やさしい光の降る場所で

夜野せせり

第1話

 春の、ぬるい空気を胸いっぱいに吸い込む。咲き始めた花の匂い、芽吹いた若葉の匂い。中学校のある町の中心部から離れて、あたしは、畑や田んぼに囲まれた長い坂道を自転車で登っている。

 中学三年、最初の日。今日、転入生が来た。大橋陸、と大きく黒板にその名が書かれ、先生の後ろにいた背の高い男子が前へ出てぺこりと頭を下げた。

「大橋です。小四までこっちに住んでいたので、覚えている人もいるかと思います。また、よろしくお願いします」

 狭くでこぼこした道の脇には雑草が茂り、ピンク色の小さな花を咲かせている。この花、小さいけど蜜が甘いんだ、陸と一緒に蜜の花蜜の花って呼んでて……。

 陸。あたしの、かつての幼なじみ。

 自転車を降りて立ち止まる。陸が戻ってきたというのは知っていた。もうずいぶん前から近所の人たちが噂してたから。四年ぶりに現れた陸は、あたしの記憶の中の陸とはほど遠かった。背は伸びているし、髪も伸びているし、声も低くなっているし、何より初対面のクラスメイトの前で物怖じせず自己紹介をこなした。ありえない。あたしの子分だった陸はチビですぐ泣くし、あがり症のビビりで、運動会ではコケるし発表会では声が出ない。要するに、どうしようもないみそっかすだったんだ。

 ホームルームの後、同じクラスの奈美はきゃあきゃあ黄色い声をあげて騒いだ。

「ねえねえ、転校生、イケメンじゃない?」

「べつに普通じゃね? 転校生補正がかかって良く見えるだけだよ多分」

 すげなく突き放しても奈美は食い下がった。

「だって葉月は男子に興味ないからっ! そういうの、わかんないんだよっ」

 確かに。あたしは男子なんて興味ない。奈美がはしゃぐ気持ちもわかんない。

 陸は速攻でクラスの男子に囲まれて質問攻めにされ、女子たちはそれを遠巻きに見つめてそわそわしていた。これが転校生の通過儀礼というやつか、と妙に冷めた気持ちでその様子を眺めていた。

 陸はあっという間に男子たちの輪の中に溶け込んだ。その明るい笑い声はさわやかでさえある。光をまとっているみたいだ。きっとクラスの中で一番陽のあたるポジションに行くんだろう。あいつマジで四年の間に他の誰かとすり替わったんじゃないか。

 家に着くと、ちょうどお母さんも畑仕事から戻ってきたところだった。

「おかえり葉月。陸くん同じクラスだったんでしょ? どんな感じ? 何か話した?」

 情報、早すぎ。相変わらずの我が母をあたしはひややかに見つめた。四年前、陸の両親の離婚はイナカの閉じられたコミュニティの中ではセンセーショナルな事件だった。みんな口さがなく噂していた。うちの親もそう。

 陸のお母さんは、お姑さん、つまり陸のおばあちゃんと反りがあわなくて追い出されたらしい。つばをまき散らしながら陸のお母さんを罵っていたおばあちゃんも、二年前に亡くなった。陸は葬式には来ていない。


 あたしと陸が幼なじみだったということはいつの間にか学年中が知るところとなっていた。休み時間、普段あまり絡まない女子も陸の話を聞こうとあたしの机の周りに寄ってきて、この上なく面倒くさい。適当に流していたらすぐに誰も来なくなり、かわりに、遠巻きにひそひそ話をするようになった。まじでめんどい。関わりたくない。

 一年の秋にバレー部をやめて以来帰宅部のあたしは放課後につるむ友達もなく、当然やることもなく、里山の道をだらだらと自転車で帰った。まっすぐ家に帰りたくなくて、毎日通学路をそれて、UFO基地で時間をつぶした。UFO基地は、林の中にある、しろつめ草の咲く原っぱだ。子どもの頃陸と一緒に探検して見つけた、とっておきの場所。木々がとぎれて不自然にぽっかり空いた空間は、きっとUFOが着地する場所なんだよって昔陸が言った。ばかにしつつも、内心では、あたしもそれを信じてた。

