第6章

 意識が体に宿ったような感覚と共に俺は目覚めた。結局俺は、睡魔に負けて眠ってしまったらしい。

 徐々に朦朧もうろうとしていた意識がはっきりしてくる。同時、俺は横になっていることに気が付いた。どうやら俺は誰かによってベッドまで運ばれたようだ。

 周りを見渡すと、机や椅子、黄色い花が入っている花瓶、ぎっしりと本が詰められている本棚などがある。少なくともここはコンビニではない。且つ、俺の知っている部屋のどれとも一致しない。では一体ここは何処なのか。

 俺がベッドから起き上がろうとすると、部屋の扉がゆっくりと開く。そしてある人物が部屋へと入ってきた。

「起きてたか。調子はどうだ?」

 そう言って入ってきた人物は、服装は普段見る姿とは違うものの、俺がよく知る人物の1人である。担任の朝山あさやま先生だ。

「何故、朝山先生がここに…?」

 俺はベッドに腰掛けた状態でフリーズしている。状況が全く理解できないのだ。

 朝山先生は窓際へと向かい、カーテンを開ける。それから俺の方を振り向き、優しくこう告げた。

「とりあえず朝食でもどうだ?腹が減ってるだろう」

 そして朝山先生に誘導されながら、俺はダイニングへと向かった。


 ◇ ◇ ◇


 ダイニングテーブルに腰掛けて待っていると、朝山先生が俺にトーストと牛乳、ジャムなどのトーストに塗るものを差し出してくれた。

「すまんな、丁度食材を切らしてるから、こんなものしかなくて」

「いや、俺のためなんかにわざわざ気を遣って頂いてすみません…」

「気にしなくたって、西沢にしざわは私の大事な生徒だからな」

 先生が生徒を大事に思うのはそれが仕事だからな。別に俺個人を先生が好き好んで大切にしている訳じゃない。そこはあくまでも先生と生徒なのだ。

「頂きます」

 俺はブルーベリージャムをトーストに塗り、口へと運ぶ。ブルーベリーの甘みと酸味が口の中に広がる。だが、いつもとは違って美味しいと感じることはなかった。ただただ無駄に味に集中してしまう。今はまだ起きてから時間がそんなに経過していないため頭はよく働かないものの、それでも少し油断すれば自分が彩の兄として相応しくなかったという事実に押し潰されそうになる。だから他のことに集中することで俺はそのことを覆い隠そうとしていた。

 トーストにかじり付き、広がる味に意識を集中させる。噛むたびにトースト本来の甘みが増すと共に、ブルーベリージャムと混ざり合ってより口の中での香りが強まる。普段よりも多く何度も噛んで、味を感じ、香りを感じ、完全に弾力が無くなってから飲み込む。至ってシンプルな作業。けれども何度もそれを繰り返し、トースト1枚だけであったのに食べ終えるのに30分以上も費やしていた。

