第31話
「ねえ、一緒に帰らない?」
突然そのような事を言われたのは、小テストが終わり、平穏無事に飼育小屋の清掃を済ませた直後だった。
私を含めて四人いる、飼育小屋の掃除当番――教室の後ろの黒板の傍にある、『丸斗』『星野』『三神』『白柳』と言う四つの苗字を持つ生徒――のうち、男子の二名は掃除を済ませた後、すぐにそれぞれの目的のために私たちの元を後にしていた。がっちりとした体を持つ三神君の方は、どうやらあの後先生に補習をするように言いつけられてしまったらしい。前の小テスト絡みのようだが、いったい何をしでかしたんだか、と言う話で盛り上がった時、突然帰り道の同行を誘われてしまった訳だ。
確かに、私の右隣で笑顔で返事を待っている女子生徒――クラスメイトの星野さんとは、すっかり互いに打ち解けた間柄、いわゆる『友達』になっていた。ずっと長い間、私が誰とも話せず、暗いまま学校生活を過ごしていた間でも、星野さんは隙を見つけては私に声をかけてくれていた。でも、一緒に帰るとなると、私は何故か緊張してしまった。
嬉しくない訳が無いし、嫌がる気持ちなんて無かった。きっと私は、そういうことに慣れていなかったのだろう。『ブタ子』と呼ばれ続けていたときから、ずっと帰り道は一人だけ、のんびりと景色を眺めたり、学校のことを思い出して憂鬱な気分になってしまったり、そしてそのような心を、ブタさんやイケメンさんのことを思い出して紛らわしたり。私は『一人』でいる事に慣れかけてしまったのかもしれない。
そんな戸惑いが顔にも出てしまったようで、星野さんは私に励ましの言葉をかけてくれた。
「大丈夫だって、変な事しないし。どうせ部活も休みだから、一緒に帰りたかったんだよ」
「う、うん……でも……」
その時だった。掃除中もずっと優しそうな瞳で見つめるだけで何も言わなかったブタさんが、飼育小屋の中から元気な音で一声鳴いたのは。
「……ほーらー、あそこのブタだって応援してくれてるじゃん!」
「え……あ……うん……そうだよね」
自分に言い聞かせながら、私は心にあった緊張感を拭い去り、決心した。星野さんの言葉通りに、私の耳にもブタさんが応援してくれているように聞こえたからだ。最後の踏ん張りをしっかりと支えてくれたかのように。
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友達と一緒に帰り道を行く。入学してから、初めての経験だった。
「でね、その後にさー……」
「へえ……そうなんだ」
「そーそー。それでさ、色々とややこしい事になってさ……」
いつも明るい星野さんは、私とは良い意味で対照的な性格だった。引っ込み思案でつい言葉が詰まってしまう私に対して、様々な話題をたくさん提供してくれたり、私の返答からより話を盛り上げたりで、西日に照らされる帰り道で会話に詰まるという事はなかった。男子生徒も諌めるほどの気の強さを持つようにも見えた彼女は、どこかお姉さんのようにも見えた。
でも、しばらく話を進めていくうち、急に会話が止まった。そして、私の方をじっと見つめて、こう言った。あの時――私が例の女子生徒たちの標的になっている間、ずっと何も出来ず、助ける事ができなくて、本当に申し訳ない、と。
突然の告白に、私は戸惑ってしまった。
「え……べ、別に……私は……」
正直な話、私としてはその過去は、一つの思い出に変わろうとしていた。良くも悪くも、時が過ぎるというのは過去の出来事を『思い出』と言う大きな箱の中に入れてしまうものなのだろう。とても苦く、辛い過去だったけれど、私はそれを何とか乗り切る事ができた。勿論、一人だけの力では不可能だったけれど。
でも、私が乗り切る事ができても、その様子をずっと見ていた人――近くの席で、ずっとその様子に見てみぬ振りをする事しかできなかったという星野さんにとっては、まだ大きな壁として残っていたのである。
「私も、『あいつら』には何もする事ができなかった。怖かったんだ。だから、ずっと目を背けるしか……」
それだけ、あの女子生徒たちはクラスにとって怖く、そして――言い方がとても悪いけど、忌まわしい存在だったのだ。先生まで味方につけられては、いくら真面目でお姉さん的存在の彼女でもどうする事も出来ないのは当然かもしれない。例の女子生徒たちが去った後もこの事をずっと心の中で悩み、そしてここで打ち明けたのだという。
