ラージヒルの逆三角形
仁井暦 晴人
ラージヒルの逆三角形:パフェ
重たげな音をたて、巨大な物体が目の前に置かれた。逆三角形の物体が二つ。大きな手がそれらを卓上に置くと、音がした。「ごとん」ではない。「どすん」だ。
「ごゆっくり」
威勢よく声をかけ、厨房へと戻っていくのはこの店――ラージヒルの店長だ。初老ながら若々しい足取りで、広い背を見せのしのし歩み去る。俺はしばし呆けたように口を開けて店長を見送ると、背もたれに深く身を預けて正面を向いた。
卓上に置かれた逆三角形の物体のせいで相手の顔が見えない。
「……なんだよ、これ」
返事の代わりに軽い息遣い。どうやら、鼻で笑われたようだ。
無言の相手に肩をすくめ、俺は逆三角形の物体を観察した。
大きなグラスだ。横幅はグラス最上部の一番幅が広い部分で二十センチ程度、高さは三十センチ以上ある。透明なグラス越しに中身を見ると、底の方には透き通った氷菓が敷き詰められ、中ほどには黒い塊が詰まっている。多分、小豆だろう。そして、グラスの上にはみ出すほど詰め込まれた白い塊はバニラアイス。
とんでもなく巨大なパフェだ。ちょっと他所では見られないほどの。
「ラージヒルスペシャル」
相手はメニューに書かれた正式名称を告げてきた。そんなことはどうでもいい。問題なのはこのとてつもない大きさだ。
「冗談だろ。これが一人分だってのかよ」
相手は二つのグラスを横に動かした。茶色がかったショートボブの女が挑むようにこちらを睨んでいる。
「まさか今さら降りるなんて言わないわよね、早食い勝負」
彼女は高い声を精一杯低くして凄んで見せた。が、目は笑っている。
「言わねえよ。ところで」
「なによ」
相手の反応に微笑を返し、俺は頭の後ろで両手を組んだ。
「なにか相談したいことがあるんだろ」
「やっぱりお見通し、か。相談だなんて一言も言わなかったのに」
彼女は少しだけ目を見開いた後、恥じらうような笑みを浮かべて視線を左右に泳がせた。
「何年のつきあいだと思ってるんだよ。いいぜ、言ってみな」
「勝負の後に決まってんでしょ、そんなの。もしかして、尻込みしてる?」
意外にも挑戦的な反応が返ってきた。彼女は、再び挑みかかる表情をしている。
やれやれ、勝負は本当にやるのか。よし、受けてやる。
「実物見たらさすがに面食らったが、逆に闘志がわいた。負けねえぞ」
俺が口元を歪めて笑ってみせると、彼女は顎を上げて微笑んだ――上等だ。闘争心に火が点いた。
「あたしの合図で始めるわよ。……用意。スタート!」
* * *
この公園を通り抜ければ自宅までは数分。今日は久々に夕方と呼べる時間に帰りつきそうだ。
曇っているが、公園の木々からは絶え間なく蝉の鳴き声が響く。その声に背中を押されるかのように、今日の俺は少し早足だ。
公園の真ん中付近まで来たところで、埃っぽい匂いが鼻を衝いた。頬に当たる雨粒に思わず瞬きをし、空を見上げた瞬間、辺りはバケツをひっくり返したような状態に。公園内の舗装路に跳ね返る雨滴は、園内の雑草の背を飛び越すほどの勢いだ。
慌てて鞄から取り出した折り畳み傘を広げたが、わずかな間に結構濡れてしまった。おかげで、走ったわけでもないのに汗をかいたかのように雫が頬から顎を伝い、傘の柄を持つ手へと滴る。
「おかえりー。思ったより早かったね」
聞き慣れた高い声が聞こえてきた。公園内に設置された屋根付きのベンチを見ると、女の子が手を振っている。幼馴染みだ。
「家で待ってると思ってた。俺がここ通らなかったらすれ違いじゃねえか」
「会えたんだからいいじゃない。それに、そろそろメールしようと思ってたところだし」
思えば彼女はずいぶんスリムになった。赤いタンクトップから剥き出しの肩はほっそりしていて、丸かった顎もすっきりと細い。もう、ぽっちゃりしていた幼い頃とは随分違う。もちろん、あの頃はあの頃で可愛かったのだが。
そういえば、背丈が逆転したのはいつだっけ。小学校高学年までは彼女の方が高かった。お互い高校生となった今、俺の方が頭一つぶん彼女より高い。
俺は傘を閉じ、屋根の下に入った。彼女は振っていた手を下ろし、両手を腰の後ろで組むと目を閉じて微笑んだ。彼女の胸元に吸い寄せられそうな視線を意識して固定すると、真正面から目が合った。
「どうしたの?」
小首を傾げた彼女の小さな顔が息がかかるほど近づき、ふっくらとした唇に目を奪われた。異性の二文字が脳裏に浮かぶ。
やばい、なんだこの動悸は。俺は咳払いして誤魔化した。
「メール貰ったから急いで帰って来たけど、俺の高校は隣町の外れだからな。結構待ったろ」
「そうでもないよ」
彼女は手ぶらだ。俺は屋根付きベンチの周囲を軽く見回した。どこにも傘が立てかけられていない。
「なんだお前、傘持ってないのかよ」
「夕立ちが来るなんて思わなかったの。入れてってね」
「いいけど。おばさんは?」
「同窓会。遅くなるって。あたし、うっかり鍵持たずに買い物に出たんだけど、お母さんその間に慌てて出かけちゃったみたいで。携帯にかけても出ないから、また携帯忘れて出かけちゃったのかも」
またか。おばさん――彼女の母親は明るくてよく気が付く人なのに、なぜか携帯だけは家に置き忘れたまま出かけることが多い。
「お前からのメール、“待ってる”ただ一言だったからまさかと思ってたけど、またかよ」
