その十一:もしかすると、あの。

 中天の銀月が綺麗です。背後では相変わらず潰れたバナナの先端から水が滴り落ちています。何度見ても気持ちの悪い物体です。


 すいません、再び現実逃避してました。あまりの超展開につい…。


 というか、好きって?


 誰が? ラファが。


 誰を? 私を。


「ああ。離れる前に、これだけはどうしても伝えたかった」


 私はまだ頭が良く働いていません。別れるけど好き? うん? それって要するに何なんでしょう。


「シャル、俺にとってのお前は、お前しかいない」

「…?」


 ええと、よく分りませんが?


「俺は…こういう、話をするのが苦手だ。…上手く伝えられるか分からん」


 そういうラファの目は、初めて見る不安の色に揺れていました。


「俺は多分、しばらく渡り鳥を続けるだろう。これまでもそうだった」

「そう、ですか」


 不覚にもまた視界が歪み始めます。


「シャル」

「…っ」

「俺は、お前にもお前のままでいて欲しいんだ」

「え…」


 どういうことでしょうか?


「お前が一番お前らしいのは、あの酒場で演奏している時だ。だから俺は…」

「…ラファ?」


 ラファが目を逸らしました。心なしか顔も赤いような。


「お前は、ここで音楽を続けていてくれ」

「それは…」


 言いよどんだ私に、ラファは首を傾げます。


「どうした?」

「…私の演奏をちゃんと聴いてくれるのは、ラファだけなんです。だから、ラファがいないなら、私は演奏を続けられるか分かりません。誰も聴いてくれる人がいないのは、辛いんです」

「シャル、思い出せ。お前が来てから、酒場は随分明るくなった」


 そりゃあ、頑張って、明るくしようとしましたから。


「あいつらは、ガサツで大雑把で口下手だが、ちゃんとお前の演奏を聴いてる。だから、あの酒場の雰囲気は変わったんだ」


 お前が変えたんだ。だからそんなことを言うな。


 そうなのでしょうか。そうだったら、嬉しいです。


「そうだ。お前の音楽は、ちゃんと届いている」


 ラファは冗談を言うような人ではありません。だから、もしかしたら、本当なのかもしれません。


「ああ、だからまた、俺にも聴かせてくれ」


 また。


 また、ラファは、戻ってきてくれるんですか?


「もちろんだ」

「本当に?」

「必ず」


 私の胸に水が染みるように暖かい想いが広がりました。


 いつになく必死な様子で私に語りかけるラファ。そして、ラファのそのあまりにらしくない様子に、場違いながら今度はちょっと笑ってしまいました。


「…笑うな」

「すみません」


 とりあえず謝ります。でも、私に伝えたいことが、こんなことなんて、ええと、ほっぺつねっても痛いから、夢ではないようです。


「シャル…」


 あまりの展開に夢見心地の私を見て、ラファが呆れたような声を出しています。でもまあ、今の私にとってはそんなのは些細なことです。


 それにしても、もしかして、最初からラファはこれを言いたくて?


「ああ。本当は祭りの夜に、伝えたかったんだが…」


 …私が逃げちゃったんですね。もしかして、ラファとしては、かなり考えた末であの場を選んだのかもしれません。でも、順番が逆でしたね。


 だって、あんな風に切り出されたら、普通勘違いしちゃいますよ。お陰で私は逃げちゃったわけですし。


「それは…ウォンにも言われた。すまなかった。もっとお前の気持ちや、どうして欲しと思っているかを考えろと」

「もしかして、その殴られたって言うのは…」

「まあ、そういう事だ」


 どこか罰の悪そうなラファに、くすりと笑います。でも、それなら、私にもまだ、言わなきゃいけないことがあります。


「私も、ごめんなさい」

「…シャル?」


 ラファが謝るなら、私も謝らないといけません。


「私、ラファに甘えていたんです」

「何?」

「私も、ラファがこうしてくれるといいなとか、こうなったらいいなって、そういうことばかり考えていたんです」


 ラファのために出来ることをもっと考えればよかったのに。


「シャル、それは違う」

「違わないんです」


 練習に付き合ってもらうだけじゃなくて。例え料理が苦手でも、他に出来ることがあったはずです。


 だって、絆を育むって、そういうことですよね。お互いがお互いに、もっとこうしてあげたい、喜んで欲しいって思うことが大事なんですよね。同じ所で満足してないで、自分がもっとして欲しいなら、相手にもっとしてあげたいって気持ちがなければそれは自分勝手です。