でも、星野さんは隙を見つけて、何度も私に話しかけてくれた。次の授業の内容やテストの結果、そして弁当の中身のような他愛のない会話ばかりだったけれど、私にとっては本当に嬉しかった。そして、星野さんにとってもまた、『頭が良くて優しそうなクラスメイト』と交友関係を持つのは有意義な事だった、と本人の口から私は聞く事が出来た。言われた本人としては、なんだか照れくさかったけれど。
そして、私は悩む星野さんに言った。自分は、気にしてない、と。
「……多分、私も……星野さんの立場だったら、同じ事をしていたと思う……」
彼女がずっと抱えていた心の内を明かしてくれたように、私も自分の考えをはっきりと伝えた。自分の身の安全を守るという前提がなければ、いくら相手のために何か親切をしたとしても、それが却って仇になってしまう事もある。あの女子生徒たちが、私――ブクブク太った『ブタ子』と仲良くするクラスメイトを目の敵にして、最悪の場合自分たちの仲間に加えてしまうという事は十分にありえただろう、と。
でも、それ以上に私が伝えたかったのは、今の私は、星野さんが悩み、悔い続けていた事を、私自身はもう克服できている、と言うことだった。正確に言うと、まだ私の方もついあの過去を思い出しては不安になったり、自信を無くしてしまいそうな事があるので、完全に克服した、と言うのは嘘になってしまう。それでも、星野さんの事は『友達』だと思っているし、これからもきっと同じだ。
勢いに乗ってつい長く話してしまい、顔が真っ赤になってしまった私を、星野さんはじっくり見て、こう言った。
「……意外と熱血なんだねー」
「え、そ、そう……なの……かな?」
「あはは、ごめんごめん。勝手な考えだから気にしないで」
予想外の発言に戸惑ってしまったけれど、私の思いは星野さんに十分伝わっていた。元の明るい笑顔から、ありがとう、と言う感謝の言葉がかけられた。
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星野さんと私の家が同じ方角、同じ道を通って行った先にあるなんて、この時まで全く知らなかった。今までも顔を合わせるときはあったかもしれないけど、今度からはしっかりと互いに挨拶を交わす事が出来る。そんな事を話し合っているうち、星野さんから、とんでもない言葉が飛び出した。
「ねえ、好きな人っている?」
――素っ気なさそうに出た言葉だけど、私にはまさに不意打ちのような発言だった。驚きのあまりに咽てしまい、道端で咳き込んでしまうほどだった。ただ、その理由を星野さんの方は、いきなりそういう発言をして驚いてしまったからだ、と考えているようであった。
本当は、私とイケメンさんの仲が、既に明るみになっている、と私が勝手に勘違いしてしまったからである。
出会ってから何度も話し、一緒にお気に入りの本を借り、デートにも向かっている。例え私やイケメンさんが否定しても、その様子は間違いなく『恋人』そのものなのだろう。でも、私としてはその関係を内緒にしておきたかった。前まではあの女子生徒に嗅ぎ突かれて大変な目に遭ってしまうから、と言う恐れだったけれど、今は照れくささ、気恥ずかしさが一番の理由になっているのかもしれない。
何せ、私はまだあのイケメンさんの住所はおろか、名前すら把握していない。この不思議でどこか脆そうな関係を、崩したくはなかった。もしかしたら、秘密にした一番の理由は、私自身の我がままだったのかもしれない。
「だよねー……私も全然、好みの人が見つからなくてさー」
「え……そ、そうなの……?」
恋人がいると言う悪い優越感よりも、意外だという心が私を包み込んだ。すらりとした綺麗なスタイルで、髪形も可愛く整えてある星野さんには、てっきり恋人がいるとばかり考えていたけれど、現実は全く逆だった。格好いい、と思った人はいるけれど、大好き、付き合いたい、とまで思う人とはまだ巡りあえていないのだと言うのだ。
「あーあ、私にぴったりの恋人はどこにいるのかなー」
「きっと見つかるよ、大丈夫……かどうかは」
「まぁ、諦めたわけじゃないからさー。心配しないで」
「……うん」
大丈夫、絶対に星野さんの事を心から思ってくれるイケメンさんはどこかにいる。
T字路での別れ際、私は心の中でエールを送った。今までに感じた事のない、明るくもどこか不思議な気持ちが、私を包み込んでいた――。
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