 制服が汚れるのもかまわず、一面にはびこるしろつめ草の上に仰向けに寝転ぶ。まるく広がる青空を、雲がゆっくりと横切って行く。花のにおいがする。

「はーちゃん。何してるの?」

 視界に突然人の顔が現れてぎょっとする。陸だ。あわてて跳ね起きる。

「ちょ……。いきなり脅かすなよ心臓に悪い」

「道端にチャリ止まってんの見て、もしかしたら、って来てみたら。やっぱりはーちゃんだった。ぜんっぜん変わってないね」

「人の話聞けよ」

「はーちゃんさ、クラス同じなのに俺のこと無視してるよね」

「さっきから人の話無視してんのは陸だろ」

 陸はくすくす笑うとあたしのとなりに座った。俺とか。言ってるんだ、自分のこと。昔は「ぼく」で、もっと昔は「陸くん」だった。陸くんね、おやつ食べたいの。陸くんね、はーちゃんのケライになるの。「家来」の意味をわかってなかったおバカなやつ。

 春の陽が射して、ぬるま湯の中にいるみたいにほっかりと暖かい。陸はしろつめ草を摘んで、せっせと何か編んでいる。そういえば昔から手先だけは器用だった。

 お母さんが亡くなった。それで陸はこの町に、お父さんのところに戻ってきた。うちの親は、そう言ってる。だけど目の前にいる陸はみじんもそんな影を感じさせない。

「できた」と、陸は大きな花冠を掲げてみせる。

「超久々なのに、手が覚えてるもんなんだね」

「あんた、どーすんのそれ」

 冷ややかな視線を投げると、にんまり笑ってあたしの頭に乗っけようとしてきた。そうはさせるか。ひょいっと冠をとりあげる。

「責任もって自分でかぶって帰れ」

 陸の頭の上にのせると、「バッカみてえ」と、ほんとにバカみたいにげらげら笑った。

 立ち上がり、笑いすぎて涙目になっている陸を見下ろす。花冠の作り方を教えてくれたのは、陸のお母さんだった。なのにそんなに笑って。なんか、もう、見てられない。

「どしたの、はーちゃん」

「べつに。つーか、『はーちゃん』って呼び方、やめな」

「えー、何で」

 あたしは無言でスカートについた草を払った。そして、陸を置いて基地を後にした。


 翌週。席替えがあった。くじを引いて自分の番号の席に机を移動させると、となりに陸がいた。あたしに気づくと、にんまり笑った。

 つぎの授業は数学で。むすっとふくれて方程式の解を求めるあたしのひじに、小さな紙片が当たった。「よろしくね。はーちゃん」とある。はーちゃんって呼ぶなって言ったのに。ちらととなりを見やると、陸は涼しい顔でシャーペンを動かしている。なんか、くやしい。何かがくやしい。陸のくせに。陸の分際で。

 陸は。休み時間は男子たちに囲まれて楽しそうに笑ってるけど、退屈な授業中とか、よく、頬杖をついて窓の外をぼんやり眺めている。その目はここではないどこか遠くをさまよっていて、お母さんを思ってるのかなって、思った。だけどつぎの休み時間にはもう明るい声をあげて笑ってる。ほんとに陸はばかだ。

「はーづきっ」

 昼休み。奈美があたしの前の席のいすに座った。

「アメあげるっ」

 どーも、とアメ玉を口に放る。レモンの味がする。いつもきゃらきゃら騒がしい奈美は裏表のない子で、だけどそのぶん空気を読むのは下手で、女子の間でちょっと浮いている。みんなが血液型占いの話で盛り上がってる時に、「でもこれって科学的根拠ないんだよねっ」と満面の笑みで言ったりするのだ。あたしは奈美のそういうところがおもしろい。

 奈美はぐっとあたしに顔をよせ、声をひそめた。甘いレモンのにおいがする。

「ねーねー知ってる? 大橋くん、二組の三上さんにコクられたらしーよ」

 まじで? もう? 早すぎじゃね?