「ご馳走様でした」

 食べ終えた後に残った皿などを朝山先生は無言で片付けてくれる。本当に申し訳ない。

 中身が残っているコップだけがテーブルに残され、俺はそれを少しずつ飲んでいた。中学までは給食でほぼ毎日感じていた味なのに、妙に濃く感じられる。

 片付けが終わったのか、朝山先生はコップを手に俺の対面に座った。この匂いはコーヒーだなと思いながら朝山先生のコップを覗くとやはり黒い液体で満たされていた。

 俺は牛乳、朝山先生はコーヒー。飲み物だけでどちらがガキなのかわかってしまう。実際に俺の方がガキな訳だけれども。

「ところで西沢、私に何か訊きたいことがあるんじゃないか?」

 確かに質問したいことはいくつもある。しかしこれ以上は朝山先生に迷惑を掛けるわけにもいかない。

「すみませんが俺はこれで」

「どこに行く場所があるんだ?」

 椅子から立ち上がろうとした俺を朝山先生の言葉が押しとどめる。何故ならば、今の一言は俺の状況を全て察していると言ったのと同義だと感じられたからだ。

「私だって教師を10年間近くやっているんだから、生徒の様子を見れば何があったのかだいたい察しがつくよ」

 教師って怖い。というか、最早怖いを通り越して気持ち悪いよ。

「で、何故俺は朝山先生の家に居るんでしょうか?」

 逃げ場を失った俺は朝山先生に質問を投げかける。

「風呂上がりにビールを飲もうとしたんだが、冷蔵庫に入ってなかったんだ」

 その説明は必要なのだろうか。

「それで近くのコンビニへと行ったんだが、そこで寝息を立てている西沢が居てね。何とか店員を誤魔化して連れ帰った」

「それは誘拐と言うんじゃないでしょうか」

「細かいことは気にしちゃいけないよ、西沢」

 何でにこやかに犯罪を誤魔化そうとしてるのこの人。仮にも法律を遵守じゅんしゅすべき公務員だろうが。

「あのコンビニは西沢家から結構な距離があるから、おそらく家出してきたんじゃないかと思って保護したまでなんだが、違うか?」

「………」

 否定することができずつい黙り込んでしまったが、それは暗に肯定していることを意味している。それは、朝山先生も理解しているようで、

「図星か」

と言われてしまった。朝山先生は続ける。

「安心してくれ。西沢の家族に連絡はしてないし、学校の方も上手く誤魔化してある」

 今日は平日の月曜日だから、朝山先生も俺のためにわざわざ休みを取ったのだろう。たった1人の生徒のために休んでしまうとか俺のこと好きすぎだろ気持ち悪い。

「何があったんだ、西沢?」

 朝山先生が尋ねてくる。しかし俺は答えない。もう結論は出ているし、朝山先生まで巻き込むわけにはいかないからだ。

 昔から俺はあやを満足させることはできなかった。それは兄としての役割を果たせなかったことを示している。つまり、俺は兄としては失格なのだ。

 兄妹としての距離。どの距離設定にすれば幸せになれたのか俺にはわからなかった。近くに居れば良いのか、遠くに居れば良いのか。その程度でさえ俺は捉えることができなかった。

 お互いが幸福になるような距離についてずっと考えて、勝手にわかった気になっていたに過ぎなかった。全然わかってなどいなかった。だから、俺はもう兄として存在していられない。この立場を放棄するしかない。

 それが俺の得た答えだ。逃げだと言う奴もいるかもしれない。だが、逃げちゃいけないなんてことはないのだ。逃げなかったからといって必ず苦難を乗り切れる訳じゃない。

「まあ、西沢が話したくないなら無理に話さなくても良い」

 朝山先生はそう言ってからコーヒーを口に運ぶ。外の自動車のエンジン音や近くのおばさん達の会話が聞こえるほど今この空間は静かだ。

 こういう粛然しゅくぜんとした状況では、時間の経過が遅く感じられる。どうして時間の経過が遅く感じられるのだろうかと思考を巡らせようとしたが、その程度では兄失格という事実が頭の隅に追い遣られることは無かった。

 俺はこれからどうすれば良いのか。それだけが最後に残った疑問。

 どこかに行くにしても、行く当てなどありはしない。ならば1人で生きるという手はどうかと考えてみたが、生きられるような金すらない。

 つい溜め息が出てしまう。朝山先生はそんな俺を見て一瞬驚いたような表情をしたものの、すぐにいつも通りの表情へと戻った。

 今後、俺はどうすれば良いのか。この疑問に対する疑問が見つけられないまま数十分経過した頃。

「お兄ちゃん!」

 聞き慣れた声。昨日も聞いていた声。その声の主が誰なのかは瞬時にわかった。

 声のした方向。そこに顔を向けると、リビングの扉が開いていて、1人の女の子が立っていた。

 俺の妹、彩だ。

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