第5話
「き、緊張する……」
今日の授業を終え、同級生たちが賑やかに帰宅する様子を見送りながら、私は一人で別の方向に向かっていた。いつもならそのまま動物たちの待つ飼育小屋に向かい、小鳥やカメ、そしてブタさんたちに色々と話しかけたりじっとその様子を観察したりしている私だけど、今日だけは違った。イケメンさんと交わした約束を守るためだ。
それでも、やっぱりいざ本番を迎えると心臓がドキドキし始めた。事務の先生の部屋に勝手に入って大丈夫なのか、怒られたりしないだろうか。恥ずかしがり屋で引っ込み思案だった私にとっては、こうやって誰かに相談するという事はとても勇気のいることだった。なぜかイケメンさん相手だとそのような事無しに語りかけることができたんだけど。
そして、意を決した私は、先生の部屋のドアを叩いた。
「し、失礼します……」
「ん……おぉ、君か!いつも動物たちの世話をしている」
事務のおじさんの先生は、私の心配に反して喜びの顔で出迎えてくれた。
「いやー、君が大事にしてくれるお陰で動物たちも喜んでるよ」
「あ、ありがとうございます……」
いつもの通り、事務の先生は優しく明るい口調と表情で私に話しかけてきた。ちょっと早口の言葉の前に、なかなか私は本題を言い出すことができなかった。いつも色々な生き物とふれあっている先生なら、自分の『夢』についてヒントを与えてくれると思ったのに、どうしてもそのきっかけを掴めなかった。
でも、私が慌てなくとも、先生から私の方に声をかけてくれた。一体何の用件で、自分の部屋を訪ねたのか、と。
「あ……あの……」
「ん、どしたの?」
そして、襲い掛かる緊張をなぎ払って、私は先生に伝えた。
生き物を扱う仕事で、自分に向いていそうなものはあるのか、と。
「……生き物の仕事ねぇ……」
「ご、ごめんなさい……急な相談で……」
「いや、夢があるのは凄い良い事だよ。『夢』はいろんなことのエネルギーになるからねぇ」
事務の先生も、イケメンさんと同じ事を言って私を慰めていた。やっぱり将来の目標を持つということは、私が勉強を進める中でどうしても足りなかった要素なのかもしれない。闇雲に勉強したからって、それが今後どうなるのかなんて考えたことも無かったからだ。
そして、少し思いにふけっていた後、事務の先生は私に向けて一つのアイデアを出してくれた。
「だ、大学の教授……ですか?」
「そ、生き物を専門に研究をする、大学教授の事さ」
様々な機械や薬品を使い、情報が入れば世界各地に飛んで、あらゆる生き物の不思議や謎を解き明かしてしまう、それが『大学教授』だ、と事務の先生は嬉々として私に語った。
「別に研究所の中で色々な怪しい実験ばかりするのが生き物の研究じゃない。外に行って森や海の生き物を調べたり、牧場の牛や馬と触れあったり……」
私の頭の中に、色々なイメージが生まれ始めた。今まではこういう生き物の研究には漠然とした印象しかなかったけど、事務の先生の話を聞いていくと、不思議に様々な情景が浮かんできたのだ。生き物の行動や一生、子育てや結婚といった大きな世界から、生き物の体を作る細胞、その中身の遺伝子などの小さな世界、さらには新種の生き物をたくさん発見するというものまで、一口に『生物教授』と言っても実に様々なものがあるのだ。
次第に私の心の中に、そのような生き物の専門家たちに対して特別な感情が生まれ始めた。ずっと生き物が大好きだった私が、今まで以上に生き物に触れ合い、その秘密を解き明かすだけの力を得ることができたら、どんなに楽しく、そして素晴らしい事なのだろうか。
でも、それと同時に不安も生まれ始めてしまった。
「あの……」
「ん、またまたどした?」
「も、もし研究が上手くいかなかったら……」
「なーに、心配ないよ。そうならないように、しっかりと勉強すればいいんだから」
事務の先生も、ずっと若い頃は言葉にあったような感じの大学の生物の仕事に就いていた。でも、やっぱり最初の頃はいつも失敗ばかりで思い悩み、一時は完全に塞ぎこんで実験すらできない状態になってしまったと言う。でもそういうときに事務の先生の『先生』、つまり大学の教授さんがこう言って励ましてくれた。
最初のときはたっぷり失敗をすれば良い。次に同じ事をしないように、たっぷり勉強や練習を繰り返せば、それくらいすぐに挽回できる、と。
その言葉に感銘した事務の先生はその後に勉強や練習を続け、見事に実験を成功させたと言う。
「……そ、そんな事が……」
「ま、君みたいな若い子が今からあせる必要は無いかな。
じっくりと確実に進めば、きっと大丈夫さ」
私の心の中に、将来の夢が少しずつ形を帯び始めてきたのを、事務の先生はまるで知っているようだった。
生き物を研究する仕事になりたい。大学にいって、教授になりたい。まだまだ単なる夢だけど、それでも私の心の中には不思議とやる気や勇気が湧き始めていた。
「あ、ありがとうございます……!」
一礼をした私に、事務の先生は明るくエールを送ってくれた。
お父さんやお母さん、そしてイケメンさんばかりじゃない。私の傍には、私のことを応援してくれる人がまだいっぱいいる。そして、私の将来の夢を後押ししてくれる人も。それだけでも、私にはとても嬉しかった。
その日の夜の宿題は、いつもより5分も早く解き終わってしまった。
「へえ、大学の教授!」
いつものように図書館に行き、再びイケメンさんと会った日、私はあの時の会話を余す事無く彼に伝えた。大学の教授と言う道があると教えてくれたこと、失敗をしてもそれだけ挽回すればきっと大丈夫だと励ましてもらったこと、そして私の『夢』が、形を帯び始めたこと。
「なんだか、勉強のほうもはかどって……」
「良かったじゃん!いい事聞いちゃったみたいだなー」
まるで自分の事のように、イケメンさんは私の言葉に喜んでくれた。
彼はいつも、私のことを無条件に信頼し、そして後押ししてくれる。綺麗な顔に美しい髪型、テレビの中のアイドルが飛び出したような美貌に、私はまた顔を赤らめてしまった。イケメンさんと話している時、私は自分が『ブタ子』であるという事を忘れてしまうほどだった。いや、そんな事を思う必要すら無かった。
「じゃ、俺はここで……」
「あ、あの……!」
今日もまた私よりも先に去ろうとしたイケメンさんに、私はついこんな疑問を投げかけてしまった。いつも私よりも先に家に帰ってしまうけど、一体どこにあるのだろうか。私も行っても大丈夫なのか、と。
そう聞かれて回答に少し困っているような表情をした後、彼は私に言った。
「……ま、そのうち教えてやるよ。だけど、今は内緒、な?」
「は、はい……ごめんなさい」
「謝りっこなし!心配するなって、俺は気にしてないからさ」
そうだった、一度失敗しても、次はそう言う事を繰り返さないようにすれば良い。私にはまだたくさんのチャンスも可能性もある、先生がそう教えてくれたんだ。
そして、改めて私はイケメンさんが家に帰るのを見送った。いつものようにウインクで礼を返すその美貌にまたまた顔を真っ赤にしながら。
ただ、このときの私は不思議な事に気づいていなかった。
どうして名前も知らないイケメンさんと、こんなに仲良くなれたのだろうか。
いや、それ以前に、あのイケメンさんの名前は何ていうのだろうか……。
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