 声にならない言葉をくんだのか、奈美はうんうんと大きくうなずくと、でも断られたんだってー、と嬉しそうに言った。

 そうか、ついにコクられたか。五時間目、国語の教科書ごしに陸の横顔を盗み見る。相変わらず涼しい顔してる。

 告白とか慣れてんのかな。前の学校でもよくされたのかな。つーか何でコイツがモテんの? くっそ生意気……。

 と、ふいに陸がこっちを見て、ばっちり目が合ってしまった。陸は、思いっきり目じりを下げてにやあっと笑うと、自分のノートの端っこをぴりりと裂いた。ささっと何か書きつけてあたしの机に投げる。

「西岡先生、鼻毛出てる」とある。教壇のほうに目をやると、「論語」を朗々と読み上げる西岡の鼻から、確かに、毛が。気づいた瞬間、あたしは「ぶほっ」とふき出してしまった。

「小宮? なんだ?」

 西岡がつかつかと寄ってくるけど笑いを押さえることができない。真っ赤になって西岡の顔を直視しないように耐えてたら、件の紙切れを取り上げられた。

 当然のように西岡はぶち切れて、あたしと陸は立たされて長い説教をくらった。授業中だけでは収まりがつかず、放課後も職員室に呼び出されて延々くどくどやられた。

 解放されて、職員室の扉を閉めるやいなや、陸があたしにこっそり耳打ちする。「西岡先生、ちゃんと鼻毛切ってたね」

 扉の前でしゃがみこんでげらげら笑うあたしたちに西岡が気づいて、こらあっと怒鳴られた。やばっ、とふたりして一目散に逃げる。全速力で駆けて、靴を履きかえて駐輪場へ。学校指定のださいヘルメットかぶって、猛烈にこいだ。空はオレンジ色に染まりはじめている。あたしの横を走る陸もださいヘルメットかぶってて、すごいスピードでこいでいるのに余裕の笑みをうかべている。くそ。昔はとろくてあたしについてこれなかったくせに。

「わかったろ? 西岡って粘着質なんだよ。あいつ怒らせるとしつっこいから」

「はーちゃんが笑うからバレたんじゃん。『ぶほ』って何だよ『ぶほ』って。ゴリラかよ」

「うっさい。ってか、はーちゃん言うなっつったろ」

 そのまま陸と一緒に帰るような感じになってしまう。家が近所だからしょうがない。田んぼや畑の間をぬう長い上り坂。いつも途中で自転車を降りて押していくんだけど、陸が汗ひとつ流さずに立ちこぎしていくんで、悔しくて無理してあたしもこいでいく。ペダルが重い。バレー部辞めてからなまってる。

「ゴリラっていえば、ボスゴリどーしてんの? 元気?」

 陸が聞いた。ボスゴリは三つ年上の最凶いじめっこで、小学生の時陸はさんざん泣かされてて、あたしがいつも守ってやってた。

「さあねー……。どうしてんのかなー?」

 あいまいに言葉をにごす。ボスゴリは三年前から引きこもって部屋から出てこないらしい。一時期近所のひとが噂してた。ゴリんちの家庭環境とか、学校での成績とか。ボスゴリは嫌いだけど、そういうのは、いやだ。

「なんか、色んなことが変わってくんだよね」

 空は夕焼けに染まって、光が陸のやわらかそうな髪を金色にふちどっている。あたしはついに自転車を降りた。ヘルメットをぬぐ。陸も自転車を降りて押し始めた。あたしに合わせてるんだ。くやしい。陸のくせに。

「つーか早くヘルメット取りなよ。ださっ」

 乱暴に言い捨てて、ごまかす。陸がくすくす笑ってる。それがまた、むかついた。

 つぎの日から、時々陸と一緒に帰るようになった。というより、帰るタイミングがかち合っちゃってそのまま、という感じ。繰り返すけど家が近所だからしょうがない。

 教室でも休み時間もちょくちょく絡んでくるようになって、無視したいけど、つい適当に相づち打ったりボケにつっこんだりして、なんだかんだで。たくさん、しゃべっている。

 奈美は何が嬉しいのか知らないけど、「今日は大橋くんと帰らないのー?」とか、「休み時間何しゃべってたのー?」とか、やたら聞いてきてちょっとうざい。しかも奈美の声は高くて響くから、そのたびにクラス中があたしに注目する。たいてい、男子はにやにや笑ってて、女子は遠巻きにひそひそ言ってる。

