第1章第2節:名前の読み
A
「ではまず、この日本という国が生まれた時のことでも話しましょうか」
「国家の誕生かい?」
「いえ、まずは国土の誕生の話です」
「この国──この島国は、男の神と女の神が作ったと聞いたことがあるな」
「イザナキとイザナミですね」
「イザナ『キ』? イザナ『ギ』ではなく、イザナ『キ』なのかい?」
「『古事記』では、イザナ『キ』が正しいんです」
青年が、ホワイトボードに何かを書き始めた。書かれたものは2つ。「伊耶那岐」と「伊耶那伎」だ。
「どちらも『古事記』に出てくる表記で、どちらも『イザナキ』と読みます。『ギ』ならば『芸』という字を使うでしょうね」
ホワイトボードに書かれた「芸」の字を見て、二階堂は不思議そうな顔をする。
「『芸』を『ギ』と読むのかい?」
「そうなんです。イザナギという呼び方が一般的だとは思いますが、『古事記』の研究者は、イザナキと呼ぶことが多いと思いますよ。逆に、『古事記』が専門じゃない人が書いたものだと、イザナギと呼ばれていることが多い印象ですね」
と、その時だった──。
「話は聞かせてもらったぁぁっ!」
ドアを勢いよくスライドさせて、男が入って……こようとした。
入ってこなかったのは、ドアを開ける勢いが強すぎたせいで、スライドしたドアがバウンドして閉じたからだ。
今度はドアをそっと開けて、男が打ち合わせ室に入ってきた。
「話は聞かせてもらった!」
「えーっと……(編集部の人かな?)」
30代の男である。ちょっとガラが悪い。
「オレは山下だ。お前が、うちでデビューすることになった新人だな?」
「はい。神田です」
「お前、いくつだ?」
「25です」
「25か。うちの若いのも、それくらいだったな」
「山下くんにはね、異名があるんだよ」
「異名……ですか?」
「そうそう。異名異名」
「どんな異名なんです?」
「〈アンダーマウンテン〉だよ」
「ア、アンダーマウンテン……?」
「そうそう。〈アンダーマウンテン〉〈アンダーマウンテン〉」
「それって、山下──『山の下』を英語にしただけなんじゃ……」
異名と言うよりも、あだ名だった。
「ちなみにちなみに、前野副編集長の異名は〈玉座を追われし者〉だよ」
「あ、なるほど……」
B
「それよりそれより、山下くん。『古事記』に興味があるのかい?」
「ねぇよ、んなもん」
「はははは、そうかそうか。──私もだよ」
「えぇっ!? 興味ないのに、僕に『古事記』の話をさせてたんですか!?」
「だってだって、君が話したがっているようだったからね」
「話したがってはなかったと思いますよ!? マンガの打ち合わせをするために来たんですから! それなのに、二階堂さんが……」
「でもでも、『古事記』を持参していたじゃないか」
「そ、それは……(自分でも知らない内に、リュックに入れてたみたいだけど)」
「お前、そんなもん持って来ていいと思ってんのか?」
「え? ダメ……なんですか?(確かに、他社が出版した本だけど……。ダメだったのか)」
「いや、別にいいけどよ」
(いいのかよ! いや、ダメだと困るけど)
「つーかよ、お前。あー…………山田?」
「神田です」
「さっきの話はマジなのか?」
「さっきの話……と言うと?」
「イザナギがイザナギじゃねぇって話だよ」
「あ、はい。『古事記』だと、イザナキですね。『日本書紀』でも、全然違う字を書きますけど、イザナキと読みます」
「……マジかよ……」
「何か問題でも?」
「オレが担当してる作家に、嶋ってオッサンがいんだけどよ」
(オッサンって……)
嶋は野球マンガを連載中。野球マンガと言えば高校野球が王道だが、嶋が描いているのは社会人野球。彼は社会人野球チームに所属していた……わけではないが、社会人野球チームがある会社に勤めていたことがあるのだ。
「嶋先生の担当編集さん、山下さんだったんですね」
「あぁ、まぁな。あのオッサンが描いたネームが、これだ」
山下が、机の上に紙の束を放り投げた。
「これが嶋先生のネーム……! でも、僕が見てもいいんですか?」
「いいんじゃね? ファックスで送ってきたやつだし」
(ファックスならいいのか……?)
