パンと母と

「そろそろ帰るわ」

 久しぶりの実家で僕は母に言った。

「明日も早いし」

 と、続ける。

「無理したらあかんよ」

 母は相変わらず心配性だ。三十を過ぎたと言えど息子は未だに子供なのだろう。


 転職で朝早く起きることが日課になった。

 もう去年の話になる。十年続けた介護職を辞め、パン職人になると母親に告げた時の驚いた顔が忘れられない。

 ここ神戸はパン屋の多い街である。一八六八年の神戸港開港によって、多国籍文化が一気に流れ込んできた。それにより、外国人のための居留地が設けられ、風見鶏の館やうろこの家などの洋館が次々と建てられた。並行して彼らの生活を支えるパン屋も増えたのだと言う。その影響か今でも神戸はパンの年間消費量で全国一二を争う街なのだ。

 当時、訪問介護員として働いていた僕の移動手段はもっぱら電動自転車だった。東西に長い神戸の街を移動するのにこの電動自転車というのは中々に都合が良かった。兵庫区の事務所から中央区、灘区、長田区、須磨区まで電動自転車で移動する。神戸市九区で高齢化率の高い兵庫区長田区が訪問先として多いので近い場所をぐるぐると回ることもあるのだが、そうとばかりは限らない。訪問内容によっては結構な距離の移動を余儀なくされることもあり、また移動時間がタイトな場合も少なくなかった。そんな中、僕の食生活を支えてくれたのは、このパンだった。移動の合間に手軽に片手で食べられるパンはとても重宝した。

 そうして仕事中に立ち寄った湊川のパン屋で僕は生れて初めてパンに感動した。抜群に美味しかったのだ。最初に出会ったのはクロワッサンだった。見た目は何てことのないただのクロワッサンに見えた。だが外はさっくりとしていて中はほどよくしっとりで、そのバランスが絶妙だった。そこに粉の香ばしさとバターの香りがこれでもかと溢れてくるのだ。これまで食べていたパンは何だったのかというほどに次元の違う美味さだった。

 それからというもの、僕は毎日のようにそのパン屋に通った。前述のクロワッサンは何度も食べたし、他にもピスタチオの入ったハード系のパン、ドライトマトとクリームチーズのパン、ラムレーズンのサンドイッチ、ノアレザン、レンコンとチーズのカンパーニュ、合鴨とブロッコリーのパニーニ……。どれもこれもパン一つでこれほど感激できるのかというほどに抜群に美味しかった。

 店の前に『職人見習い募集』という小さなポスターが貼ってあったことを僕はまるで気にも留めていなかった。後日、事務所の管理者と揉めて辞めてやると啖呵を切るまでは。

 無職になって僕はすぐにそのパン屋の門を叩いた。三二歳。新しい事を始めるにはあまりにも遅すぎる年齢だった。採用してもらったのはまったく幸運としか言いようがない。


「飯、美味かったよ。いつもありがと」

「いいえ、お粗末さまで」

 玄関で靴を履きながら母に礼を言い、エレベーターのボタンを押した。

 築三十年。妹と同い年の県営住宅。

 昔は祖母を含めて五人で生活をしていた場所。今は父と母と二人しか住んでいない。こうしてたまに顔を出して飯を食うのが親孝行なのかただの脛かじりなのかは第三者の意見に服することにしよう。

 さあ、明日は仕事だ。

 午前四時に起床する。

 作るパンによって前日から発酵させるものや、朝一時間ほど寝かせてすぐに焼くものなどさまざまだ。それらを八時のオープンに間に合わせるには夜明け前に家を出なければならない。少しでも気を抜けば仕上がりが変わってくる。ハードで難しい仕事だ。それでも僕は神戸でパン職人をさせてもらえることを光栄に思う。そしてこの年で採用してくれた店にも感謝している。

 一階まで降りて上を見上げると、ベランダから帰る僕を見つめる母の姿が見えた。

 白内障を患い、手術はしたもののさほど視力は回復せず、とくに夜目は利かなくなったと母は言う。

 僕はいつものようにスマートフォンを取り出し、なるべく白い画面にしてから掲げ、大きく左右に振った。

 揺れる光が見えたのだろう。合わせて母が手を振り返す。

 そうしてしばらく手を振った後、僕は回線を使わなくとも意図を伝えてくれた粋な端末に御苦労と声を掛けポケットに突っ込んだ。

 さあ、明日は仕事だ。

 発酵した生地達が僕を待っている。

 発酵にはイーストを使う。

 適切な温度と水分があれば、イーストは生地をどんどんと膨らましてくれる。パンをパンとして作り上げてくれる影の功労者だ。

 イーストは日本語で酵母という。

 酵母の母は、奇しくも母の一字を使う。

 振り返ると母はまだ手を振り続けていた。

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