第2話「顔合わせ」
日もとっぷりと暮れた頃。縁は弥生に揺り動かされ目を覚ました。
ぼんやりとしたまなこで目をこすれば、「いけませぬ」と弥生にたしなめられる。
「縁様。そろそろ支度をいたしましょう。神人様がいらっしゃいます」
「……もうそんな時間?」
「はい。御髪も改めて整えさせていただきますね」
「はーい」
のんびりした口調で立ち上がり、姿見の前に座った縁とは裏腹に、弥生は他の女中も呼び新たな衣を運んできた。神人に会う晴れの日に、皺のある衣など見せられない。その間おとなしく、縁はされるがままである。なぜなら、文句を言うと面倒臭いということは、幼少期から痛いというほど学んでいたからだ。
白小袖、緋袴、単(ひとえ)、と何枚も何枚も着物を重ねる。これが貴族の正装だ。それを見てふと、縁は懐かしくなる。
(そういえばあの方と初めてお会いしたとき、この装束を着るのが初めてで重たくて。苦戦している際に道に迷ったのよね)
長すぎる裾は、幼い頃の縁には重すぎた。普段は巫女としての修行のために、小袖と緋袴しか履いてこなかったのだ。慣れない衣装に戸惑いを隠せず、気づいたらはぐれていた。
されど、縁にとってはそれすらも愛おしい。
今となってはすっかり着こなせるようになった装束の袖を優雅に揺らす。ふわりと、焚きしめた香のやわらかな香りがした。
その間にも女中たちはせかせか働き、縁に化粧を施していった。弥生は長く伸びた髪をくしけずり、香油を擦り込ませている。
顔合わせとは言わば、神人との信頼を深めるための行事である。夕餉を食しながら、互いに言葉を重ねていくのだ。
そうでなくとも三人の巫女はそれぞれ、己が身を賭して神人を守るようにと言われ続けてきた。それは言わば刷り込みのようなもので、顔合わせでどちらに揺れるか決まる。
縁も幼少以降会ったことがなく、今日の顔合わせに期待と不安を膨らませていた。
広間に移動し、床に座す。屋敷の者たちも緊張しており、部屋はピンッと張り詰めた空気が漂っていた。
胸がどくりどくりと鳴り、時が経つのが遅く感じる。
そんなときだ。
「神人様の、おなーりー」
待ち人の来訪を告げる声と、鐘が鳴らされた。
縁はひとつ息を吸い、背筋を伸ばす。
周りが一斉に頭をさげる中、彼女は屋敷の主人として顔を上げ続けていた。
襖が開かれ、神人が入ってくる。
神人、明楽(あきら)は、幼少期の面影を残しながらも、さらに涼やかな空気をまといやってきた。
つり目がちな瞳は、人にきつい印象を与えるからと彼が嫌っていたものだ。
何も変わらない。変わらないのだと、そう自分に言い聞かせる。なんだか少し安堵した。それは彼に、確かならしさが残っていたからであろう。
そう思った縁は笑みを浮かべ、深々と頭を下げる。
「ようこそおいでくださいました、神人様。此度はこのような屋敷を与えてくださり、誠に嬉しゅうございます。どうぞごゆるりとしていってくださいまし」
しかし返ってきたのは、予想だにしなかった言葉で。
「長居する気などない」
嫌悪を多分に含んだ声に、笑みが引きつった。
縁はその形のまま停止し、今起こったことを整理する。
(……この方は、このような、人だった?)
