第7章

 あの先生には「私が指示するまではお兄さんに会ったら駄目だよ」と言われていたけれど、やっぱり部屋の中でぼーっとしているのは退屈。だから、ちょっとだけお兄ちゃんの様子を見に行こうと部屋を出た。

 お兄ちゃんに合わせる顔がないのはわかってる。全て私が悪いんだから。

 でも寂しいから。もう失いたくないから。私は立ち向かわなければならないから。少しだけ、お兄ちゃんを見に行っても良いよね?

 なるべく音を立てないように部屋から出て、隣の部屋の前へ。この部屋にお兄ちゃんが居るはず。少しだけ扉を開けて部屋の中を見渡す。けれど、お兄ちゃんの姿どころか人の気配すらない。

 もう少しだけ扉を開けて改めて部屋全体をじっくりと見る。しかし、結果は変わらなかった。

 どこに行ったのだろうと思いながら歩いていると、コーヒーの香りを私の鼻が検知した。さすが私の鼻。

 マイ・ノーズの情報を元にその臭いを辿っていくと、リビングに到着。偶然にも扉は開いていたので、そっと中を覗く。

 リビングには何もない。とするとキッチンやダイニングの方かな、と思いそちらの方を見ると、ダイニングテーブルに先生とお兄ちゃんが向かい合わせで座っていた。

「ところで西沢、私に何か訊きたいことがあるんじゃないか?」

 一瞬名前を呼ばれたから先生に気付かれたんじゃないかと驚いたが、その質問がお兄ちゃんに向けられたものだとわかるとほっと胸をで下ろす。

 それから少しだけだが、お兄ちゃんと先生の会話は続いた。私にはお兄ちゃんの発する言葉が普段よりも元気が無いように感じられた。それだけではない。お兄ちゃんの姿さえも寂しいように感じられた。

