第3話「禊の儀式」
だからと言って、すぐに諦めがつくものではなかった。
ひとしきりわんわん泣いた後、縁は胸の痛みを抱えたまま明楽を想う。
(いくら否定されたとしても、わたしはこの気持ちを諦めきれない)
未練たらしいと言われるかもしれないが、縁にとって明楽はそれほどの存在だったのだ。人生のすべてを捧げていたと言ってもいい。縁の行動の中心には、いつも彼がいたのだから。
「どうして、あんなに冷たくなってしまったんだろう」
ぽつりとつぶやけば、それは明確な形をした疑問に変わる。そして宴会の最中に感じた違和感が、ゆっくりと首をもたげた。
(そもそも、わたしの言葉をあんなに否定した意味はなに?
それに明楽様は、わたしの最後の言葉に少しだけ反応した)
縁の知る限り、他人に横暴な態度を取るのは相手を支配したいからか嫌われたいかの二択だ。しかし前者だと、先ほどの態度は納得できない。ならば後者であろうと思う。
(もし後者なら、そんなの悲しい)
あの横暴な態度で明楽の良さが見えなくなってしまっているなど、それが現実なら悲しくて仕方ない。ゆえに彼女は、しばらく明楽のことを観察してみよう、と思った。明楽のことを諦めるのは、それからでもいいはずだ。
それはどこか、明楽が変わっていなければいいという願いでもあった。だがそれくらいの希望を抱いても、ばちは当たらないであろう。彼女にとって明楽への想いは、それだけ大きなものであったから。
そう決めた縁の行動は早かった。すぐ立ち上がると、涙で濡れた頬を袖で拭う。そして冷えた体を抱き締めながら、そそくさと私室に戻った。
されど灯りがついていることに気づき、進めた足を止める。なんとなく、誰がいるか予想はついていた。
御簾(みす)をくぐりそろりと足をしのばせると、声がかかる。
「縁様。お帰りなさいまし」
「た、ただいま……弥生」
目元を袖で隠そうとしたが、さすがに無理であった。
壁代(かべしろ)から顔をのぞかせた弥生は、泣き腫らした縁のかんばせを見ると眉を立てた。されど何か言うことはせず、縁を壁代の内側まで入るように言う。
そして、濡れた手ぬぐいを差し出した。
「お使いくださいませ。……またひとりで、泣いていらしたのでしょう?」
「……弥生には、なんでもお見通しね」
「当たり前です。一体どれほどの月日を、ともに過ごさせていただいていると思っていらっしゃるのですか」
「うん」
濡れた手ぬぐいは冷たく、しかしとても温かかった。
目元にそれを当てがいながら、促させるままに御帳台(みちょうだい)と呼ばれる寝台へと寝転ぶ。弥生が明かりを消せば、部屋はすっかり暗くなった。
さらさらという音とともに、帳(とばり)がおろされる。
こうして縁の波乱の一日は、静かに幕を下ろした。
***
翌日。
夜とは打って変わり意気揚々と支度をする縁に、周りは皆安堵していた。昨日の様子を、昔からの馴染みである彼らは気にしていたからだ。
彼らのそんな心情などつゆ知らず、縁はしっかりと正装に着替えると、これから向かう本殿への期待を膨らませた。
巫女の仕事は主に、本殿でおこなう。本殿には鏡巫女としての部屋が与えられ、昼間はそこで過ごすのだ。
特に今日は朝から、先に社(やしろ)入りしていた他の巫女たちとともに禊(みそぎ)をすることとなっていた。
はじめて顔を合わせることになる巫女たち。それがどんな人物かは想像することができないが、昨日のこともあってか不安のほうが膨れていた。
それを振り払うように首を振り、縁は姿見に向けて笑みを浮かべる。
「……よし」
そして私物でもあり仕事用具でもある丸型の鏡を持つと、屋敷を後にした。
共に連れてきたのは弥生と、護衛の術者たち。誰も彼も昔からの馴染みなため緊張はない。穏やかな気持ちで本殿へと渡った。するとそこには、本殿から来た案内(あない)の者が佇んでいる。
「鏡巫女様。どうぞこちらへ」
下位の身分の者が、上位の者の名を呼ぶことはない。
そのため縁は『鏡巫女』という通称で呼ばれた。慣れない呼ばれ方に戸惑いながらも、縁は男の後ろに付く。そして彼女に与えられた部屋へと向かった。
数年ぶりとなる本殿は、おさなごのときよりも小さく見えた。場所もあまり変わっておらず、記憶を辿れば道は分かる。
通された部屋は、日当たりの良い位置にあった。御簾をあげれば良い景色が見れそうだ。
揃えられた調度品は最低限のものであったがどれも質が良く、もともとものを持ちたがらない縁からすれば好都合である。
「こちらがお部屋となります。ひと通りの調度品は揃えましたが、ご不足のものがありますれば用意させますので」
「ええ」
「続きまして、禊の場へと向かわせていただきます」
禊の場は、本殿の中心にあった。
奥まった部屋のさらに奥に扉があり、そこを抜けると不思議なことに石の廊下が広がっていた。乳白色の床は、やわらかな光を発している。まるで別の場所へと迷い込んでしまったかのような錯覚があった。
縁は、はじめて見る光景に目を見開いた。物珍しさゆえに辺りを見回そうとしたが、弥生からの鋭い視線を感じ取り背筋を伸ばす。
(明らかに別の場所だわ。もしかしなくともあの扉は、転移の術が施されたものなのかしら?)