 言いたいことがあるなら直接来いや、と全身から殺気を漂わせてピリピリしてたら、本当に言いに来る奴があらわれた。二組の三上さんと、その取り巻きの女子三人。その日は日直で、放課後ひとりで日誌を書いてたら、いきなり机をぐるりと囲まれた。

「ねえねえ、小宮さんって大橋くんと幼なじみだったんだよね」

 取り巻きのひとりが早口でまくしたてる。

「まあ、そうなるかな」

 ていうか子分だけど。家来だけど。陸に告ったという三上さんは取り巻きの背中に隠れて泣きそうな顔してる。しっかりしろよ。そんなんでよく告白とかできたな。それとも、それも友達に言わせたとか?

「つき合ってんの?」

 四人の中で一番気の強そうな奴が、単刀直入、ずばり、聞いてきた。首を横に振ると、

「えーだってみんな噂してるよー。授業中手紙やり取りし合ってるとかさー」

 と、詰め寄ってくる。

「つーかずるいよね。もと幼なじみじゃ、うちら入ってく隙ないじゃん?」

 そんな事言われても。うるさいから無視を決め込んだら、三上さんの友達はヒートアップしてきて、「小宮さんはいつから好きなの」とか「まだ告らないの」とか言ってくる。いい加減、あたしも限界だ。

「あのさあ」

 がたん、と大きな音をたてて立ち上がる。

「関係ないから。あんたたちには」

 ぎん、と思いっきりメンチ切ってやる。しばしの沈黙の後、三上さんが、ぐすん、ぐすん、と泣きだした。取り巻きが、「こっわあー」「ユキかわいそー」と、彼女をかばいながらあたしを非難する。怖いのはどっちだよ。一対四だよ? いきなり取り囲まれたのはこっちだよ?

 ばかばかしくて、あたしは日誌を持って教室を出た。明日からめんどくさいことになるかもな、とぼんやり思う。中学に入ってからあたしには敵が多くて、それは大体女子で、ボスゴリなんかより断然やっかいだった。脳筋ボスゴリは最低野郎だったけど、こっちもやり返したり先生にちくったりすればよかった。女子たちは、いや、男子もそうなのかもだけど、徒党を組む。気に食わない奴を悪者に仕立て上げる。バレー部でもそうだった。

 はじめてレギュラーをとった日。あたしのかわりにはずされた先輩は、それまで優しかったのに手のひらを返した。何を吹きこんだのか知らないけど、あっという間にほかの部員を自分の味方にして、あたしを無視して、退部に追い込んだ。

 芋づる式にいやなことを次々に思い出して、情けなくて涙が出そうになって、でもここはまだ学校だからこらえる。やっとのことで駐輪場まで行くと、陸がいた。

「何してんの?」

「待ってた。はーちゃんのこと」

「何で?」

「今日遅いな、そういや日直だったな、もうちょっと待てば来るかな、とか。思って」

「いやそれ答えになってないし」

 チャリのカゴに乱暴にかばんを投げ込む。

「何であたしがあんたと一緒に帰んなきゃいけないわけ?」

「楽しいじゃん。一緒のほうが」

 屈託のない笑顔。あたしばっかり泥臭い感情にまみれてるみたいで、むかつく。そもそも誰のせいであいつらに絡まれたと思ってるんだ。

「あたしは楽しくないから」

 チャリのスタンドを跳ね上げる。

「こんな風に待たれても迷惑だし。あることないこと詮索されてさ、面倒なんだよね」

「知ってるよ。俺も、つき合ってんの、ってよく聞かれる」

 あまりにも平然と言ってのけるから、ちょっとびっくりして、顔をあげた。いつも通りの涼しい顔だ。何にも言えなくて、陸を置いて駐輪場を出る。ぐいぐいペダルをこいでたら、陸が後ろからついて来た。

