「寂しかったんだ」

 裕二がポツリと言うと、茉莉は、違うわよ、と即答した。

 それが照れ隠しで、なんと大人な対応をしようかと試行錯誤してると、茉莉は、うん、と再び声を漏らした。

「ちゃんとした恋愛が、できるようなタイプでもない私を、拾ってくれたのは、紛れもなく裕二だった。記憶を辿って、あたたかな思い出を思いだせば誰だって悲しくなるし、せつなくなる。だって、過ぎた時間には、一生戻れないから。亡くなった人と、二度と出会えないように。だから、私は幸せを感じると、同時に、怖くなるの。破綻した時、記憶を思い出して、自分は悲劇のヒロインだと思って、泣くんだろうなって。さめざめ泣いて、一人になった自分に嫌気がさして、そしてまたぬくもりを求めて、そして、また、同じ事を繰り返す。そんな自分って、すごく惨めじゃない。戻れない時間を思い出して泣くなんて、すごく、馬鹿げているじゃない。だって、その時なんて一生回ってこないんだから。そんなこと、するもんじゃない。過ぎ去った日々は、もうそこから動かないの。だから、裕二との思い出も、何もかも忘れようと思ったの。夜中に荷物を纏めて、旅にでることにしたわ」

 旅、という言葉がスルリと心に滑り込んできて、裕二は呆気にとられた。

 物語の話の続きが、あまりにもできすぎていたからだ。

「た、旅?」

 失恋の感傷旅行?と言おうとした言葉を呑み込んで、裕二は、真っすぐに茉莉を見つめた。

「そう。カンボジアにね」

「カンボジア?」

「いくら驚いたからって、そんな風に口をあけっぴろげにするのはよくないと思うわ、大人として」

「いやいや、茉莉って、英語喋れたっけ?」

「喋れない」

「よくだな」

「よく行ったわよ、勇気めっちゃだした。私なりにめっちゃ頑張ったの」

 あはは、と声をあげて、裕二は笑った。

 めっちゃの言い方が、あまりにも普段の茉莉とは不釣り合いで、無理をしているように見えたのだ。

 茉莉は、お嬢様のような風貌をしているから、周りは放っておけないような感じがする。そんなお嬢様が、旅にでるなんて。

 そうだ、旅行へ行こうという簡単な宣伝文句に似合わず、茉莉はとても、奥手に見える。

 梢だったら、一人で旅へ出るというようにも見えた。外見的にも性格的にも、しっかりした女性に映るからだ。

「一人で?」

「当たり前じゃない。カンボジアはね、色んな人がいたの。身寄りのない小さな子供もいたし、手足が不自由なおばあさんもいた。日本に比べて、技術も経済も発展していない。だから、人との繋がりが大切なの。みんなで協力して、支え合って、許し合って。そうやって生きていた。それを見てるだけで、私、なんて自分は贅沢を言っていたのかって思い知った。ゼロになって、初めて視界に入ってきたものは、どれも美しすぎるくらい眩しかった。喧騒なんてなにもないことが、これほど心落ち着かせてくれるものだとは思わなかった。裕二に浴びせた酷い言葉も、二人で罵り合って喧嘩したことも、なんだかすべて、幻のように見えたの。私ね、幸せだったから、いろんなことを許せなかったんだと思う。手放したかったんだと思う。喧嘩できたことも、愛するが故に解り合えなくて泣いたことも、すべて、意味があったの。今に繋がっているんだって」

 茉莉の瞳から大粒の涙が流れ落ちた。

 視界が歪んで見えるのか、茉莉は何度もティッシュでそれを押さえた。「本当は、別れてからとうに気づいていたの。私、本当に心から裕二のことを愛していたんだって。だから、小さな欠点が、どうしても目について、許せなかったんだって。自分のものにしたかった。自分の枠をはみだしてほしくなかった。だけど、それを認めることは、裕二を愛していないってことになる。自己本位で怒りという感情になってしまえば、裕二に悪いから、って。だから、言えなかった。でもそれも、マグマのように沸々と熱くなって、最終的には、爆発したの」

「茉莉」

 裕二は、ふうっと溜め息をついて、茉莉の頭を撫でた。

 そうしたくなったのだ。

 茉莉の葛藤を理解してあげるにはまだ、あの頃の自分では、幼すぎた。

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