『ねえ、裕二』

『ん?』

『どうしてさ、有名なテーマパークには毎日、大勢の人が出入りするんだろうね』

『さあ?楽しいんじゃない。非日常的だから』

『非日常をだせる空間でも、人間が多くいたら、現実に戻ってしまうじゃない。それより、一人で夜景を見ている方が、よっぽど非現実な空間にいれる気がするの』

 少しでも目を離せば、どこかへと消えてしまいそうな、そんな危うげな雰囲気もあった。まるで、靴下の猫のようだと、思った。

 あの猫は、茉莉そのものだ。

「部屋のラグ、どうしてこれにしたの?あなたに、似合わない」茉莉は、言った。

 茶色い丸テーブルの下に敷いてあるラグは、白いトラが歯をむき出しにして威嚇している表情を見せている。

 給料日に行きつけの家具屋へ出向き、苛ついていた自分の心境と威嚇したトラを重ね、勢いで買ってしまったものだ。

 そこに特に、意味はない。

「確かに、このカントリーな部屋には、似合うけど、裕二のイメージって、もっとインテリな感じがするから、感情をむき出しにしたものって、アンバランスな気がして。ちゃんとした暮らし、しているのね。びっくりしちゃった。部屋も綺麗に片付いているし」

「おかげさまで。そっちはどうなの、生活は」

「今は、月六万円の1DKに住んでいる。セキリュティも万全だし、電車も快速で止まるし、いい所よ。貯金は見事になくなったけど。ほら、私は高給取りじゃないから。でも別にいいの。自由だし、自分の時間がもてるから」

「よく言ってたもんな。独身貴族に、憧れているって」

「そうそう。よく覚えてるのね」

「覚えてるよ、勿論」

 冷めきった紅茶を差し出し、レモン汁の容器を手に持ったままで、数滴、垂らした。

 一瞬で色が変わる様子に、茉莉は、驚きの表情を浮かべた。

 色はみるみるうちに変化し、やがて、完全に、桃色になった。

「なんだか、理科の研究実験みたい」

 幼い子供のように、はにかむので、思わず、すごいだろう?といった顔を作って見せた。

 ストレートティーは、派手な色に似合わず、地味な味である。

「茉莉は、今、どこに住んでいるの?」

 きっと、教えてくれないだろうと思いながら、聞いてみた。

「秘密だよ」

「なんだ、相変わらずだな」

「だってあなただって、なにも教えてくれないじゃない。どこで働いているのかとか、彼女はいるのかとか、そういった詳細なこと」

「隠しているわけじゃないよ」

 ジーンズのポケットから、赤い煙草のパッケージを取り出した。白い筒を一本引き抜いて、銀色のケースのジッポで火を点ける。

「教えてくれたっていいじゃない」口を窄め、紅茶を啜った。

「いいけど」白い筒の中に詰まった煙を胸中に送り込み、目を閉じる。

 茉莉はよくわからない。

 何を求めているのか。

 真実が、欲しいのか。

 それとも、気休めが欲しいか。

 人の心は不安定であって、それを汲み取ることは難しい。

 茉莉はデリケートで繊細で、怒りがどこに眠っているのか、まるでわからない。けれどそれはもう、元の鞘に戻す必要もないということだ。怒らせたとしても、悲しませたとしても、もう僕には、何の関係もないことだ。

「仕事は、会社の経理をしている。新しい彼女はいるよ。別れてから、すぐに付き合った」

 事実無根を話せば、見破られてしまうだろう。だから、平然と、言った。

「そうだと思った。きちんとした暮らしをしているから」

「まあ、時間は流れたから」

「そうね」

 ふぅっと大きく溜め息をついて、「でも私、帰りたくない」茉莉は言った。

「いやでも終電あるし、まだ、帰れるだろ」

 時計に目配せをした。

 もしかしたら、男としての度量を試されてるのかもしれない。ここで誘惑に乗ってしまったら、負けである。けれど、ここでもし、感情に振り回されたら、終わりになるだろう。

 それは、わかっている。

「終電までなら」裕二は、静かに言った。

 白い筒に詰まったフィルターの煙を口から吐き出して、白い筒を灰皿に押し付ける。

 こういう時、悪になりきれていないと、思う。

 どうしても突き放すことができないのだ。

 突き放したら後味が悪いという言い訳だけをして、言葉を繕って、打算することのできない、清算をこれからしていく。

「この部屋、寒いか?」

 裕二は聞きながら、クーラーの暖房の電源を点ける。

「寒くないよ」

 とりあえず僕は、CDラジカセにnodoubtのアルバムを入れた。目の前にいる茉莉との思い出の曲が多いから、もう二度と聞くことはないだろうと思っていた。それなのに、ついつい手は意思とは裏腹に伸びていて、再生ボタンを押していた。

 これを聞かせると、茉莉の機嫌がよくなる。

 CDはゆっくりと回り、音を部屋中に響き渡らせている。

 決まっていた出来事のように自然と、二人の間に落ちていく。

 触ると凍えてしまう白い雪の結晶のように。

 誰にも触ることのできない距離で。

「あなたが最初に私の前に現れた時、私、寂しかったの。前の彼氏が新しい彼女と浮気して別れることになって、友達も離れていたから。本当にあなたのことを好きになったのは、付き合って暫くしてから。あなたは私の前で、いつも不機嫌そうにしていたでしょう。退屈そうにあくびをしたり、デート中は遠出してくれないし、ちっとも楽しくなかった。愛が欲望になって、私はそれに溺れてた。怠惰な生活ばかりを繰り返していると、人は愛に気がつかなくなる。心の底では、あなた以外に居場所を求めるようになった。よく、恋の賞味期限は三年っていうじゃない。三年もすれば魔法が解けて、それが当たり前になって、飽きてしまうって。その過程が、怖かったの。私がいなくても十分にあなたは幸せに生きていけるはずだし、私はいつも、あなたから離れることだけ考えていた。同棲しても、それは変わらなかった。でも、別れる理由もないと思っていた。あなたのこと、いつでも待っている女でいたかったけど、私はあなたに執着していただけだったの。それが、自己欲望という形に繋がっていただけ。今思えば、なんて馬鹿なことしていたのかと思う。あなたを失って、うまく人を好きになることができなくなった。欲望ばかりを優先させていたから、恋愛の仕方も、わからなかった。身体だけの繋がりでもいいと思った。それが欲望を満たすための一番手っ取り早い方法だったから。いいと思う人は現れたけど、その人は真面目で完璧で、私にとっては、なんだか物足りなかった。一人でいると、その虚しさからは解放されるの。独身貴族になるって、本当に、そうなっちゃったんだから」

 声も、仕草も、顔色も、三年前と何も変わっていない。

 変化のない問いかけも、僕の中の腹立たしい叫びも、きっと届かない。

 何も変わらない。

「独身貴族は、気楽?」

 茉莉は、苦虫を潰したような顔をして見せた。

「束縛もないから、気楽だよ」

「そう。よかったね、離れられて」

 子供じみている会話は、変わっていない。

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