「来んなよ」

「だって俺んちもこっちだし」

 口笛でも吹くような軽やかな言い方。ほんっとうにむかつく。

「バカにしてんの?」

「してないよ。だってはーちゃん涙目だったからさ、ひとりになんてできないよ」

 気づいてたのか。意外と敏いやつ。

 きまり悪くて、陸を無視して進んだ。田んぼは耕され、水を入れるのを待つばかり。坂道の脇には黄色いきんぽうげがちらほら咲いていて、蜜の花の季節はもう過ぎていた。

 坂の傾斜がきつくなって、自転車から降りる。陸はやっぱりまだ余裕の笑顔だ。

「はーちゃん、誰かとつき合ったこと、ある?」

「あるわけないじゃん。あたし男子に恐れられてるし。殺人光線出すとか言われて」

 ぶはは、と陸は笑った。自転車を押しながらあたしの顔をのぞきこむ。

「みたいだねー。大橋ってドМだろってよくからかわれるよ」

「何が言いたいわけ」

 むっとして陸を睨みつける。殺人光線出してやる。

「俺はあるんだ。二年の頃、好奇心でちょっとだけ。すぐ別れたけど」

 へえー、と平静を装うけど、あたしの心臓はばくばくだった。な、生意気。

「ねえ、俺たち、本当につき合っちゃわない? そしたら逆に何も言われないよ」

 何だって?

 思わず自転車のハンドルから両手を離してしまう。がしゃんと派手な音がして自転車が倒れた。あーもう大丈夫? って言いながら陸があたしのチャリを起こしている。かばんについた土をはらって、カゴにのせてくれる。

「俺ははーちゃん好きだしつき合ったら楽しいと思う」

 衝撃で、後頭部がずきずき痛みだした。何言ってんの? こいつ。

「あんたさ、一体どうしちゃったわけ? F市で何があった? 宇宙人にチップでも埋め込まれた?」

「チップって」

 陸はげらげら笑い出した。

「腹いてえー。やっぱはーちゃんおもしろいよ」

 頭が痛い。なんか、ぼうっとする。陸は相変わらずひょうひょうとしてて、一緒に帰るくらいで騒ぐなんてこっちの子たちはガキだねとか、ひとりでぺらぺらしゃべってた。頭の痛みはどんどんひどくなり、あたしは家に着くなり布団をしいてぼふっと倒れ込んだ。

 陸のやつ。生意気とか通り越して、もはや宇宙人だ。いやマジでUFOに拉致られて改造されてるぞあいつ。ハナ垂れのチビであたしの背中にしがみついて泣いてたくせに。杉田さんとこの大型犬が怖くてあそこんちの前をひとりで通れなかったくせに。背が伸びたとか。速攻コクられたとか。彼女いたとか。はーちゃん好きだしとか。つき合おう、とか。

 なんか泣けてくる。頭痛いし、なんか胸も痛いし、どきどきするし、泣けてくるよ。

「ふえー……ん」

 布団にうずもれて泣く。あたしはなんてまぬけなんだろう。離れていた四年間、陸はあたしを置いて大人になっちゃった。もうあたしに守ってもらう必要なんかない。あたしより多分力もあるし、お母さん亡くしたのに涙も見せないし。それなのにあたしは。あんまり学校のみんなとうまくやっていけなくて、積極的に関わってきてくれるのは奈美くらいで。それも、浮いてる同士で仲がいいってだけの話で。

 あたしはそのまま泣き疲れて眠ってしまった。お母さんにむりやり布団をはがされて起きた時、もう部屋の中は真っ暗になっていた。

「葉月。おにぎり作っといたから食べな。そら豆茹でたのもあるよ。好きでしょあんた。陸くんちからもらったの」

 そう言われて、あたしはのっそりと布団から這い出た。陸んちのそら豆。

 陸のお父さんはすっごい無口で実直なひとで、いつももくもくと畑仕事してる。お酒もたばこもパチンコもやらない真面目なひと。離婚騒動の時も沈黙を守ってた。陸のお母さんと別れても、陸とはずっとつながってんだろう。だから陸はこっちに戻ってこれた。

 ダイニングテーブルの上に、大皿に山盛りのそら豆。小さいころ、お手伝いを頼まれて、よく陸と一緒にそら豆をむいた。大きなさやの中に、白いわたにくるまれるようにして眠っている豆。まぶしい、つややかなみどり色。ふかふかのベッドで寝ているお豆の赤ちゃん、って陸は言った。そしたら、陸のお母さんがふわっと笑ってあたしたちの頭を撫でたんだ。

