第5章

 俺は自室の布団の上で横になっていた。ちなみに、あれから彩とは一切言葉を交わしていない。

―お兄ちゃんは、お兄ちゃんなのに、お兄ちゃんじゃないみたい…―

 彩のあの言葉が何度も頭の中で再生される。

「何でこうなっちまったんだろうなあ…」

 今の自分の感情すらわからない。後悔か、苦しみか、悲しさか、将又はたまた別の感情なのか。ただ、プラスの感情ではないことは確かだ。

 俺は彩の兄だ。彩は美少女で俺とは釣り合う存在ではなくて、でも、だからこそ俺は兄妹の幸せを求めてあえて少し離れた距離を保とうとしていた。だが、それは結局彩の心を傷つけてしまった。

 幸福を求めていたはずなのに、逆に幸福から遠ざかっていた。何とも皮肉な話である。

「本当に、どうして俺は彩との距離感ばかり気にしていたんだろうな」

 ポツリとそんな疑問が自然と俺の口から発される。直後、意外にも自分の頭の中に浮かんだ情景から解答が意外とあっさりと見つかる。それは、まだ俺と彩が小学生低学年の頃の話だ。


 ◇ ◇ ◇


 俺に妹ができた日。そのときから俺は彩の兄になったわけだが、当然兄とはまだどういうものなのかわからなかった。ただ、これから兄なのだから、彩にできることは何でもしようと思っていた。

 彩が小学生になってもその気持ちは変わらなかった。俺は彩の兄として、誇りを持って彩と接していた。

「お兄ちゃん、お風呂入ろー!!」

 俺が湯船にかっていたとき、彩はいきなり風呂の扉を開けて乱入してきた。ただ、俺は彩の兄なのでそれをこばむことはしない。彩が満足するなら俺はそれで良いのだ。

「よいしょっと」

 彩も湯船に入り、俺と隣り合わせの形になる。俺も彩も小柄な方なので、湯船に同時に浸かっても割と余裕はあるのだが、彩と俺は結構密着していた。

「お兄ちゃん、彩ね、前の漢字のテストで満点取ったんだよ」

「それはすごいな」

「じゃあ、ご褒美ちょうだい」

 彩がこう言うときはいつものをお強請ねだりしている証拠だ。

「はいはい」

 俺はいつものように彩の頭を優しくでる。すると彩は満足そうな表情になるのだ。同時に俺も彩の兄をできているのだという満足感で満たされる。

 普通の兄妹から見ると変だということは何となくわかっていた。だが、普通とか普通じゃないとかそんなのは俺にとってはどうでもいいことだった。

 その理由は明確だ。俺の目標は彩に相応しい兄になること。つまりは彩が満足してくれればそれで良いのだ。だから、俺は彩のために何でもできることはするだけなのだ。

 全ては彩のために、料理に挑戦してみたり、彩の部屋を片付けたり、彩と一緒に遊んだり、彩の着替えを手伝ったり。俺は彩が満足できるようにできることは何でもした。

 だが、そんなことを続けていたある日、彩は俺に対してこう告げる。

「お兄ちゃん、彩のことは彩が自分でやるから」

 彩は傷つけるつもりで言ったのではないだろうが、俺にとってはショックな一言だった。

 彩を満足させようとやってきたことが否定されたのだ。彩にとって俺は迷惑な存在だったのだろうか。俺は兄として間違ったことをしていたのだろうか。

 結局、彩を満足させられない兄は不要だろう。だからといって、彩の兄という立場を放棄することは不可能だ。

 とすると、俺は少し離れた位置にいれば良いんじゃなかろうか。彩を満足させられない、彩にとって迷惑とはならない、けれども兄妹としての繋がりは残るような位置にいれば良いんじゃないか。それが彩にとって幸せならそれで良い。

 その日から、俺は彩に対してほとんど何もしなくなった。俺が近付かなければ彩は傷つくことはない。彩が傷つかないならば、それは彩の幸せになる。

 俺が彩にできることは傷つけないようにすることのみであり、それが彩の兄として残された唯一の使命だ。


 ◇ ◇ ◇


 彩は完璧美少女で釣り合わないから俺は今の距離感を保っているのだとばかり思っていた。だが、彩が何でもできるのではなく、ただ俺の欠陥が多すぎるだけだったのだ。

 こんなにあっさりと過去の記憶から距離感を気にし始めた理由が判明したのに、今までそれを気にせず勘違いした理由で距離感ばかり気にしていた自分。その上、あのときから何も変わろうとしなかった自分。彩のことを見ていたつもりだったのに本当は全然見ていなかった自分。そんな自分たちは彩のあの一言で完全に否定された。

―お兄ちゃんは、お兄ちゃんなのに、お兄ちゃんじゃないみたい…―

 この言葉は、おそらくこういう意味だろう。お兄ちゃんは確かに血の繋がりを考えるとお兄ちゃんだが、普段の振る舞いがお兄ちゃんではなく別人のように冷たい、と。俺は適切な距離感を保っていたと思っていたが、それはあくまでも適切だと思い込んでいただけで、彩にとっては遠すぎたのだ。

 昔は彩に近付きすぎたことが問題で、今は彩と離れすぎたことが問題だった。結局、距離感が大事とか言っている張本人の俺が一番距離感を間違っていたのだ。しかも、常にそれに気付くのが遅すぎる。