となると、なんと高度な術式なのだろうか。素直に感嘆する。それと同時に、やはり本殿には未知の術式が隠されているのだと確信し、胸を踊らせた。鏡を持つ手にも力がこもる。
進んで行くにつれて、水音が聞こえ出した。
視界が一気に開ける。
その先にあったのは――御神木。
見上げるほど大きな桜木はそれはそれは見事に蕾をほころばせ、一面に薄紅色の雨を注いでいた。
この木こそ、神人がその身に宿す神の本体だ。桜の神には、他の術者が誰も使えない治癒の力が備わっていたのだ。
その神をおろすことができる者こそ神人であり、今代は明楽がその役目を担っていた。
あまりの光景に息を飲んでいると、ふと視界に人の姿が入る。どうやらすでに、他の面々は揃っていたようだ。
数多いる人。そんな中でも一番始めに目にとまったのはやはり、明楽の姿だった。
ずきり、と胸が痛む。縁は鏡を持つ手に力を込めた。重たくなった足を進め、示された持ち場につく。
そこにはすでに、儀式のための用意がされていた。床に布が敷かれ、燈台がふたつある。それらは三揃えあり、既に他のふたつにはおなごが座っていた。縁もそれに習い座る。なんとなく、やり方は分かっていた。普段やっている修行となんら変わらない。そのため鏡を持つ手にも力が入る。
すると明楽の横に佇んでいた男が、声高らかに宣言した。
「これより、三姫の姫巫女様による禊の儀を始めさせていただきます」
縁は、この瞬間がとても苦手だ。しかしその気持ちをひた隠し、ゆっくりと鏡を神木へとかざす。
目をつむり、息を吐いた。意識を自分に向ける。
すると縁の肌を、淡い光の蔓が滑り出した。
光は首筋まで伸び、頬に美しい花模様を飾る。
指先から伸びたそれは鏡を伝い、鏡の背面に同じ模様を描き出した。
紫陽花(あじさい)の花。
それは鏡に力を与え、その力は神木へと注がれる。
全身から力が抜き取られてゆくその感覚に、縁は唇を噛んだ。儀式のためとはいえ力を放出するこの瞬間が、縁にとっては何よりの苦痛である。脂汗が滲み、鏡が手から離れそうになった。しかし集中の糸を結び続け、なんとか意識を保つ。
軋むような痛みを押し殺し力を発し続けていると。
――カーン!
そんな、甲高い音が響いた。
そのあまりの大きさに、縁の意識が現実へと引き戻される。
それはどうやら残りの巫女も同じで、宝具を手にしたまま辺りを見回していた。
縁も視線を背後に向けると、床に剣が落ちている。どうやらそれが、先ほどの音の根源であるようだ。
剣は殿方の必需品。ここにいる誰もが持ち合わせていよう。
(誰が、そんなことを)
儀式の合間にそのような暴挙をおこなう者など、縁は見たことがなかった。
しかしその相手を見て、縁は目を見開く。
禊の儀式を邪魔したのは。
神人、明楽だった。
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