オレンジ・メモリー:キャンディ

 蒸し暑く過ごしにくい九月の午後。窓から吹き込む風が僕の頬をなで、髪を揺らす。残念ながら生暖かく湿り気を帯びた風は、授業の退屈さを紛らわすには爽やかさに欠ける。

 我が家は夏休みに引っ越し、僕は転校した。この高校へは二学期開始のタイミングに合わせ、昨日から通っているのだ。とても長距離の引っ越しだが、ここは知らない街ではない。戻ってきたのだ――幼い頃、僕ら一家が住んでいた街に。

 それにしても今日最後の授業は特に眠い。授業内容が頭に入ってこないのはこの暑さのせいばかりではないと思う。生徒の誰を指名するでもなく教師が喋り続ける授業スタイル。しかもその声は、お坊さんの読経と言うには声量が足らず、絵本の読み聞かせと言うには抑揚が足らない。教室内を見回してみると、何人かの生徒が船を漕いでいる。机に突っ伏して熟睡しているつわものもいる。

 催眠術教師。こっそりと教科担任に渾名をつけてやった。今回の授業内容は自習でカバーすればいい。そう見切りをつけ、僕は残りの授業時間を使って過去へと意識を飛ばす。以前、このあたりに住んでいた頃へ――。


         *         *         *


 あの日も暑かった。それでも、小学校入学前の僕らは外で駆け回っていた。生暖かい風と競うかのように、いつもの仲良し四人組で。

 おかっぱ頭でぽっちゃりしているけど、面倒見の良いお姉さんタイプの理緒りおちゃん。何かというと彼女に怒られ、よく頭を叩かれては謝っていたしょうちゃん。翔ちゃんは引っ込み思案だけど可愛らしい顔立ちと優しい性格の持ち主だ。そして翔ちゃんとは対照的に、理緒ちゃんを陰で支えるお兄さんタイプのりょうちゃん。太めの眉毛とすっと通った鼻筋が特徴的な、意志の強そうな顔立ちだ。

 理緒ちゃんにとって翔ちゃんが一番のお気に入りなのは僕らにはわかっていて、いつも叩かれる翔ちゃんが気の毒だった。歳の離れた兄は、幼い僕の相談にいつも真剣に耳を傾けアドバイスしてくれた。

「気になる子にはちょっかいをかけたくなるものさ。だけど、そのせいで仲が悪くなったり怪我したらつまらないだろ。だから、そんな時は新しい遊びに誘ってあげるといい」

 今日も翔ちゃんは理緒ちゃんに叩かれている。乱暴を始めた理緒ちゃんをいつまでも放置するわけにはいかない。そんなふたりをなだめて新しい遊びに誘うのは、いつしか僕と亮ちゃんの暗黙の役回りとなっていた。専ら、僕が翔ちゃんをかばい、亮ちゃんが理緒ちゃんをなだめる役だ。

「ほら、理緒ちゃん。僕ら四人で遊んでるんだからさ。みんなでオレンジキャンディなめよう。そしたら鬼ごっこしようよ」

 兄が僕らに伝授してくれた遊びの数々は、目一杯身体を動かすものがほとんどだ。しかし、鬼ごっこだろうとヒーローごっこだろうと、僕らの中心はいつも理緒ちゃんだった。ぽっちゃりしていても僕ら四人の中では理緒ちゃんが最も足が速く、力も強かったのだ。


「つーかまーえたっ。罰ゲーム決定よ」

 その日も、最後に僕が捕まることで鬼ごっこが終わった。僕らに遊びを伝授する際、面白がって兄が追加した余計なルールのせいで、僕は泣きそうになっていた。

「ほら、ルールなんだから嫌がらないの」

 嫌がるなと言う方が難しい。鬼になった回数が一番多い者は、一番少ない者の言うことをひとつだけ聞かなければならないのだ。頭を叩かれて痛そうにしている翔ちゃんの様子が思い浮かび、僕は理緒ちゃんの拳を避けるように後退りした。

「やあねえ。あたしが乱暴するのは翔平だけよ」

 そういうと理緒ちゃんは僕の顔を両手で優しく挟み、おでこがくっつくほど顔を近づけ――

「…………」

 唇に残る柔らかい感触。

 目を丸くして固まっている翔ちゃんを押しのけ、亮ちゃんが僕の目の前に立った。

「ずるいぞ、ふたりとも」

 亮ちゃんの唇が目の前に……。

 その日、僕は理緒ちゃんと亮ちゃんのふたりに、唇を奪われた。

 四人がそれぞれ空やら地面やらあさっての方向を向き、その間を湿った風が吹き抜けていく。唇をなめるとほのかなオレンジキャンディの味がした。


         *         *         *


 チャイムが鳴った。

 周囲の生徒たち同様帰り支度を始めた僕は、視界にひとりの男子を捉え……、ふと気付くと、帰り支度を忘れて固まっていた。

 太めの眉毛、すっと通った鼻筋。高い背と精悍な雰囲気を身につけているが、幼い日の面影がありありと見て取れる。転入前に生徒名だけが書かれたクラス名簿を見て、もしかしたらと思っていた。こうして実際に見て、僕は確信した。彼は僕の知っている亮ちゃん――秋山亮太だ。

