4 尋常の世界

















「……え……た……」














 誰かの声が聞こえる。











「……いた…………きて……」















 それはとても懐かしくて、聞き覚えのある声だった。













「瑛太ーーーー!!!! 起きろーーーー!!!!」

「ぬおわっ!!」

 俺は突然のその大声に驚き、座っていた椅子から勢いよく落ちてしまっていた。

「あはは! なにやってんの? 馬鹿なの?」

 そこには、俺のとても情けない姿を、見下ろしながら笑う少女がいた。

 自分で染めたまだらな栗色の髪は肩で切り揃えられていて、吸い込まれそうな大きな瞳と俺を見て笑う小さな口、小柄な体とまるで彼女のために作られたような白と青の古めかしいセーラー服が、その全てが、目の前の少女を美少女たらしめていた。

「…………」

 俺は、その光景の意味をすぐに理解する事ができなかった。

「……なにそんな鳩が豆鉄砲食ったような変な顔しているのさ。まるで突然異世界に飛ばされて、ここがどこだかわからない。お前はだれだ。記憶にないぞ。みたいな感じのリアクションしてるよ?」

「………………………………」

「…………瑛太?」

「………アニメの見過ぎだろ、——未来」


 ——古町 未来こまち みらい


 それが、彼女の名前。



「あはは。よかったちゃんと私がわかるんだね。じゃあ瑛太、ここはどこだかわかる?」

 俺はその言葉を受け、周りの風景を見渡す。

「……部室。文芸部の」

「ざっつらいと!! よし、君は異世界人ではなく、ちゃんと日暮瑛太くんだね」

 オーバー気味に笑う未来。

 そこは俺の通っている学校の、そして所属している部活の部室だった。

「なんか随分ぐっすり寝てたけど、なんだか壮大な夢でも見てた?」

「………………さあ、どうだかな」

「むっ! なによぅ! そのつまんない反応はっ!」


 俺の発言がお気に召さないらしい未来の文句を聞き流して、窓の外をみる。そこには形容しがたいほど美しい色を持った夕焼けが広がっていた。

 そうだった。俺の住んでいた町は、こんなに綺麗な夕焼けが見えるんだった。

 それはまるで、雲の上だけが別の世界で染まっているような。

「ほんとなんなの? 今日の、ってか今起きてからの瑛太、ちょっと変だよ?」

 少しだけ、本当に少しだけ心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。

 ええい、近い。

「……なんでもねぇよ。寝起きだからぼーっとしているだけだ」

 俺はなんとか机を支えに立ち上がり、後ずさる。

「ふーん。……っていうか下校時刻!! 先生に怒られちゃうから早く帰る準備!!」

 急かされ、俺は未来に言われるがまま身支度をする。

「他の奴らは?」

 本来そこにいるべき数人の存在が認められない事に気づき、俺は未来に尋ねる。

「とっくに帰ったよ、誰かさんが活動もせずにグースカ寝てるうちにね」

「活動つったって本読んでるだけじゃねえか」

「まあ、そうなんだけど、一応部活だし?」

「さすが部長様だな」

「なんだい、副部長様」


 ”いつものように”憎まれ口を叩き合う。


 その後、部室の鍵を返し、ともに帰宅することになる。いつものように。

 未来が楽しそうにいろんな話をして、俺はそれに相槌を打つ。いつものように。

 いつものように、いつもの日常の光景が、目の前に広がる。

「あ、そうだ。このせか、昨日更新された分読んだ?」

 未来がいうこのせかとは、「この目新しい世界で人生謳歌」の略称で今話題の異世界転生モノのWeb小説だ。近頃、未来がはまっているアニメ化も決まっている作品。

「いんや、まだ。っていうかしばらく見てないな……」

 俺は、なんど未来からプレゼンを受けても異世界転生の魅力がよくわからなかった。

「なんでよー、今いいところなんだよ!」

 喋りっぱなしの未来に今度は俺から話を振る。


「…………なあ」

「ん? なに瑛太」


「————お前さ、異世界転生って、してみたいか?」


 俺の突拍子もないその質問に未来は目を丸くする。

 しかしすぐに笑顔になって答える。

「あったりまえじゃん! だって人生やり直せるんだよ? 魔法だって使えるし、悪い魔物をバッキバキ倒していったら絶対気持ちいいよ!」

「……まあ、そういう奴がいるから異世界転生モノが流行るんだろうな」

 こいつはそういう奴だ。典型的な、異世界転生してチートやらアイテムボックスやらを駆使して大冒険をしてみたいと願っているタイプのオタク。

 でも、別にバカにしたいわけじゃない。本当に輝いた目で、未来は自分の戦う姿を空想しているだけで、それは、とても微笑ましいものなんだと思う。

「もうなんなの? そういう冷めた目線で物事を見るのはよくない! それに瑛太だって物語の主人公になってみたいでしょ?」

 主人公。その言葉がいったい何を指すのか、俺にはあまりよくわからない。

「……誰だって、自分の人生の主人公だろ」

 生まれた瞬間から死ぬまで、どうやったって、人間は世界の中心だ。例外など、ない。

「もー、そういうことじゃないんだよー。身を挺して誰かを守ったり、剣と魔法を使って強大な敵に挑んだり、世界全土を巻き込むような壮大な恋愛したり、そういうの、憧れない?」