「神田くん神田くん。せっかくの機会だし、先輩作家のネームを見せてもらったらいいよ」
「そうですね。勉強させてもらいます……!」
心臓のドキドキという音を感じながら、神田が紙の束に手を伸ばした。
「これが嶋先生のネー…………ムじゃない」
「あぁん? ネームじゃなかったら、何だって……。やべっ! 部外秘の資料じゃねぇか、これ!」
血相を変えた山下が、神田から紙の束をひったくった。どうやら、神田に見られるとマズいものだったらしい。
「……おい、川田」
「神田です」
「今の……見たよな?」
「えーっと……(これは、ゲームだと選択肢が出る場面か? 美少女のパンツとかを見た時に出るものだと思うけど……)」
「その顔は、見たって顔だな」
「えーっと……」
・正直に「見た」と言う
・口笛を吹いて「見てませんよ~」と言う
(ここは慎重に選択を……)
「こうなったら、ぶん殴って記憶を消すか……!」
「時間制限付きだった!?」
「は? 何言ってんだ、お前?」
「山下くん山下くん、ここは私に任せてもらおうかな」
「は? 何言ってんだ、二階堂のオッサン」
「えいっ」
二階堂は神田の脳天に手刀を振り落とした。
「げにょっ!?」
神田は変な声を出した。
神田は気を失った──。
「…………おい、オッサン。今、何をしたんだ?」
「記憶を消したんだよ。はははは」
(このオッサン、只者じゃねぇ……!)
C
「今の……見た?」
顔を赤くした美少女(Dカップ)が、ミニスカートの裾を押さえながら、神田をにらんでいる。
そよ風が少女の長い髪を揺らしていた。
先程は、少し強い風が吹いていた。
スカートを翻す程には強い風だった。
ゆえに、少女のスカートが翻ったのだ。神田の目の前で。
「見たんでしょ?」
いつの間にか、少女は涙目に。
「アタシのイチゴパンツ、見たんでしょ!?」
「え? イチゴパンツ?」
・「あれ? しましまだったような……?」
・「あれれ? 黒のレースじゃなかった?」
・「あれれれ? パンツなんて見えなかったぞ?」
「(よし、ここは……!)『あれれれ? パンツなんて見えなかったぞ?』」
「やっぱり、見たんじゃない!」
「えぇっ!? だから、見てないって!」
「アタシがパンツ穿き忘れたの知ってるのが何よりの証拠よ!」
「まさかのノーパン!?」
「せ、責任取ってよね……?」
D
「サルミアッキ!」
((サルミアッキ……?))
神田が目を覚ました。ギャルゲーみたいな夢を見ていたはずだが、エロゲー展開にまでは発展しなかったようだ。
なお、サルミアッキはアルミサッシとは全くの別物である。
「ここは……打ち合わせ室?」
「目が覚めたようだね、神田くん」
「あ、二階堂さん」
「急に倒れたから驚いたよ。貧血かな?」←何事もなかったように振る舞う中年
(このオッサン、只者じゃねぇ……!)←ビビってる山下
「貧血……ですか。心当たりはないですけど、そうなのかな……? 何だか、頭が痛いような気も……」
「気のせい気のせい」
「でも、何だか……」
「気のせいだよ」←威圧感がある
「あ、はい……。気のせいな気がしてきたぞー…………」
(このオッサン、只者じゃねぇ……! マンガの編集者になる前、何の仕事してたんだよ!?)
「それはそうと……。何の話をしていたんでしたっけ?」
「山下くんが、君に用があるみたいだよ」
「あ、あぁ。オレが担当してる作家に、嶋ってオッサンがいんだけどよ」
「(オッサンって……)嶋先生の担当編集さん、山下さんだったんですね(この会話、さっきもしたような……。デジャヴ?)」
「嶋のオッサンが描いたネームが、これだ」
山下が、机の上に紙の束を放り投げた。今度こそ、嶋が描いたネームだ。
「これが嶋先生のネーム……!」
「神田くん神田くん。せっかくの機会だし、先輩作家のネームを見せてもらったらいいよ」
「でも、僕が見てもいいんですか?」
「いいから、見てみろよ」
「山下くんも、こう言ってることだし」
「そうですね。それじゃ、勉強させてもらいます……!」
神田が紙の束に手を伸ばす。妙に手が震えているのは、緊張によるものか。それとも……恐怖のせいか。さっき、何かがあったような気もする。
「これが、嶋先生のネーム……!」
震える手でページをめくっていく。「プロはすごいなー」とか思いつつ読んでいると、山下がネームを読ませた理由に気付いた。
眼鏡をかけた知的な青年が、『古事記』がどうの神がどうのと語る──。そんなシーンがあったのだ。
「嶋先生も『古事記』が好きなんですか?」
「どうだろうな。オレは知らねぇけど……高田はどう思う?」
「神田です。──これを読んだ限りだと、あまり詳しくはなさそうです。『古事記』のことを言っているはずが、内容は『日本書紀』になっています。タイトルを間違えただけじゃないのなら、知ったかぶりとかのレベルですね」
「あのオッサン、適当なこと書きやがって」
「イザナキをイザナギと呼んでいるのも、『一般的な呼び方だからイザナギにしておいた』ということでもないでしょう。多分、知らないんだと思います。あと、個人的には、アマテラスという呼び方も気になる」
「あぁん? どういうことだよ、本田」
「神田です」
「本田くん本田くん」
「神田です神田です」
「失敬失敬、山下くんのが伝染してしまったね。──神田くん神田くん、何が気になるんだい? アマテラスと言えば、有名な女神だろう?」