「どうしたの、夏本。お、どうやら秋山のことが気になるご様子」

「か、片桐さん。ちょっと待って、別に僕は――」

洋子ようこよ。できれば下の名前で呼んで。まあ、無理強いはしないけど」

 僕は微笑し、目の前の少女、片桐洋子と目を合わせた。毛先を左右の胸元まで伸ばしたゆるふわパーマは彼女の小顔とよく合っていて清楚な印象だ。上品な笑顔を見せる彼女の顔は整っていて“良家の子女”という言葉を体現しているかのよう。でも、初日から話しかけてくれた彼女の口調と態度はそれなりにくだけていて、つきあいやすさを感じさせてくれる。

「わかった、洋子。僕のことも下の名前でいいよ」

「よろしくね。ところで昨日から気になってたけど、あなた運動部じゃないのに体育会系男子の口調よね。見た目がとっても可愛いのにもったいない」

 可愛いって、僕のことを言っているのか。お嬢様然とした洋子に言われても現実感が乏しく、返す言葉が見つからずに視線を泳がせていると、

「前下がりボブってあたしも好きよ。大きめの瞳、適度に厚みのある唇。周りを見てごらんなさい。ノーメイクでそれほどの素材を持つ人、そうそういないわよ」

「ええと。素直に嬉しいけど、さすがに褒めすぎというか。それに」

 このクラスの女子、洋子を筆頭にみんなレベル高いじゃないか――そう言おうとした僕を、洋子のウインクが制した。

「このあたしを除いて、ね」

 うん。確かに洋子にはそれを言う資格がある。

 次の瞬間、肩をふるわす洋子に気付いた。いたずらっぽく上目遣いにこちらを覗き込む洋子と目が合い、僕と彼女は声を揃えて笑いあった。

志帆しほが可愛いっていうのは本心よ」

 褒められていい気分になっていたことは否定できない。そのせいもあって油断していた。次の洋子の言葉は予想外だった。

「秋山ぁ。ちょっと、こっちに来てえ」

「どうした片桐。何か用か」

「…………」

 声にならない悲鳴。釣り上げられた魚のように口をぱくぱくさせてしまう。

 まずい。彼にこの様子、見られている。僕は両手で口を押さえた。たちまち頬が熱くなってくるのを自覚する。

「あなた昨日休んでたから初めて見たでしょ。転校生の夏本志帆さんがお友達になりたいんですって」

「そりゃ構わない、というかむしろ願ってもない」

 そういって彼は僕の一つ前の席までくると椅子をまたいで逆向きに座った。いきなり真正面だなんて。心の準備が……。

 救いを求める視線を洋子に向けたが、彼女は僕にウインクをすると、

「あたし用事があって。話し相手になってあげてね、秋山」

 そういい残し、素早く背を見せると歩き去ってしまった。

「やあ、挨拶がまだだったね、夏目さん。いや夏本さんか、ごめん。はじめまして、俺は──」

「ひ、久しぶりっ、亮ちゃん」

 僕の口から裏返った声が飛び出てしまった。顔から火が出る。もう、洋子め。だから、まだ心の準備が出来ていないというのに。助けてくれ。

 泳がせた視線の先で、足を止めた洋子がこちらを振り向いている。

「あら意外。お知り合いだったの」

 そうだよ。そんなことより僕をひとりに、というかふたりっきりにしないでほしい。でもそれをうまく言葉にできず、僕はひたすら目だけで訴える。

「ごゆっくり」

 あんたは僕の母親か、洋子。じゃなくて、置いてかないで……という僕の心の声もむなしく、洋子は先ほどよりもオーバーアクションに頭を傾けてウインクしたかと思うと、今度こそ歩き去ってしまった。あとでたっぷり聞かせてもらうわよ──彼女の背中が雄弁に語りかけてくるかのようだ。

 彼女が去り、ふと気付くと教室には僕と亮ちゃんのふたりきり。

「今、俺のことを亮ちゃんって言ったな。その呼び方懐かしいというか……」

 天井を仰ぎ思案顔になった亮ちゃんは、目を見開いて勢いよくこちらを向いた。

「しいちゃん。鈴村志帆ちゃんか」

 僕は一度机に視線を落とし、それから彼と真っ直ぐに向き合った。

「う」

「どうした。具合悪いのか」

 亮ちゃんのあわてる声を聞き、僕はもっとあわてた。

 必死に首を振り、違う違うとアピールする。

「う、嬉しいんだ。覚えていてくれて」

「そっか。でも、見ただけで気付いてくれたのはしいちゃんの方だろ。すっごく可愛くなってたから、俺は気付かなかったよ」

「あはは、お世辞ありがとう。亮ちゃんはちょっとオヤジっぽくなったかも」

「言ってくれるぜ」

 満面の笑みを浮かべていた亮ちゃんは、突然笑みを消した。

「苗字が違うけど、聞かない方がいいか」

「いいんだ、割り切ってる。両親の離婚でね、今は母親の苗字なんだ」

 さきほどより若干抑えた、困惑気味の笑顔を向ける亮ちゃんの目の前に、僕は右手を突き出した。

「亮ちゃんに会えたら……、僕の知ってる亮ちゃんだったら言おうと思って用意してきたんだ」

 僕の右手の中に小さな包みがふたつ。それに気付いた亮ちゃんは僕の手からひとつ抜き取ると、再び笑みを消した。

「それは……。待て。僕から言わせてくれ」

 僕は無言でうなずいた。思えばあの日、ずっと目を開いたままだったな。目を閉じると、肩まで上下させるほどの心臓の鼓動を自覚する。

「今でも好きだよ。俺と付き合ってくれ。……志帆」

「うん。……亮太」

 不快だった風も、今は穏やかに僕らを包む。

 あとでオレンジキャンディを頬張ろう。僕は目を閉じたまま、そんなことを考えた。

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