扉を開けるとひんやりとした空気が流れてきた。トアロード沿いの小さな貸画廊。私以外の客は誰も来ていないようだった。

 定年退職してから絵を見るのが好きになった。

 ずっと働き詰めの無趣味な人間ではあるのだが、海を眺めるのは割と好きだった。

 勤めていたのは老舗の造船会社だったが、造船業も世界同時不況のあおりで規模縮小を余儀なくされた。ここ数年は早期退職を募ったり、親会社に吸収されたりとまあ色々あった。そんな中、給料や待遇が下がってもしがみつくように定年まで勤めてこられたのは、海が見える職場だったからのように思う。

 そうして海や景色を見るのは好きなのだが、出無精で、山に登ったり旅をしたりするような性分ではない。そんなこともあって定年後の余暇時間は、美術館を巡り風景画を見て回るようになった。

 兵庫県立美術館、神戸市立博物館、小磯良平記念美術館も行った。大きな絵や名画を見るのも良いが、最近は街の小さな画廊を回って、若い人の絵を見るのが楽しい。

 このトアロードの貸画廊は二週間単位で貸出をするようで、隔週月曜には新しい絵が並ぶことになる。通ううちに画廊の持ち主とも親しくなって、展示が新しくなるごとに足を運んでいた。

 入って左手に、F10のキャンバスが掛けられていた。

 靴の絵だった。

 履き潰したボロボロの革靴の絵。つま先には穴が空いていて、ソールは剥がれパッカリと口を開けている。

「はて……」

 画廊を見渡すと、どの絵も靴だった。それも揃って古びたものばかりだった。

不思議に思っていると、若い男が奥から現れた。

「ご来場ありがとうございます」

 彼はにこやかに挨拶し、頭を下げた。今回の展示は全て彼が描いたとのことだった。

「絵は、靴ばかりだね」

「ええ、履かれ続けた靴には、それぞれに表情があります」

「表情……」

「新しい靴はピカピカで綺麗ですが、ただそれだけです。履かれた靴には、持ち主と共有した時間が映し出されます。皺であり、傷であり、褪せであり、それは新しい靴には絶対に真似できない美しさです」

 彼の言葉を聞いて、私は再び靴の絵を見た。刻まれた皺と、履き続ける中で付いたであろう傷、結ばれた紐のほころびが丁寧に描かれていた。

 私は自分の靴を見た。何度か底を貼り替えながら十年は履いたストレートチップの茶の革靴は、色褪せて皺だらけだが、お気に入りでずっと履いている自分だけの靴だった。

 私は初めて自分のボロ靴を美しいと思った。

「君は……素晴らしい」

 私は彼の着眼点に脱帽した。

「もっと、表にそれを書いたらどうかね。履きこまれた靴の美しさをアピールしたら」

 私は興奮気味に彼に言ったが、彼は首を横に振った。

「靴は、喋りますか? 靴はただ靴としての役割を果たすだけです。だから美しいのです。私は画家です。私は私のするべきことをするだけです」


 画廊に長く居過ぎたせいで、コーヒー豆を買って家に帰る頃にはもう夕方になっていた。

「おかえりなさい」

 妻が迎えてくれた。連れ添ってもう半世紀になる。取り立てて美人ではないが、愛敬があり、良く笑う。片づけは下手だが料理は上手い。

「今日はどちらへ?」

「例の貸画廊だよ」

「貴方、あそこへ行くのお好きね」

「ああ、若い人の絵に触れると、こちらも若くなった気になる」

「ふふっ、もう皺々のおじいちゃんなのに」

「それはお互い様だろ」

 妻の顔を見る。お互いに年を取った。妻の顔にも皺が刻まれている。履きこまれた靴のように。

「コーヒーを入れるよ。豆を買ってきた」

「あら珍しい。明日は雨かしら」

 そう言って妻は笑った。私はその笑った顔を美しいと思った。言う必要はない。するべきことをすればいいのだ。

 買ってきた豆を開ける。香ばしい香りが部屋に広がる。

 揃いのカップを並べる。

 やかんがシュンと鳴いた。

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