 陸のお母さんはもういない。その事実が、闇のようにじわじわとまとわりつく。陸はどうしてあんなに明るいんだろう。今までたくさん悲しいことがあったのに、まっすぐ伸びて、光を浴びて笑ってる。

 陸のことが頭に貼りついて離れない。ことん、と頭をテーブルにぶつけて、そのままつっぷした。木のひんやりとした感触が、火照った頬に気持ちいい。少しだけ、また泣いた。


 翌日から、あたしは陸とうまく話せなくなってしまった。顔を見ると息がつまったような感じになって、言葉が出てこない。顔がかあっと熱くなって、唇をかんでうつむいてしまう。放課後も陸に見つからないように、そそくさと帰った。つき合おうって言った時の、陸の大人みたいな顔。むかつく。人をくったような笑顔も、むかつく。

 休み時間。話しかけられたくなくて机に伏せてたら、陸があたしの席の真横にしゃがんだ。顔をのぞきこもうとしてるのがわかったから、意地でも顔を上げずに沈黙を守った。「どうしたの。熱でもあるの」って陸は言う。何も答えずにいると、ぽん、と頭のうえに大きな手のひらが乗った。弱った猫にでもするみたいに、そろそろと撫でられる。

 かあっと、胸の奥が熱くなる。

「触んなっ!」

 叫んで、反射的に、陸の手を振りはらっていた。クラスメイトたちが一斉にこっちを見た。驚いている陸をにらみつける。陸の瞳が、「なぜ?」と言ってる。

 傷ついて、いる。

 しまった、って思った。でももう遅い。

 教室を飛び出して、上履きのまま非常階段を駆け下りる。授業開始のチャイムが鳴ったけど、あたしは階段の下にうずくまってずっと泣いていた。どうしてあんなにひどいことを言ってしまったんだろう?

「まじでバカだねー、葉月って」

 声が降ってきて見上げると、階段の上に奈美がいた。

「あたしまでさぼっちゃったよー。どーしてくれんの?」

「そんなこと頼んでない」

「どうしてそういう言い方しかできないの。ここは『ありがとう』でしょ?」

 何も言い返せない。その通りだ。

 グラウンドのほうから、ホイッスルの鳴る音が響いてくる。どこかのクラスの練習している合唱曲が、風にのって届く。

「葉月のそういう、素直じゃないとこ、あたしは嫌いじゃないけどね」

 奈美はそう言うと、へへ、と笑った。


 六月なかば、再びの席替えがあり、あたしは陸と離れた。「大橋は小宮の殺人光線にやられてハートブレイク」みたいなことを男子たちが面白おかしく触れ回り、陸はそれを笑って受け流していた。内心、まじでこっちの奴らはみんなガキだな、って思ってるのかもしれない。

 あの日以来、陸もあたしを避けていた。

 あやまらなきゃいけないと思っている。だけど、そうすると、あたしがあの時陸の手を振り払った理由を説明しなきゃなんない。ていうか、理由って何? 自分でもわからない。

 そのうち、陸が女子にコクられたって話を、ちらほら耳にするようになった。奈美は今度はひそやかに、「でも断ったらしいよ」とあたしに耳打ちする。つき合えばいいのに。あたしには「つき合おう」って言ったのに。どうせ冗談だろうけど。

 鬱陶しい梅雨時の空。窓を叩く雨の音。

 陸はあたしと違って神経が細やかで、優しい。昔、ボスゴリの逆襲に悔し泣きした時も、怒られて泣いてた時も、ずっと隣で頭を撫でてくれた。その手をあたしは払いのけた。

 だって。だって。心臓がへんになるんだもん。あたしがへんになるんだもん。

 何度か。陸の家まで行って、うろうろして、勇気が出なくて帰って、っていうことを繰り返した。まったく、いやになる。もうとっくにおかしくなってるよ、あたし。

 気象庁が梅雨明け宣言をした日の、夜だった。お母さんが作りすぎた天ぷらを陸んちに届けるっていうから、あたしが持っていくって言った。毎日陸くんがごはん作ってるのよ、偉いよねー、ってお母さんは笑う。知らなかった。あいつ、何にも言わないし。

