みに校舎裏に呼び出して告白し――断られた。わずか一秒後、ただ一言、「ごめん」と。それは彼なりの清々しいほどに誠実な意思表示だ。だからその場は笑顔でいられた。

 その直後、あたしは普段通りの歩調で屋上まで上がってきた。

 ふられた。あんなに憧れた――ような気がした――あの人の顔が、その瞬間からあたしの記憶の中でのっぺらぼうになった。

 あたしは恋に恋していただけ。彼本人が好きだったのではない。彼氏というシンボルが手に入るのなら、相手は誰でもよかった。なんていい加減な。

 ふられた悲しさよりも、自分のいい加減な気持ちに気付いた悔しさの方が勝っている。

 そんな言い訳がましい理由をでっちあげ、あたしはフェンスを叩いた。

 ……いいえ、本当はわかっている。そんなの、ただのごまかしだ。

 叩いたフェンスが、意外に大きな音を立てる。

 その音で、翔平を起こしてしまった。大丈夫だったかな。彼に涙、見られなかったかな。

 ――涙?

 そうか、あたし泣いてたんだ……。


 あたしは人並みにコンプレックスを持っている。でも、うっかりそれを他人に言うと、なぜか嫌味と受け取られることが多い。自分ではそうは思わないのに、あたしは美少女なのだそうだ。でもそれならなぜ彼氏の一人もできないのだろう。

 一部の男子は面と向かってあたしのことを「高嶺の花」と言う。それって、裏を返せば愛想がないということ? そこで、あたしは努めてフレンドリーに振る舞うことにした。男女の別なく下の名前で呼び合おうとするのもそのためだ。しかし今になって気付いた。逆効果だったかもしれない、と。

 あたしを下の名前で呼ぶ男子が増えたものの、ほとんどの女子は――それまで下の名前で呼んでくれてた人さえも――苗字で呼ぶようになった。八方美人。それが、今のクラスメイトたちにとってのあたしというキャラ。