 彩はおそらく急に冷たくなった俺が兄のように感じられなくなってしまったから、俺を誘惑することで距離を縮めて本当の兄妹になろうとしたのだろう。

 それに比べて俺は、そんな彩の気持ちも理解しないでただ距離を保つことだけを必死に守ろうとしていた。本当に守るべきは彩だというのに。

 自分の目に涙が溜まっているのがわかる。彩の兄になれなかったという後悔が、俺の心の中を埋め尽くす。

 俺は、これからどうすれば良いのだろう。


 ◇ ◇ ◇


 夕食時に彩と会ったが、やはりと言うべきか、言葉を交わすことはなかった。その上、彩はほとんど夕食を残してすぐに自分の部屋に戻って行った。

 幸いにも母親や父親に「何かあったの?」と訊かれることはなく、俺も食べ終えた後にすぐ風呂などを済ませて自室に戻った。

 今の俺は彩とどう接すれば良いのか全くわからない。それだけが問題だった。

 仮に謝って許してもらったとしても、そこから先が問題なのだ。不器用な自分が彩の兄に相応しい行動をできるとは到底思えない。

 やはり俺はもう彩の兄という立場をまっとうする自信はない。既に兄としての過ちを2回も犯してしまったからだ。

 ならば、そんな俺には彩の兄としての資格はないだろう。それはつまり、俺がここに存在している意味はないということだ。

 俺はジャケットを羽織り、静かに自室から出た。誰にも気付かれないようにするためだ。玄関で靴を履き、音を立てないように玄関の扉を開け、ゆっくりと閉めた。

 俺は夜の静かな街の中を歩く。別に目的地があるわけではない。ただ、あの家から逃げ出したかっただけだ。

 少し肌寒いと思ったが、もう戻る気は当然なかった。俺の今の脳はほぼ働いておらず、脚の筋肉に歩けという指令を送り出しているだけだ。

 昼間は活発な商店街も夜9時を過ぎるとほとんど閉まっており、酔ったおじさんと髪を染めた若者たちが少しいる。俺はその中を何も考えず歩いて行く。

 やがて商店街を抜けると大きな通りに出た。こんな時間でもトラックはたくさん通っている。俺はその道の脇の歩道を歩いて行く。

 歩けば歩くほど住宅やコンビニの数は少なくなり、辺りが暗くなってくる。トラックや自動車の走る音だけが辺りに響いている。

 もうここがどこなのか俺には全くわからない。どうやってここまで来たのかも曖昧あいまいだ。

 俺は立ち止まり、ズボンのポケットからスマホを取り出して時刻を確認する。午後10時50分。ほぼ2時間ずっと歩いていることになる。

 その時、スマホが振動し出した。母親からの着信のようだ。思っていたよりも気付かれるのが早かったが、俺はその着信を拒否してスマホを再度ポケットに仕舞う。そしてまた歩き出した。

 家を出た直後よりもさらに寒くなってくる。だが、この辺りにはもうほとんど何もない。街灯も少なく、自動車もほとんど通らない道に来てしまったようだ。

 後方から1台の自動車が来て、俺の横で止まる。運転席の窓が開き、中から優しそうなおじさんが顔を出す。

「そこのお兄ちゃん、どうしたんだい?道に迷ってるなら、送ってくよ」

「いいえ、大丈夫です」

 おじさんの好意は有り難いが、今の俺には不要だった。何せ、向かうべき場所がないのだから。

「そうかい」

 おじさんはそう言って走り去って行った。

 しばらく歩くと再び大通りに出た。先程とは違い、こちらは店がたくさん立ち並んでいる通りだ。だが、時間が時間なのでほとんどそれらの店は閉まっている。軽く休憩でもしようかと俺は近くのコンビニに入った。

 俺はホットコーヒーを買い、テーブル席のところに腰掛けてゆっくりとコーヒーを口にする。体が芯からじわじわと温まってくる。

 俺はポケットからスマホを取り出して時刻を確認すると、既に日付が変わっており、0時20分であった。同時に着信がたくさんあったことに気がつく。確認すると、全て母親からのものだった。

 メールも母親から大量に来ており、「今どこにいるの?」とか「早く帰っておいで」とか書いてあったが、俺はそれらを全てゴミ箱に移動した。

 彩からは着信もメールもLIMEもなく、やはり俺は彩にとって迷惑な存在だったのかと改めて認識する。

 いつから俺は彩の兄ではなかったのだろうか。最初から彩の兄など相応しくなかったのではないだろうか。

 この世に神様というものがいるのなら、何故俺を彩の兄として選んだのか問い詰めたいところだ。俺以外にも彩に相応しい兄なんてたくさんいるだろうに。

 どうして俺は彩の兄なのか。兄という立場から逃れられない運命をうらんでしまいたい。

 俺はテーブルに突っ伏した。長時間の徒歩の疲れがどっと押し寄せてくる。ここまでどれくらい俺は歩いたのだろうか。

 まぶたが重い。何とか寝ないようにと努力してみるものの、睡魔はそんな俺の抵抗をあっさりと打ち破る。

 そして俺は夢の世界へと引きずり込まれていった。

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