第1章第1節:導入


   A


「話は聞かせてもらったよ」

 初老の冴えない男が(ノックもせずに)打ち合わせ室に入ってきた。ちなみに、ドアは横にスライドさせるタイプだ。

(聞かせてもらったって……何の話をだろう……?)

 神田は、まだ話らしい話を始めていなかったのだが。

(それ以前に、誰?)

「おやおや、前野副編集長」

「副編集長?(ということは、偉い人か!)」

 神田は少し緊張した。

「神田君……だったね」

「は、はい! 神田と申します!」

「君には期待しているよ」

「は、はい! 頑張ります!(僕は期待されてたんだ!)」

 神田は嬉しくなった。

 そんな青年に、二階堂が言う。

「前野副編集長は、前の編集長なんだよ」

「前野副編集長が前野編集長……?(『前の』編集長か。それって、降格したってことだよね……? 何があったんだろ……)」

 神田がそう思っていると、前の編集長で現在は副編集長の前野が「こほん」と咳払いをした。

「二階堂君」

「はいはい、何です何です?」

「私はね、前々から思っていたのだよ」

(編集長だった頃からかな?)

「打ち合わせはね、9割5分は雑談なんだよ」

(雑談ばっかりだな!)

「打ち合わせらしい打ち合わせは、残りの0割5分……5分間だね」

「短いよ!」

 思わずツッコんでしまった新人作家。

(しまったー! 偉い人にツッコんでしまったー! これ、僕の連載はなかったことになるんじゃ……!?)

 冷や汗を垂らす神田だったが、前野は「はっはっは」と笑った。

「元気な若者だね」

「そうでしょうそうでしょう」

「神田君」

「はい」

「失敗が成功の母なら、雑談は創作の父だ。これ、私の名言ね」

「は、はあ……」

「大いに雑談をし、そこからインスピ……何とかをだね」

「インスピレーションですか?」

「それだ。インスプ……創作のヒントを得たまえ」

「雑談から……ですか」

「そうとも。雑談からイソスピ……いい具合に創作のヒントを得た例は多い。私と担当作家が交わした雑談から、ヒット作が次々に……とまではいかないまでも、ある程度は生まれたのだよ」

「はあ……そうでしたか(ある程度なんだ)」

「私は、雑談で編集長になったようなものだ」

「は、はあ……(それで編集長になれるんだ、ここの編集部)」

「雑談しかしなくなったら、副編集長に逆戻りしたのだがね」

「ダメじゃないですか!」

「では、打ち合わせという名の雑談をしてくれたまえ。はっはっは」

 笑い声を残して、前野は打ち合わせ室から出て行った。

(うーむ…………。雑談しかしないで編集長になっちゃうとか、ここの編集部、大丈夫なのか……?)