「ええ。ですが、『古事記』では、その呼び名が正しいのかどうか……」
難しい顔をした本田……もとい神田は、ホワイトボードに「天照」と書いた。
「一般的には、これを『アマテラス』と読みます」
「まるで、『その読み方は間違っている』と言いたそうじゃねぇか。沢田」
「神田です。──結論から言えば、そうなりますね」
「神田くんは、どう読むのが正しいと考えているんだい?」
「『アメテラス』です」
「アメテラス? 雨に濡れたテラスみてぇだな」
「どうしてどうして、そう読むのが正しいんだい?」
「それは、『古事記』における『天』の読み方で説明できます」
「だったら、聞かせてもらおうじゃねぇか。松田」
「神田ですってば」
E
「とりあえず、先に結論を言ってくれや。相田」
「神田です。──結論から言うと、『古事記』に出てくる『天』の字は、基本的に『アメ』と読むんです」
「オレが担当していた作家に天宮って若造がいたけどよ、あいつはア『メ』ミヤじゃなくてア『マ』ミヤだったけどな」
「『天』を『アマ』と読むことは多いと思うけれども、『古事記』では、『アメ』が基本だったのか」
「はい。その証拠に、アマと読む際には注が付くんです」
「「注?」」
「はい」
「「チュー?」」
「キスの話はしてません。話を戻しますけど──」
天地・・・高天原・・・
「これが、古事記神話の最初のところです。必要な部分だけ抜き出して、残りは省略しました。この後に注が続きます。──ところで、二階堂さん」
「何かな何かな?」
「これ、何て読みますか?」
青年は「高天原」の3文字を赤い丸で囲んだ。
「それならそれなら、『たかまがはら』じゃないのかな」
「確かに、国語の辞書にも『たかまがはら』か『たかまのはら』と記載されてると思います」
「甘いな、オッサン。さっき、上田が言ってたじゃねぇか。『天』は『アメ』って読むってな!」
「神田ですけどね」
「つまりは、こういうことだ。それは『タカマガハラ』と読むと見せかけて、実は『タカアメハラ』と読むんだ! そうだろ? 岡田」
「神田です。──タカアメハラは惜しいですね」
「だったらだったら、『アメ』と読むと見せかけて、『アマ』と読むんじゃないのかい?」
「そうなんです。ここの注の内容は、まずは、『高天原』の『天』の読み方に関することなんです。ここでは『アマ』と読みます」
そのため、「タカマガハラ」や「タカマノハラ」といった読み方は、ここでは相応しくない。ただし、「タカアマガハラ」や「タカアマノハラ」と読むのは間違いではないだろう。
「その他にも、こういうことが書いてあります」
これ以降の「天」の読み方に関することだ。注で指示がある場合には、やはり「アマ」と読むことになる。
「つまり、注で指示がない限り、『アマ』とは読まないんですよ。例えば、これ」
神田が指したのは、「天地」の「天」の部分だった。
「これも『アメ』と読みます。音読みする時も注で指示されることが多いですが、ここには注がありません。『天地』で『アメツチ』ですね」
「タカアマハラの方で天の読み方の指示はあったけれども、その前に出てくる天地の方には指示がないんだね」
「そっちもアマ読みするなら、前にある方に注が付いてなきゃおかしいよな。注で指示されるのがアマ読みする時なら、アマ読みの方がイレギュラーってわけか」
「そういうことです。そして、『天照』の『天』には、注が付いていない──!」
「注がねぇなら、アマ読みじゃなくてアメ読み……か」
「でもでも、神田くん。私は、アメテラスという呼び方は聞いたことがないね。もっとももっとも、イザナキやタカアマハラの方も初耳だったのだけれども」
「僕も、アメテラスと呼ぶ人は知りませんね」
「だったら、園田よ」
「神田です」
「本当はアマ読みするのに、書いた奴が注を書き忘れたってことはねぇのか?」
「書き忘れの可能性は否定はできませんが、書き忘れだと証明する方法もないと思います。先入観を捨てて読めば、これはアメテラスですよ」
「先入観を捨てる……か。カッコイイこと言いやがるじゃねぇか、種田」
「神田です。──さっきも言ったように、アメテラス呼びをする人は知りません。イザナキなら、通の人が読めば『こいつ、わかってるな』と思わせることも可能でしょうけど……」
「アメテラスの方だと、それも難しいということだね」
「はい」
「まぁ、その辺も含めて、嶋のオッサンに話してみるわ。これで、あのオッサンに貸しが作れるぜ」
(ということは、僕は山下さんに貸しを作ったことになるのかな?)
「二階堂のオッサンには、でっかい借りができちまったけどな」
「はははは。困った時は、お互い様お互い様」
(僕が貧血で気を失ってる間に、何かあったのかな? う……! あの時のことを思い出そうとすると、頭が痛い……! 特に、頭のてっぺんが……!)
「オレは、嶋のオッサンと打ち合わせだ。邪魔したな!」
打ち合わせ室から出ようとしたところで、山下が足を止める。そして、顔を神田に向けた。
「お前には期待してるぜ、半田」
「だから、神田ですってば(て言うか、マンガの話はほとんどしてないけど……)」
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