自虐家は壊れ物を見る

自分の憩いの場である図書室は、四時半に閉められてしまう。もう少し時間があってもいいものだが、図書委員などの都合も考えた上であろう。自分は仕方なく読みかけの本を借りて、教室で読むことにした。

風が吹き荒ぶ渡り廊下を渡ると、自分の教室はすぐそこだ。この時間は部活などで生徒はいない。


はずだったのだ。


しかしながら、戸を開けば、一人いる。一人いた。残念ながら先客が一人いたのである。女子生徒が一人いたのである。

髪を横で二つに結っている白髪の女子生徒。

見た覚えはある、聞いた覚えはある。自分は確かにその女子生徒を知っている。今も平然と勉強をする女子を、知っている。

八尾衣やおいみくづ。

それが彼女の名前だったはずだ。自己紹介でそう名乗っていた。特技は確か、円周率を全部言えることだったか。

変な奴だとは思った。しかし、変な奴なりにも勉強はできた奴だった。噂によれば学年でトップクラスの頭だと言うのは聞いたし、テストのランキングでは常連だったはずだ。

しかし、それだけだ。知っていることといえばそれぐらいのものでしかない。

何故か。

それは自分があまりにも自分しか見ないからである。他人のことは知らなくても、自分のことは知っとけばいい。そんな人間だったのだ。

「……戸を、閉めて」

その重く冷たい言葉で、ようやく自分は我に返った。

睨んでいる。八尾衣みくづは自分を睨んでいる。クリンとした目でじとりと睨んでいる。雰囲気が恐ろしい。たじろぎながらも戸を閉めて、自分の席に座る。

よく見てみれば八尾衣みくづの右二つ隣の席が自分だったらしい。微妙な距離である。心境も微妙なものがある。こんなことで微妙になるとは情けない。

取り敢えず本を読む。読みかけのどこぞの評論本だ。中々言うじゃないかと、上からの目線で斜めに読む。無論入ってくるのは断片的な情報だ。

しかしながら、今はその断片の断片も頭の中にインストールされてこない。

何故か。

八尾衣みくづが目を見開いて自分を見つめてるからだ。見つめてるからだ。

何故そんなに見つめているのか。何か理由でもあるのか。

自分も横目で彼女を見る。若干引きつった顔をしていた。口はぽかんと開いている。

何故だ、何故その表情で見つめる。どこぞの大阪のグリコのような笑顔では見つめてはくれないのか。いやむしろ見つめないでくれ。気が変に散ってしまうから。


「……何をしてるの……」


あまりにも震えた声だった。異様で異常な震えた声。

「別に本を読んでいるだけだろ。何か不都合なことでもあるのか?」

瞬間、それは破かれていた。本が破かれたのだ。

目の前で起こっていることが理解できなかった。ただ、図書室の本が破られるのを見つめるしかなかった。

あっという間に塵となる。あっという間にゴミになる。

「って何してんだ!」

「何してるのはそっちでしょうが!」

べしん

と、頬が弾けた。

一息、遅れて気づいた。目の前の女子生徒、八尾衣みくづに自分は平手で叩かれていたのだ。顔を見ればなにかに酷く怯えた表情だった。

やはり理解できない。

しかし、八尾衣みくづもようやく我に返ったのか、へたりと膝を落とした。乱れた息がひとつふたつと続いていく。今更ながら自分のした事に気付いたのだろうか、ごめんなさいをつぶやきはじめた。


ごめんなさい。

ごめんなさい。

ごめんなさい。


震える肩は触れるとすぐに壊れてしまいそうだった。

自分は目の前で自分勝手にも咽び泣く少女を慰めようとは思わなかった。所詮自分は薄情者である。泣いてる相手を見たところで可哀想だなんて一切思わない。

勝手に泣いていろ。

自分は破かれてしまった本の片付けに勤しむ。折角の本が台無しだ。いったい何と言い訳すれば良いのだろう。困ったもんだ。

でも、やはり気になるといえば気になる。

好奇心だけは、強いらしい。

「自分は怒られるような事をしたのかなぁ」

目を合わせず、体を向けず、独り言のように呟いた。答が返ってくるなんて期待はしていない、むしろダメもとだ。ダメもとでこんな事を言うのだ。知らなくてもいい事なのだろうし。