 それを忘れないでいるならば、いつもそれを大事にしていれば、そうしてお互いの心が惹かれあっていくのではないでしょうか。


 それを怠ったのは、私も同じです。


「だから、私もごめんなさい」


 私が見つめていると、ラファは私の言葉が予想外だったのか、困ったような顔になって言葉が出てきません。


 だから、


「お互いにごめんなさい、でいいですよね?」

「…ああ」


 私が笑うと、ラファもようやく、そう言ってくれました。


 そんなラファを微笑みながら見ていると、ラファも私を見つめつつ、もう一つ決心したような顔になり、そこで私の手をとりました。


「…シャル、もう一つ、聞いてくれ」

「はい」

「今度の仕事、いつ帰ってこられるか、分からない。それが終わっても、またどこかへ旅に出るかもしれん」


 そこで、一度言葉を切りました。


「だが、必ず、ここに…お前のところに、帰ってくる。約束する。だから」


 気合を入れるように息を吸い込み、ラファは、


「俺が戻ってきたとき、演奏をしているお前の姿を見せてほしい。そして、俺を覚えていてくれるなら、一つだけ、俺の願いを聞いて欲しい」

「願い、ですか?」

「ああ、とても大事な」


 そこでラファは跪いて、私を見上げます。その目は真摯な光が宿っていて、ラファが本当に真剣なのが伝わりました。


 …と言うか男性が女性にこの姿勢をとるのって、普通に考えて、そりゃあ、アレしか考えられませんよね。でも、あの、これって、もしかして、もしかすると、あの。


 きゃうううう。


「聞いて、くれるか?」


 そう言って、私を見つめるラファ。私は再びの大混乱です。そして、多分限界を超えた混乱のあまり、


「ふ、ふえええ」

「シャル?」

「ふええええ、ふええええええん」


 私の喉から何だか恥ずかしい声が。でも止められないんです。目からぽろぽろ零れる水も。やばいです。私、今日こんなのばっかりです。


「シャル、シャル。泣くな」

「ふえええ、な、泣いて、なんか。ふえええええん」


 何ででしょう。すごく、嬉しいんです。今まで生きてきた中でも二番目くらいに。ちなみに一番は忘れましたけど。でも、私が、私みたいなダメな人間が、そんな大切な、ラファの大切なお願いを叶えてあげられるんでしょうか。


「お前にしか出来ない」

「…私に、しか」

「ああ。必ず、お前の元に戻る。だから、忘れないでいて欲しい」


 不安げな顔で私を見るラファ。なんだか、そんな表情をして欲しくなくてどうにかしようとしてどうしようもなくなって、私の口は勝手に答えました。


「はい、はいっ。忘れないです! 待ってますから、ラファの願いも、ちゃんと叶えられるよう頑張りますから! だからっ、早く帰ってきて、くだっ、くださいね!」

「…ああ、約束する」


 そうしてラファは立ち上がり、何だか熱っぽい視線で私を見つめています。そのまま、僅かに目元と、口元を緩めて、微笑みました。それだけで、普段の巌のような顔の印象が吹き飛び、柔らかい優しさがにじみ出てきました。


 不思議なものですね。ここに来るまでは、すごく暗い気分で、ズバッと別れてやるとか思っていたのに、今はとっても幸せな気分になっちゃってます。それは多分、私達が大事な一歩を一緒に踏み出したからなのです。


 そうして。


「――」


 そうしてラファは何やら小さくつぶやくと、そのまま私に顔を近づけます。私は何も言わず、目を閉じて…。


 初めての味は、とても甘くて切なくて、でもとても優しかったです。


 暖かい気持ちに包まれたわたしたちを、綺麗な月と、水を垂らす奇怪なオブジェが、穏やかに眺めていました。

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