 それを聞いて俺は静かに笑ってしまう。

「なに笑ってんのさ!」

「いやいや、悪い悪い。お前は変わんないな、って思ってさ」

「子供っぽいって言いたいわけ?」

「それは想像に任せる」

「瑛太のその上から目線ほんとむかつくっ! むきー!!」



「…………いや、でもさ、悪くないと思う。」



「……ふぇ?」

 俺のその発言は、未来にとって想像もしていなかった言葉らしく、変な声をだしていた。なんだそれ。

「そういうのどこかで馬鹿にしてたけどさ、でも悪くないと思い初めてさ」

「まだちょっと上から目線じゃない? ……でもまあ、許したげる」

 本当に嬉しそうに笑って数歩だけ駆け、振り返る。



「異世界に行くなら、瑛太と一緒がいいな」



 満面の笑みで、恥ずかしいセリフを大声で言ってのける。

「そう、だな」

 こいつは、そういう、やつだった。








 そうだ、俺は充分幸せだったんだ。

 こいつと、こうやって話したり、笑いあったり、憎まれ口叩いたり、それだけで充分幸せだったんだ。

 剣も、魔法も、俺は必要としていなくて。……でも、




















「…………俺じゃなくてお前が、”あの世界”に行ければ良かったのにな」









「……は? 何言ってんの?」

 未来は、俺が何を言っているのか、全くわかっていない。

 まぁそうだろうな。










 早い段階で気づいていた。あの世界は夢オチで、ここが現実。








 ……なんてことは、ないって。













 あの世界が現実かどうかはまだわからない。

 でも、確実に今俺がいるこの世界は現実ではない。


 それだけは、確実だった。










「瑛太、何言ってんの? 頭でもおかしくなった……?」

 あるいは、そうかもしれない。戸惑う未来を無視して俺は続ける。

「なあ、異世界転生者って、めっちゃたくさんいるよな」

「え? ま、まあ、流行ってるからね」

「今頃、異世界は異世界人が増えすぎて、生態系が崩れて困ったりしてんのかな」

「何言ってんの? 二次元の話だよ? そんな現実的なこと……」

「でさ、困ったその世界の原住民たちは異世界転生者を沖縄のマングースみたいにさ、殺傷処分したりすんかな」

「…………? そういう小説があるの……? 確かにちょっと着眼点はおもしそうだけど」

「面白いよな。死んで異世界転生するのに、転生してすぐモグラ叩きみたいに殺されるんだぜ」



「いやいや、それじゃあ物語、終わっちゃうじゃん」





「——でもさ、」






 でも、











「——俺にとってはもう、終わったようなもんだったんだよ。自分の物語なんて」









「さっきから瑛太が何言ってんのかわからないんだけど……」

「"人生"が終わらなくても、"物語"が終わることがあるんだよ、異世界じゃない、この世界には」

「は? ………………って、ええ?! 瑛太?! 何泣いてるの?!」

 言われてから気づいた。止めようとしても止まらない涙が、俺の頬を伝っている。

 構わない。俺は涙を拭うことすらせず言葉を続ける。


「……何にも期待してなかったんだ。これ以上。別にここで死んだって、あそこで死んだって、俺にはどうでも良かったんだ」










「瑛太、どうしたの本当に?」












「——お前が」













「……私?」














「————あの日、お前が死んでしまったその瞬間、






