「何があったんだ、西沢?」

 先生はお兄ちゃんに尋ねるが、お兄ちゃんが答える様子は無い。沈黙が続く。

 お兄ちゃんのことだから、きっと言わないことにも理由があるのだろう。

「まあ、西沢が話したくないなら無理に話さなくても良い」

 先生は諦めたのか、そこでコップを手に取り飲み物を飲んだ。お兄ちゃんは黙ったままだ。

 私の位置からはお兄ちゃんの横顔しか見ることはできない。けれど、その表情は辛そうに見えた。

 お兄ちゃんが辛そうにしているのも私のせい。少なくとも、お兄ちゃんにこれ以上辛い思いはさせたくない。だから、今この状況をどうにかしなければならない。

 先生には悪いけれど、今じゃないとお兄ちゃんはもっと苦しむことになる。私だって、もう二度とお兄ちゃんを失いたくない。

 そう思ったとき、私は自然と口から言葉を発してしまう。

「お兄ちゃん!」

 言った後に思った。やってしまった、と。

 先生は頭を抱えて、お兄ちゃんはこちらを向いて驚いたような表情をしている。

 私はというと、どうすれば良いのか戸惑っていた。完全にノープラン。

 先生はゆっくりとコップを手に立ち上がり、私の方へ近付いてくる。それから私の横にやって来て、

「後はよろしくな」

とだけ言って去って行ってしまった。残されたのは私とお兄ちゃんだけ。本当にどうしよう…。

 取り敢えず、さっきまで先生が座っていた椅子に座ろうと近くへと歩いて行く。空気がやばい感じなので音を立てないように意識しながら、何とか椅子に座ることができた。

 ここから何て言えば良いんだろう…。はうぅ…。

「………」

「………」

 お兄ちゃんも私も無言。ますます話しにくくなっていく。でも、最初に発するべき言葉はわからない。

 それでも、何も言わなければまたお兄ちゃんを失ってしまう。それだけは嫌。だから、最初に相応しくなくても良い。何でも良いから、私の気持ちを言わないと。

「お兄ちゃん、ごめんなさい!」

 私の気持ち。私が悪い。私がお兄ちゃんを苦しめた。だから、謝る。

 私は頭を下げた。

「…何であやが謝るんだ?」

 お兄ちゃんの冷たい言葉。やっぱり私を許してくれないのだろうか。

 でも、私の気持ちを伝えなければならない。私のせいでお兄ちゃんが辛い思いをする必要は無い。

 私ももう辛い思いをしたくない。あの時のように。

「私が小さい頃、お兄ちゃんは私のこと何でもやってくれていたよね」

 『彩にゃん』なんて一人称は使わない。この場では相応しくないことが明白だから。

「正直、そんなお兄ちゃんは私のあこがれだった。でも、同時に私は何もできないから、嫌われるんじゃないかとも思った」

 あの頃の私は明らかに未熟だった。本当に私一人では何もできなかった。

「だから、私がお兄ちゃんにより相応しい妹になろうと、私は『彩のことは彩が自分でやるから』と言ってしまった」

 今でも私は後悔してる。こんなこと言わなければ良かったと。何故ならば、

「その翌日から、お兄ちゃんは私に冷たくなった。私から急に遠くなった。私はすぐに原因があの言葉だとわかった」

 お兄ちゃんは真剣な表情で、無言のまま私の話を聞いている。私は続ける。

「でも、私がもっと自立すればお兄ちゃんは元のお兄ちゃんの戻ってくれると思ってた」

 そのために私は家事ができるように頑張った。全ては私のために。私の気持ちが抑えられなかったから。

「そのまま数年経過したけれど、結局お兄ちゃんは変わらなかった」

 あの私の一言が生み出したお兄ちゃんとの溝は想像以上に深かった。

「私は次の手段としてお兄ちゃんを惑わそうとした」

 結果、お兄ちゃんの好きな動物である猫を私は選んだ。ニャンニャン言っておけばお兄ちゃんは近付くんじゃないかと。

「でも、またお兄ちゃんは変わらなかった。だから、私は昨日あんなこと言ってしまった」

 それが、『お兄ちゃんは、お兄ちゃんなのに、お兄ちゃんじゃないみたい…』という言葉。

「全部私が悪いのに、お兄ちゃんに当たっちゃって…」

 お兄ちゃんの近くに居たいなんて、私の我がままだってわかってる。けれども、私のこの気持ちは本物だから。大好きだから。

 妹が兄にそんな恋愛感情を抱くのは変だということもわかってる。世間には気持ち悪いとか、あり得ないとか思われるのもわかってる。でも、好きになっちゃったら好きだから。気持ちなんて簡単に変わるものじゃ無いから。

 少なくとも、お兄ちゃんと一緒に居れる時間は仲良くしていたい。

 私の気持ちを全て込めて、言葉を紡ぎ出す。

「私は、お兄ちゃんに離れて欲しくない!ずっと近くに居て欲しい!」

 泣くのを何とか堪えようとしたけれど、少し涙が出ているのがわかる。これじゃあ、私はまだまだ未熟だ…。

 お兄ちゃんはすっと立って私の横にやって来た。そして私の頭にぽんと手を置く。

「彩、ごめんな」

「うぅっ」

 「どうしてお兄ちゃんが謝るの?」と訊こうと思ったが、私の口から漏れるのは嗚咽おえつのみ。

 目から次々と涙があふれ出して、私はもう泣くのを止められない。

「俺は彩のことを考えてるつもりだったけど、全然そうじゃなかった。距離で彩の幸せを守ろうとしたけど、勘違いしたままだった」

 お兄ちゃんは私をぎゅっと抱きしめる。はうぅ、私にお兄ちゃんの体温が伝わってくるよぅ…。

 私はお兄ちゃんの服を掴んでお兄ちゃんの胸の辺りに顔をうずめる。お兄ちゃんに今の私の表情を見られたくない。

「こんな馬鹿なお兄ちゃんだけど、彩の近くに居ていいのか?」

 お兄ちゃんの質問。質問だから答えなければならない。そう思って、何とか言葉を絞り出す。

「うぅ、あだりまえじゃん、ばがぁ」

 お兄ちゃんは私の頭を優しく撫でてくれる。そんなお兄ちゃんの優しさに甘えて私はただただ泣いていた。

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