 陸の家の玄関のピンポンを鳴らす。はい、と声がして扉があいた。陸じゃない。お父さんだ。ちょっとだけがっかりしたような、ほっとしたような。天ぷらのお皿を渡して帰ろうとすると、呼び止められた。

 陸は学校ではどんな様子なのか。そんなことを聞かれた。

 あの子はこっちに越してきてから、夜、あまり眠れないようだ。最近は食欲もない。無理するなよって言っても、無理なんかしてないよって笑う。そう、陸のお父さんは言った。

 あたしは夜の道を駆けた。ふらりと散歩に行ったっていう陸を探す。いつもの坂道から脇にそれて、林の中へ。

 むかし一度だけ、夜、ふたりでUFO基地に行ったことがある。陸の両親が離婚を決めた日だった。あのとき陸は、「一度壊れたものはもうもとに戻らないんだよ」って言った。子どもの力じゃどうにもならない現実に、あたしたちは泣くしかなかった。

 陸は今。きっと、あの基地にいる。

 会いたい。陸の、本当の気持ちを聞きたい。

 木々が途切れて視界が開ける。厚い雲の退いた空には丸い月がのぼり、星もまたたいている。草の端が、ひかえめな光を受けて、きらりと艶めく。

 原っぱの草のうえ、陸は仰向けに転がっていた。あたしに気づいてゆっくり身を起こす。その目は涙に濡れている。

「いつもひとりで泣いてるの?」

 お母さんを思って。さびしさに耐えながら。

「はーちゃん。……なんで」

「探してた。あやまりたくて」

 陸はゆっくり首を横に振る。

「俺が悪いんだ。調子のってたから。つい、昔思い出しちゃって。つき合おう、とか、……言ったり。うざかったよね?」

「ちがうよ」

 胸が痛くてたまらない。

「ちがうよ。どうして陸はそうなの? 怒ればいいのに。ひどいことしたのはあたしなんだよ?」

 あたしのばか。これじゃ逆切れだ。戸惑っている陸のとなりに座って、足元の草をぶちぶちちぎる。奈美の声が耳の奥でひびく。どうしてそういう言い方しかできないの。ここは、

 ……ここは。何て言うところ? 

 認めるのがはずかしい。くやしい。でも。

「好き」

 陸の顔が見れない。からだぜんぶが心臓になったみたい。

「陸のこと好きみたい。だけどあたし、そういうの、はじめてだから。どうしていいかわからなかった」

「はーちゃん。ほんと、に?」

 ゆっくりと陸の手があたしの手にのびてくる。まだためらっているその大きな手を、あたしからぎゅっと握りしめる。あたたかい。

「はーちゃんがいてくれて、よかった。ここに住んでたころ、家の中ぐちゃぐちゃで、ボスゴリにもいじめられて。でも、はーちゃんがいた。こっちに来て、また会えて、はーちゃんは昔の、まっすぐなはーちゃんのままで」

 まるく開いた空に浮かぶ月。やわらかく注ぐ光。すごく、すごく、居心地が悪い。

「だからっ。はーちゃんって呼ぶの、やめろって……」

「じゃあ、なんて呼べばいい?」

「…………」

「葉月」

 つないでいる手をぐっと引かれて、引き寄せられる。そのままあたしは陸の胸の中にすっぽりとおさまってしまう。あたしを抱きしめる力の強さとか、広い胸とか。ああ男の子になっちゃったんだ、って思ってくやしくて。だけど陸だってまだ、あたしと同じ十四歳で。

「陸。ぜんぶひとりで抱えこむのやめて」

 陸の背中に手をまわして、ぎゅっと、する。

「だって」陸の声がふるえている。

「だって頑張らなきゃ。複雑な家の子だから、片親の子だから、って言われるから。父さんや母さんが悪く言われるから」

「ばか」陸の背中を、やさしく、撫でる。

「そんな事言うやつ、あたしがぶん殴ってやる」

 陸が笑った。笑って……、泣いた。

 小さいころから変わらない。あたしはずっと、陸の味方。いつだってそばにいる。

 雲が流れて月を隠した。一瞬、闇が訪れて、再び光が射す。目を閉じて祈る。

 このやさしい光が、陸に、ずっとずっと、降りそそぎますように。

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