 そんな中、転校生の志帆はあたしの救いとなった。クラスで唯一の同性の友達だ。知り合ってわずか一か月だけど、今ではこんな相談もできるほど。

「他のクラスに狙ってる人がいるの。今月の文化祭、その人と一緒にいたいと思ってる」

 告白相手のことを聞かれたが、成功してから教えると言ったらあっさり引き下がった。そういう点も志帆の魅力だ。

 志帆はあたしに、クッキー作りを提案した。

「う。料理苦手」

 尻込みするあたしに対し、素敵な笑顔を向けて言った言葉がこれだった。

「クッキー・ルーキーだね。大丈夫、簡単なんだ。僕が教えてあげるよ」


         *         *         *


 洋子の手作りクッキーだなんて無敵だよ、と志帆は太鼓判を押した。

「自分の家で焼けなきゃ意味ないからね。洋子の家に行くよ」

「その方がありがたいけど、志帆を独占したら秋山に悪いわ。よかったら秋山と一緒に来て」

「だめだめ。亮太がいても邪魔! つまみ食いするだけだし」

 即座に言い放つ志帆の隣で、秋山は苦笑していた。

「はっきり言うね。その通りだけど。じゃ、俺は久々に翔平と――」

「翔ちゃん? 翔ちゃんもこの学校? 理緒ちゃんは?」

 弾かれたように身体ごと秋山に向き直った志帆に気圧されていると、彼が説明してくれた。

「俺たち、仲良し四人組だったんだ。幼稚園から小学三年の一学期までだったな、志帆がこっちにいたの」

 あたしに向けて言った後、彼は志帆を見下ろして言葉を続けた。

「理緒だけ別の高校。翔平は、見た目は結構変わったぜ。こう、逆三角形のマッチョマンに」

「うそ。あ、ところで理緒ちゃんと翔ちゃんの仲は?」

「進展なし。あいつらはあのままなんじゃないかな。この先もずっと幼馴染みのままでさ」

「まさか。でも、ずっと一緒にいた亮太がそう言うのなら……。あ、ごめん洋子。置き去りにして」

 マッチョマンか、趣味じゃないかも、などと思いつつ、あたしは愛想良く調子を合わせた。

「ううん。今度紹介してね。その、翔平くん? あと、理緒ちゃんにも」

「ああ。今度、翔平と理緒を呼んでみんなで遊ぼう」


 クッキー作りの当日。

 あたしの家の台所で、志帆は見事な腕前を披露した。

 感心するあたしをほったらかしにすることなく、丁寧に指南することも忘れない。

 うう。苦手だけど、やりますよ。

「いい、洋子? バターはクリーム状にするよりもレンジで溶かしてあげた方が、粉の混ざり具合を均一にしやすいよ」

 手際よくきびきび動きながら解説してくれる志帆の姿は、転校初日のおどおどした彼女とは別人だ。もっとも今思えば、彼女は初日から秋山に告白するつもりで緊張していたのだろう。今のあたしと同じだ。

「ねえ志帆、そろそろ教えてくれない? どうやって秋山に告白したのか」

 すると志帆ははにかんだ笑みを浮かべ、ぼそりと告げた。

「オレンジキャンディ」

「え?」

「魔法のアイテムなんだ。僕らにとって」

 そう前置きして、志帆は懐かしそうに語った。幼稚園のときのおませで微笑ましいファーストキスのこと。小学三年で幼馴染と離ればなれになる志帆が、秋山と交わした約束のこと。

「約束したんだ。もし再会できた時……。その時も好きだったらオレンジキャンディを渡すって」

「キスしたの? その時も」

 志帆は静かに首を振った。

「しないし、キスなんて言葉も使ってない」

「へえ。でもいいなあ、一途な幼馴染みがいて」

「僕の話はいいから。明日はがんばって、洋子」

 志帆は耳まで真っ赤に染まっていた。

 焼き上がったクッキーはサクサクで、とてもおいしかった。


         *         *         *


 志帆直伝のサクサクのクッキー。貰い手がないまま取り残されている。

「あたしとおんなじだ」

 持ち帰るのも、ここで自分で食べるのもみじめだ。ごめん志帆、せっかくの無敵アイテム、あたしうまく使いこなせなかったよ。

 その時、携帯が振動した。

 志帆からのメールだ。

『大丈夫? 先生には、洋子の具合が悪くなったから保健室に連れてったって言っといた。もし校内にいるなら一緒に帰ろ』

 淡々とした文面なのに、なぜか鼻の奥がツンとした。

『大丈夫だよ、ありがとう。屋上で休憩中。悪いけど、六限終わったら来てくれる?』

 あたしはそのまま、授業終了のチャイムが鳴るまでベンチに座って過ごした。

 さあ、帰ろう。

 あたしが立ち上がるより早く扉の開く音がして、

「洋子。開けに来たよ」

 男子の声。大柄な男子生徒ヒーローが屋上に。

「来てくれたんだ、翔平」

 律儀なヒーローには報酬を。心の中で言い訳をして、あたしは翔平の手にクッキーの袋を押しつけた。

 そのまま口走りそうになった、自分でも意外な言葉を――

(ずっとあたしのヒーローでいて、翔平)

 ――ぎりぎりで飲み込む。発言取り消し。

「あたしのことなんて忘れてると思ってた。はい、これ報酬よ」

 ふと見ると、扉のところに志帆が立っていた。口に手を当ててこちらを見ている。

 翔平の手にはクッキーの袋。後で誤解を解くのが大変そう。

「悪いけどこれは受け取れない。俺のために焼いてくれたものじゃないんだろ。そのくらいのこと、鈍い俺でもわかる」

 突き返されちゃった。

 ……そりゃ、そうだよね。

「ごめん。今日のあたし、なんか変。でも、でもね。今度、翔平のためにクッキー焼くから」

 必ず焼くから、もらってほしい。

 なんだろう、このもやもや。この人に気持ちをぶつけたい。今すぐにでも。

 本当は、この優しそうな瞳を見た瞬間から気になってた。頭から離れなくなってしまった。

 だけど、告白はしない。今日のところは。

 だってあなたに失礼だ。一度は他人に渡すはずだったクッキーを手に告白だなんて。

 そもそも、ほとんど志帆に作ってもらっておきながら無敵の魔力を期待する方が間違いだ。

 あたしはルーキー。次はひとりで焼き上げたクッキーで挑む。だから。

 待っててね、翔平。

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