「神田くん神田くん。前野副編集長もああ言っていたことだし、『古事記』の話を聞かせてくれないかな」

「そうですね。それでは……」

 神田は、打ち合わせ室にあったホワイトボードに目を向けた。

「それを使いながら説明します」

「いいねいいね。先生みたいだ。あ、マンガ家の先生だったね。失敬失敬」

「まだデビュー前ですけどね(デビュー作の打ち合わせ中に『古事記』の話をすることになるなんて、思ってもいなかったけど)」

 マーカー(ブラック)を手にした新人作家は、ホワイボードに「『古事記』について」と書いた。

「それでは、『古事記』についての説明を始めます。まずは、『古事記』の概略から──」


   B


 説明をするにあたって、神田はまず最初に、ホワイトボードに「上」「中」「下」と書いた。

「『古事記』は、上・中・下の3巻構成になっています」

「おやおや、そうだったのか。てっきりてっきり、1冊の本だと思っていたよ」

 二階堂が目を向けたのは、神田が(なぜか)持って来ていた『古事記』だった。青年が持って来ていた『古事記』は、その1冊だけである。

「『古事記』は、1冊にまとめられて出版されていることも多いんです」

 神田が本を開き、二階堂に中を見せた。

「これが原文で、こっちは書き下し文になります」

「てっきりてっきり、書き下し文が原文なんだと思っていたよ」

『古事記』が書かれた時代は、ひらがなやカタカナが生まれる前。そのため、『古事記』の原文は漢字で構成されているのだ。

 厳密には漢文とは違うのだが、パッと見は漢文である。

「上巻の頭には序文がくっついているのですが……」

 例外的に、序文は、ほぼ完全な漢文である。

「それによると、『古事記』の成立は和銅五年。西暦だと、712年ですね」

「それならそれなら、学校で習ったかもしれないな。序文の存在は知らなかったけれどもね」

「実は、オリジナルの『古事記』は現存していないそうです」

「おやおや、それは初耳だ。残っているのはコピーだけなのかい?」

「そうらしいです。僕が持って来た『古事記』も、あるコピーを元に作成されています。コピーと言っても、当時はコピー機なんてものはありません」

「書き写すのは一苦労……いやいや、一苦労どころではなかっただろうね。誤字や脱字も多そうだ」

「そうだと思います。現存するコピーは複数あり、使われている字が異なることもあるそうです」

「やっぱりやっぱり、それも避けられない事態だったんだろうね」

「序文によると、『古事記』の成立に大きく関わっているのが、稗田阿礼と太安万侶の2人。作らせたのは天皇です」

「稗田阿礼と太安万侶は、授業で聞いたことのある名前だ。それにしてもそれにしても、天皇が作らせたものだったんだね。──ところでところで、質問があるんだけれども」

「何でしょう?」

「『日本書紀』も、同じ時代に書かれたものじゃなかったかな?」

「『日本書紀』は、720年の成立と言われますね。たまたま、『日本書紀』も持って来ていたんですけど……」

 青年のリュックから、今度は『日本書紀』が登場。

「『日本書紀』も1冊になっているんだね?」

「いえ、これは『日本書紀』の一部なんです。『古事記』は3巻だけですが、『日本書紀』は30巻もあるので」

「30? それはそれは、すごい量だ」

「『古事記』が33代天皇の推古の時代までを語るのに対し、『日本書紀』は、もっと後の時代までを語っています。41代の持統の時代までですね」

「でもでも、天皇数人分の差だけでは、10倍とまではいかないだろう?」

「ええ。『日本書紀』の特徴は、多くの別パターンを収録していることです」

「別パターン?」

「例えば……ここを見てください」

 青年が指差したのは、「一書曰」の3文字だった。

「これは『一説によると』ぐらいの意味ですが、これが多く登場するのが『日本書紀』の特徴なんです。『本文』『正文』『正伝』などと呼ばれるものの後に、それとは別のパターンの話──『異文』や『異伝』などと呼ばれる話が何個も続きます。特に、最初の2巻──神代の話は、それが顕著です」

「そうなるとそうなると、文章の量も膨れ上がるわけだ。だけどだけど、不思議な話だね。別のパターンとは、真実ではない話ということになるんじゃないかな?」

「僕もそう思います。ただ、複数のパターンが語られていた……という証拠とも考えられそうです。地域によって内容が違ったのか、時代を経て変化したのか。その辺のことは置いとくとして、大まかな内容は同じでも、いくつかのパターンが存在すること自体は不思議ではありません」

「『日本書紀』は、そういった複数のパターンをまとめたものということになりそうだね。ではでは、君が興味を抱いたこと──君の研究成果を聞かせてもらいたいな」

「はい。念のために断っておきますが、僕はプロの研究者ではありません」

「そうだねそうだね、君はマンガ家だ」

「これからの話の内容は、僕の個人的な見解が多く入ります。僕の考えは、定説とは大きく異なる部分も多いです。定説と同じことを言っても、それでは研究とは呼べませんし」

「はたして君は、『古事記』を読んで、そこに何を見出したのかな──」


   C


「僕が研究対象としたのは、これ」

 トン──。

 マーカーが音を立てた。ホワイトボードに記された「上」の文字を叩いた音だ。

「僕の専門は、上巻だけなんです」

 ホワイトボードに線を引く神田。「上」と「中」の間に境界線が生まれた。

「ここで分けたのには、理由があります」

「いったいいったい、どんな理由だったのかな?」

「それは、上巻を『神々の時代』、中巻と下巻を『天皇の時代』と位置付けたからです。あ、上巻の序の部分は除きます」

 今度は青いマーカーを手にし、境界線の上と下に「神々の時代」「天皇の時代」と記す。それを見た二階堂は、興味深そうに「ふむふむ」とうなずいた。

「つまりつまり、君は神々の時代に関心があったんだね」

「はい。この神々の時代の話を『神話』と呼びたいと思います。『古事記』に書かれた神話ですから、『古事記神話』ですね。『古事記』と『日本書紀』の神話をまとめて『記紀神話』という言い方もありますが、僕は、その呼び方は好みません」

「なぜかななぜかな?」

「『日本書紀』には、複数のパターンが収録されています。その中には、『古事記』とよく似た──細かい部分以外は一致するものもあります」

「逆に逆に、それ以外は似ていない?」

「はい。全然違います」

「君の話を聞くまでは、『古事記』と『日本書紀』は同じ内容だと思っていたよ」

「『記紀神話』という言い方だと、そういう誤解を招きかねないでしょうね。『古事記』と『日本書紀』は、基本的には、別物として扱う必要があると考えます。よく似た話が収録されているのは、どちらかが他方をコピーしたからか、両者に共通するルーツが存在していたのでしょう」

「ところでところで、話は戻るけど。中巻と下巻が天皇の時代ということは、上巻の時点では、天皇がいないのかな?」

「そうなんです。初代天皇である神武は登場するのですが、天皇ではありません。神武という名前でもありませんでした」

「ふむふむ。神々の時代は、天皇以前の時代か」

「『神代』と呼ぶ人も多いと思います。『日本書紀』だと、最初の2巻ですね」

「神々の時代に起きたことが、君の研究対象だったんだね。いったい、どういう出来事があったのかな」

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