縁の記憶にあるおのこは、泣き虫だがとても優しかった。自然をとても愛し穏やかで、争いを好まずされどとても美しい。そんな人だったはずだ。
しかし先ほどの突き放すような物言いは、その逆の印象を縁に与えた。
期待が弱まり、不安が膨れ上がる。されど縁などよりも、周りの空気が凍っていた。
明楽の付き人は声をひそめたしなめていたが、彼は聞く耳を持たない。向かい側にどかりと座り込むと、縁のことなど見向きもせずそっぽを向いてしまった。
使用人たちは皆絶句。第一印象は間違いなく最悪だ。
それに気づいた縁は、場の空気を変えるために夕餉を運ぶよう指示を飛ばした。彼女の気遣いに、彼らも慌てて用意を進める。
その間のつなぎにと、縁は持ち前の明るさと話術を駆使し場の空気を和らげようとする。
「さ、左様でございますか。しかしお食事の時間くらいは、ゆっくりしていってくださいませ。わたくしはあなた様とお会いするのを、とても楽しみにしておりました」
「わたしは別に会いたくなどなかった」
「で、すが、わたくしはあなた様の身をお守りする巫女にございます。信頼を深めることは、必要では、」
「信頼など必要ない。そもそも巫女など、いてもいなくとも変わらん」
矢継ぎ早に否定の言葉を述べられると、もはやどうしようもなくなってしまった。こうなると縁が何を言っても、彼は態度を改めないであろう。ここまで頑なに人を拒む相手に補いの言葉をかけても、伝わるはずもないのだ。
あまりのことに怒りはおろか、悲しみすら湧いてこなかった。
(もう、何が何だか分からない)
混乱しきった頭では、正常な判断も出来そうにない。
その後夕餉が出てきたが、明楽は一度たりとも箸をつけなかった。否。箸を持つことすらしなかったのだ。
その有り様に、さすがの弥生も腹が立ったのか立ち上がろうとしていたが、縁は無言でそれを制する。ここで言い争いをしても、弥生が咎を受けるだけだ。彼女がこの屋敷からいなくなり困るのは、縁なのだから。
まるで喪中のような有り様の顔合わせは、縁が食事を終えたことで終わりを迎えた。
無言で立ち上がりかけた明楽を見て、縁は思わず口を開く。
「あ、の」
「……なんだ」
口を開いて、後悔した。しかし後には引けない。
縁はわずかな希望をのぞかせた瞳を向け、恐る恐る唇を動かす。
「昔お会いした日のことを、覚えてはおりませんか」
その言葉に一瞬、明楽が身じろいだ気がした。縁の期待が膨らんだとき、彼は畳み掛けるように言い放つ。
「昔のことなど、覚えてはいない」
つららのように凍えた声だった。
それは縁が温め続けてきた恋心を切り刻み、突き放す。彼は別れの言葉すら言わせてくれなかった。
神人が立ち去ってなお、部屋は真冬のような空気が充満している。
それを断ち切ったのは、縁だった。
「弥生」
「はい」
固い声音で応じた彼女に、縁は満面の笑みを浮かべて言う。
「ご飯、たくさん作って」
「……は、い?」
「だから、ご飯、たくさん作って? そしてみんなで食べましょう。せっかく越してきたのに、しんみりした空気は嫌だわ」
縁がない突拍子もないことを言うのは、今に始まった事ではない。昔から、食事は大人数で食べたがり、使用人たちとも好んで会話をしたがった。ゆえに今回のそれは、別段珍しいことではない。
にもかかわらず、弥生は思わず息を呑んだ。されど直ぐに頷くと、指示を飛ばす。他の使用人たちも何かを悟ったのか、どたばたと宴会の準備をし始めた。
それを見て、縁は安堵した。
(ああ、この雰囲気なら、まだ大丈夫)
明るく楽しい空気の中で笑っていれば、まだなんとかなると思った。
だから彼女は心の声に見て見ぬ振りをしたまま、使用人のひとりが持ってきた琴を弾き始める。その琴に合わせ、侍女たちは各々の楽器を演奏し始めた。
(まだ、大丈夫)
琴を弾きながら、どこか他人事のように感じている自分にそう語りかける。
でないと。
心が、折れてしまいそうだった。
そうして縁は、楽しい宴に身を投じた。宴は夜遅くまで続き、縁は率先して周りに笑顔を振りまき続けた。
やがて行灯の火が消され、屋敷は本来の静けさを取り戻した。使用人たちは皆越してきた疲れもあってか、直ぐに眠りに落ちてしまう。
そんな中縁は、ひとりで庭に出ていた。
欠けた月が空高くのぼり、彼女のことを見下ろしている。月明かりに照らされた桜木は、ただひたすらに花びらを振りまいていた。
昼の桜とは違い、夜の桜はどこかあやしげだ。それがどうしようもなく魅惑的で、縁の心を惹きつけてやまない。
思わず何度もまたたいてしまう。
そのときぽろりと、頬を一筋の雫が滑り落ちた。
「わた、しは……どうしたらいいの?」
こぼれ落ちたのは、先ほどの明るく能天気なものとは真逆な暗く危うい言葉。
口にすると同時に、涙が次から次へと頬を伝ってゆく。
縁は思わず、膝を抱えてうずくまった。そして密かに、声をあげて泣く。
彼女の初恋はあまりにもあっけなく、されどとても大きな音を立てて崩れ去っていった。
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