「なによ、またって。まだ五回目なのに」
「一学期だけでな」
もっと突っ込んでやろうかと迷い、面倒くさくなってやめた。ちなみに彼女、携帯から自宅の電話にかけ、俺の家にいる旨を留守番メッセージに残したそうだ。
そうこうするうちに夕立の雨足は幾分弱まったが、まだ降り続いている。
「待っててもやみそうにねえし、そろそろ帰るか」
「その前にラージヒル行かない? アイスクリーム食べたいし」
そう言いつつ、彼女の視線が左右に泳ぐ。なるほど、そういうことか。この仕草も彼女の癖なのだ。
ちなみに、最初にこの癖に気づいた直後、彼女はある男性アイドルに夢中になった。
その次にこの癖が出た後、彼女は当時の担任だった男性教師に熱を上げ、バレンタインに贈るチョコはどんなのがいいか、と相談を持ちかけられた。よりによってなんで俺が相談相手なんだよ。
まあ、理緒ってのはそういう子なんだから仕方ない。これはつきあってやるしかなさそうだ。なんとなく、今の俺なら年頃の娘を持つ父親の気持ちがわかるような気がする。
で、今度の相手は——。単なる憧れでなく、ちゃんと手の届く存在なのだろうか。例えば、彼女のクラスメイトとか。
少し胸がちくりとしたが、それは気のせいということにしておこう。
「ラージヒルって、先週近所でオープンした喫茶店か」
「そうそう。あそこのアイスクリーム食べてみたいのよ」
「わかったよ。今日はおごってやる」
溜息を吐き、穏やかに言ってから彼女を見ると、なぜか頬を膨らませて俺を睨んでいる。
「何よ、同い年のくせに。どっちがおごるかは勝負よ! 先に食べ終わった方の勝ち」
「はぁ? なんだよそれ。いい年してまだ俺より早いつもりでいるのか」
今まで早食い勝負でこいつに勝ったことはないが、それは過去の話だ。
「じゃ、行くよ」
あっさり流された。
俺たちは肩を並べ、ラージヒル目指して歩いていった。いくらも歩かないうちに彼女が言う。
「ねえ、そっちの肩、濡れてるよ」
「お前が濡れなきゃいいんだよ」
そのままのペースで歩いていると、傘を持つ俺の腕に彼女は自分の両手を添えてきた。昔から変わらない、柔らかな感触。
「なんか、逞しいっていうか。上半身、逆三角形になってきたね」
「ん? ああ、だから今回は早食い、俺の初勝利だぜ」
「ふふっ」
くそう、相談……か。誰だか知らないが、覚えておけよ。こいつ、すっげえいい娘だからな。泣かせるんじゃねえぞ。
「はぁ。……いいな」
「ん、なに?」
しまった、声に出してしまった。
「な、なんでも」
ない、と断言できなかった俺は、語尾を曖昧に呑み込んでしまった。
* * *
一秒間に五回。俺がスプーンを口に運ぶペースだ。対する彼女はせいぜい三回。女の子にしては早いが、俺の食べ方と較べたら優雅に味わっているようなものだ。やはり体格差のハンディは俺に圧倒的な優位をもたらしている。
しばらく黙々と自分のパフェに集中し、再び彼女の方をちらりと見た俺は……、絶句した。
あいつ、既に小豆の部にとりかかっている! 氷菓の部にさえ、部分的にスプーンが届いているじゃないか。
迂闊だった。多分、一口ずつの量が俺の倍以上だったのだ。
負けるものか。
残りのアイスクリームを一気に飲み込んだ俺は――
「――んぐっ」
己の判断ミスを呪った。
こめかみをおさえ、口と手を止めた俺に嘲笑が浴びせられた。
「ふふーん。余裕で勝利ぃ」
「おのれ」
金属音のような幻聴を伴うこめかみの痛みに苛まれる俺の目の前で、彼女は氷菓の最後の一口をスプーンに乗せ、ゆっくりと口に入れた。
「参った。最初からおごるつもりだったから、払うのは構わないが……」
勝負に負けたのはやっぱり悔しい。これだけの体格差をもってしても、甘味の早食いはいまだに彼女に敵わないのか。
「あははは。本気で相手してくれるから嬉しいよっ」
「ああ、勝っても負けても正々堂々。勝負で手を抜く奴は男じゃないからな」
楽しげに笑う彼女につられ、いまだに痛むこめかみをおさえつつ、俺も口の端を吊り上げた。
* * *
「さて、本題だな。相談があるんだろ」
既にパフェのグラスは片付けられ、代わりに卓上には水の入った小さなグラスが二つ。
「うん。実はあたし……」
あー、やっぱり聞きたくねえな。こいつの口から俺以外の男の話題なんて。
「ふられちゃって」
「へ?」
予想外の一言。我ながら間抜けな声を出したものだ。
あっけにとられ、次いでじわじわと怒りがこみ上げてくる。誰だ、こんないい娘をふった奴は。それはそれで許せん。
「いないのよ、あたしと甘味巡りしてくれる人」
「……へ?」
さっきよりもさらに間抜けな声が漏れた。
「かんみ、めぐり……」
「そうなの。いないのよ、甘党。あたしのクラスには、ひとりも」
「はぁ」
「しかも、真剣に勝負までしてくれる人となると」
グラスの氷が溶け、澄んだ音をたてた。
「いないのよね、目の前にしか」
彼女の言葉に対してほとんど反射的に、俺は自分を指差した。
「うん! だから、これからもよろしくねっ」
いつの間にか夕立ちが去っていたようだ。
「お……、おう……っ」
店内に差し込む夕日がグラスに反射し、きらきらと輝いた。
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