 その日は、なんの変哲もない、いつも通りの普通の日だった。

 いつものように部活が終わって、一緒に帰って、いつもの交差点で別れて、

 その後間もなく、居眠り運転の車が未来に突っ込んだ。


 俺の大切なそいつは、

 俺の大好きだったそいつは、

 アニメとラノベと漫画が大好きなそいつは、


 これから出会えるであろう数多くの様々な名作にその日以降、

 もう出会うことはできなくなった。




 世の中の理不尽さに、絶望した。

















 その瞬間に、俺の、……俺が主人公として語られるべき「」は









「……………………」


 目の前にいる、幻想が作り出した偽物の小町 未来が何も言わなくなった。












 それから俺は終わった物語の中、終わらない人生を惰性のように生き続けた。

 剣と魔法どころか、なにも求めない日々が続く。





「正直、自分も事故にあって、助かった。って思ったんだ」

「……………………」

 未来の形をした幻想は何もしゃべらない。


「終わらない人生が鬱陶しくてたまらなかった。お前と過ごした楽しかった時間がどんどん過去の記憶になっていくのが苦痛だったからだ」

「……………………」

「俺の人生は、それなりに楽しかった。お前がいたからな。……そう言えるまま、人生を終えることは、幸せだと思ったんだ。でも異世界転生は、のぞみ望んだお前ではなく、何も望んでいない俺に起きた。……まったくよけいなお世話もいいところだ」













「…………でも、」


 何もしゃべらなかった未来が、ようやくその口を開いた。


「向こうで、生きたいって、思ったんでしょ?」



「…………………………ああ」




 正直に伝える。




「それでいいよ」

「……え?」

「めっちゃ羨ましいし、クソ野郎! って思うけど、転生しちゃったもんは、楽しまないと」

「いやでも、もう俺はあっちでも……」





「まだ物語は終わってないよ。ほら、あるでしょ? 物語には、”オヤクソク”ってやつがさ、それとも、…………テンプレってやつ?」

「……えっ?」

 "いつものように"おどけて笑う未来、

「精一杯、かっこいい主人公になってよ」

 それは、それはまるで、幻想なんかじゃなくて、

「…………」

「いつか、本当に瑛太がわたしと同じところへ来た時に、お土産話として聞かせて貰うつもりだからね」


 懐かしい、本当に、俺が好きだった未来のような、そんな気がした。




 なんだよ、それ。 





「だから、超つまんないにしたら、わたしが許さないからね」





 ああ、そうだ。

 こいつは、そういうやつだった。


 いや、そういう、やつなんだ。




「……わかった」






「あ、あと、瑛太」

「……なんだ」

「先に、死んじゃってごめんね」

「いや……」

「苦しかったよね」

「……そ、れは」

「多分、寂しかったよね」

「……」

「もしわたしがそっちの立場だったら絶対に耐えられなかった」

「未来……」

「だから、ごめんね」





「後ひとつ、——大好きだったよ! ……それだけ、じゃね!」





「ちょっ、おま……っ!」


「ぐっどらっく! またね!!!!」





 俺の発言を許さないほど、すぐにその幻想は消えていった。


「…………馬鹿野郎」





俺にもう、異世界転生を脱落することは許されないらしい。

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