片付けが終わるまでに八尾衣みくづは語らなかった。他人なんかに自分の事を話さないのは当然のことか。他人にあんな風に怒る奴に当然と言うのは、少しだけ違和感はあるが。

しかしながら未だに体を震わすのを見ていると、何をしていても気まずいものだ。いっそ帰ってしまおうか、なんて考えも巡る。

しかしながら、ほっとくのも限界だった。

「いい加減泣きやめよ」

なんて言って自分は八尾衣みくづの肩を叩く。

ほんの軽く叩く。

叩いただけだった。


彼女の体が崩れた。


砂の城が簡単に崩れるように、それはもう呆気なく崩れ落ちて倒れ伏す。そんな状況に唖然とするほかなかった。

いや唖然を通り越して、苦しそうに漏れている息がどこかエロく感じてしまったほどだ。

そんなこと思っている暇は、当然のごとくなかったのだが。

迅速かつ慎重に八尾衣みくづを背負って、保健室まで行った。気が動転していたのだが、そういう時ほど人間は冷静な対応をとれるということを自分はこの時学んだ。

しかしながら八尾衣みくづをベッドに寝かせると、先生は妙に深刻な顔を見せた。



自分は結局、八尾衣みくづが起きるまで彼女のそばに付き添っていた。自分はこんなことする人間ではないはずだった。

『あんな話』をされて何かを思わずにはいられない、そんな人間じゃなかったはずだ。

いや自分というのは中途半端なやつだから、そういう何かを思ってしまったのだろう。情けない。

八尾衣みくづを一瞥して、一つ溜息を吐いた。

彼女は、どうしようもなく不安定なやつだと言うざるを得ない。

そうだろう、癇癪をあげて、泣き喚いて、簡単に崩れてしまった彼女のどこが安定だと言うのだ。

こんな不安定な人間じゃ、到底世の中も生きていけないだろう。自分も人のことは言えないが。


ぱちっ。


と、八尾衣みくづの目覚めはその擬音がよく合った。一も二もなく起き上がると、キョロキョロと辺りを見渡す。そして徐々に顔が青くなるのが容易にわかった。

「だめ、だめ、だめ……」

壊れた機械人形のようにその言葉を繰り返すやいなや、ベッドから慌てて飛び出した。

しかし、倒れた。

起き上がろうとしても、腕ががくんと沈む。生まれたての馬のようにそれを繰り返すので見てはいられなかった。

「今は、勉強の、時間……今は、勉強の、時間……」

何かに洗脳されたような呟きを彼女は繰り返す。いや、洗脳自体はされているのか。

要は虐待だ。

勉強しなければ痛めつけられる。規則正しく生活しなければ痛めつけられる。決められた場所では決められたことしかしてはいけない。決められてないことをしたら、当然痛めつけられる。

いかれている刷り込み教育だ、と先ほどの保健の先生は言っていた。

ここで自分はようやく納得した。なぜ自分の本が破られてしまったのか。

彼女にとって教室とは勉強する場であり、あの時間は勉強をする時間なのだ。

それ以外のことをしたら、いけない。それ以外のことをしたら、痛めつけられる。

だから、自分は叱られた。彼女にとって、自分に定められていることは人にも定められているのだ、と思っているのだろう。哀れなことだ。

しかしながら、正直なところ痛い。

八尾衣みくづは色んな意味で痛い。心が弱い自分には痛いことこの上ない。

そんな彼女に届く言葉はあるのだろうか。彼女の心に届く言葉。

何も浮かびはしない。ただ、無性にこう思った。

目を覚ませ、と。


だから彼女の頬をはたいた。


そりゃもう思いっきり、いやベッドの方へ吹き飛んだのを見るとやりすぎたという反省も無きにあらず。やっちまった。

そして案の定、それは裏目に出た。


「な、な、な、な、なにするのヨォッ!!」


先ほどまで力なく立てなかった女子生徒が、こちらに向かって飛びかかる。しかもそれが猫のように素早かったので避ける術なく押し倒され、そして殴られた。容赦なく殴られた。

顔だ。顔をよく殴られた。やられっぱなしだ。

痛いには痛かった。辛いには辛かった。

でもなぁ、それよりも印象に残ったのは、醜く顔を歪めて泣いているのか笑っているのかわからない八尾衣みくづだった。

喜怒哀楽がごちゃ混ぜになってしまった八尾衣みくづだ。

そして自分は、つくづく再確認せざるをえなかった。


八尾衣みくづは、もうどうしようもなく壊れてしまっているのだと。


その時分になってようやく現れた保健の先生に八尾衣みくづは止められた。いや、なだめられたと言っても過言ではないだろう。

八尾衣みくづは混乱のあまりなのか、気を失いベッドの上に逆戻りとなった。まぁ、あんな風になったのだ。当然といえば当然の処置なのかもしれない。

自分はと言うと、もう帰りなさいと一応の手当てだけを受けて保健室を追い出された。まだ頬がじんとして痛むがそれはもうどうしようもないことだ。

そして、八尾衣みくづのこともどうしようもないことなのだろう。

壊されてしまった人間を治すことなんて容易いことではない。あそこまで壊れてしまっていては、並大抵の人には治せない。

治せるとしたらそれは、聖人か随分なお人好しなのだろう。

そして、自分はというと、ただの自虐家だ。

自分を抉る自虐家に、人をどうこうしようなど随分おごがましいことだ。だから、自分は彼女がいる部屋のドアを閉めたのだ。

くるりと背を向けて、自分は歩く。振り返りはしなかった。

明日、八尾衣みくづは学校に来るのだろうか。あそこまで壊れていてなお、来るのだろうか。というか、今までよく来れたものだ。驚きである。

まあ、心配してももう仕方のないことだ。自分にとっては終わってしまったことなのだから。

きっと、彼女も自分のことを思い出すことはあるまい。自分は、そんじょそこらにいる人間の一人に過ぎないのだ。

……なにもできない人間の一人に過ぎないのだ。


さぁ、今日は帰ろう。明日も学校へ行くのだから。

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