家庭用消火器の燃えるような恋の顛末について

「あれまあ、こんなものが」

「あ、いいですよ。置いといてもらっても」


 彼女の声を聞いたときから、僕の時間は動き出した。


 僕は消火器だ。

 正式にはABC粉末蓄圧式消火器という。

 このABCというのは、普通火災、油火災、電気火災のどれにも対応できるという意味だ。

 赤いボディの側面には、型番である「YA-10SNワイエーテンエスエヌ」の文字が大きく描かれている。

 それを見て、彼女は僕に名前を付けてくれた。

「ヤットさん。あなたはヤットさんね」

 その日から僕は、ヤットさんになった。

 彼女は四月から大学に通うためにこの部屋に引っ越してきた。

 そして僕は前の住人の忘れ物だった。

 クローゼットの奥にひっそりと置かれていた僕。いかにも邪魔だと言わんばかりの大家の態度をよそに、彼女は僕がここにいることを笑顔で許してくれた。

 彼女の名前は芹沢帆架せりざわ ほのか。嬉しそうに見せてくれた真新しい学生証にそう書かれていた。

 僕は彼女が大好きだ。

 彼女は出掛ける前に必ず僕に挨拶してくれる。

「いってきます、ヤットさん」

 そう言って彼女は僕に笑顔で手を振ってくれる。

 僕は粉末放射用のゴムホースを振り返す……ことは出来ないけれど、とても嬉しい気持ちで彼女を見送るのだ。

 彼女は月曜から金曜までは大学で講義を受け、水曜日と金曜日の夕方と日曜日のお昼は、新しく始めたケーキ屋さんでアルバイトをしている。

 帰ってきた彼女と一緒にテレビを見るのが僕の一番の楽しみだった。

 テレビは僕に沢山の情報を与えてくれた。彼女の見るドラマやニュースから、僕は人間についてたくさんのことを学んだ。

 そうやってテレビを見ながら、彼女がなかなかの美人だということが段々と分かってきた。あるとき、歌番組に出てきたアイドルグループので、彼女によく似た人がいたのだけれど、一瞬のことだったから名前までは覚えられなかった。

 彼女はテレビをつけたまま眠ってしまうこともたまにあって、そんなときは古い洋画や、普段は彼女が見ないようなバラエティ番組を見ることが出来た。僕はそれらの番組から男女の関係についても学んだ。

 そうやって色々知ってしまってからというもの、彼女がお風呂上がりにバスタオル一枚で過ごしているのを見ると、僕の顔はみるみる真っ赤になってしまうのだった。……まあ、元から赤いんだけどね。


 ある日、彼女がひどく怯えた顔をして帰ってきた。

 彼女は帰るなり、僕に抱きついた。

「……ヤットさん。私、誰かに付けられてた気がするの」

 ストーカー、という言葉を僕は知っている。

 歪んだ愛情で執拗につきまとうなどの迷惑行為をする人のことを指す。

 たとえどんな奴であれ、彼女に迷惑をかける奴は許さない。

 僕はどんなことがあっても彼女を守ると誓い、拳の代わりに心の中でレバーを握った。


 そして事件は起こった。

 深夜だった。

 何かをゴンゴンと叩くような音で、僕は目が覚めた。

 ベランダを見ると、黒い服に身を包み、頭からすっぽりと目出し帽を被った男がいるのが見えた。

 男は窓ガラスにガムテープを貼って、ハンマーで叩いている。

 ――帆架さんっ! 起きてっ!

 大声で叫んで彼女に危険を知らせたかったが、僕は声を出すことができない。

 程なくしてガラスは割れ、腕が通るほどの穴が空いた。

 男は穴から手を伸ばし、静かに鍵を外した。

 からからと乾いた音を立て、ドアがスライドする。

 男が部屋に侵入してくる。

 ――帆架さんっ! 起きてっ! 逃げなきゃっ!

 彼女がこんなに大ピンチなのに、叫ぶことも動くこともできない。

 僕は自分が消火器であることを恨んだ。

 男がひたひたと彼女に迫る。

 僕は悔しかった。

 ただただ悔しかった。

 ここにいていいと言ってくれた彼女。

 名前を付けてくれた彼女。

 行ってきますと挨拶してくれた彼女。

 一緒にテレビを見て泣いたり笑ったりした彼女。

 そんな大好きな彼女が危ない目にあっているのというのに僕は……僕は何もできない。

 ――嫌だ! 嫌だ嫌だ!

 何も出来ない悔しさが、いつしか激しい怒りに変わる。

 そして……僕は、コケた。

 風が吹いたわけでもなく、誰に押されたわけでもないのに、僕はコケた。

 コケた拍子に金属製の口金にひびが入った。

 ぶしゅしゅしゅしゅー。

 派手な音を立てて、僕は消火用の粉末を部屋中にまき散らした。

「わ、わあっ! 何だっ!?」

 覆面の男が声を上げる。

「きゃー! なに!?」

 彼女も異変に気付き、ベッドから飛び出した。

 ……その後のことはよく知らない。

 粉末の放出とともに僕の意識は遠のいていったからだ。

 これが――死というものか。

 でも僕は嬉しかった。

 消えゆく意識の中で、僕は喜びを噛みしめた。

 なぜなら、消火器人生の最後に、こうして彼女を守ることができたのだから。

 大家さんの声とともにドアを激しく叩く音がする。

 遠くからサイレンの音が聞こえてきた……。


「……でね、お母さん。結局その人、ケーキ屋さんの常連さんだったの。もしあの時ヤットさん……あ、前に話してた消火器のことなんだけどね。そのヤットさんが倒れて壊れてくれなかったら、私あのまま……ほんと、ヤットさんがいてくれてよかった。あ、それでね、消防署の人に確認したら、消火器って中身を詰め替えたらまたちゃんと使えるようになるんだって。早速詰め替えて新居に置いてもらったの。だってヤットさんは、私の命の恩人なんだから」


 ――僕の新しい日々がまた始まる。



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