第2話 黒い肉球の手形

 ビトの少年期は、ケンカに明け暮れる毎日だった。

 そうでなければ、餌にありつけなかったのだ。

 恵比寿の野良猫たちは、渋谷ほど縄張りが明確でなく、統制されていない。

 餌場の変動も激しく、昨日あった餌場が今日なくなっているということも頻繁に起こった。

 闘って餌場を奪わなくては、生きていくことができなかった。

「ルカ、おれたちはいつまで、こんな小競り合いを続けるんだ?」

 傷を舐めながら、ビトが言う。

「こんなことを続けていても、カポネには勝てない」

 ルカは、呆れた顔で言った。

「気持ちはわかるけどよ、まずは食わねえと」

 ルカの言葉にも構わず、ビトが語る。

「例えば、一つ新しい餌場ができるだろう。そうすると、恵比寿の野良猫は、誰彼だれかれかまわず、そこに集まる。猫の多さに辟易した人間が、猫対策をするから、餌場が消える。これの繰り返しだ」

「じゃあ、どうすればいい?」

 ルカの問いに、ビトが答える。

「餌場をきっちり割り振るんだ。あの猫はこの餌場、この猫はあの餌場。そうして、それぞれの餌場から、保存の利く餌を少しずつ集めて、備蓄しておく。餌場が消えたりして、餌にあぶれた猫がいれば、その備蓄を使う」

 ルカは少し考えてから、首を振った。

「ダメだ、ダメだ。そんなことはできねえ」

「なぜ?」

黒い手形マーノ・ネーラが許さねえ」

 そのとき、猫たちの悲鳴が響いた。

 ビトとルカが声のほうに行ってみると、そこには一群の猫たちと、首を切られた猫の死体がひとつあった。


デデーン(効果音)

野良猫

ボナセーラ 死亡


「……黒い手形マーノ・ネーラだ」

 ルカがつぶやく。

「なんだ? 黒い手形マーノ・ネーラって」

 ビトが聞いた。

「ニャフィアさ。ある日、餌場に行くと、黒い肉球の手形がついている。餌を上納しろって黒い手形マーノ・ネーラからのメッセージだ。餌を納めれば何も起こらない。無視すると、その餌場を使ってる猫のうち、誰か一匹が殺される」

 ビトが重ねて聞く。

「元締めは?」

「ベルッチだ。デブのベルッチ。見たことあるだろ?」

「わかっているのに、なんで誰もベルッチを殺さない?」

 ルカが、ビトの言葉にちょっと驚いて言う。

「バックに土井組のニャクザがついてる。土井組は、恵比寿でいちばんでかいニャクザの組織だ。誰も逆らえねえよ」

 ビトは少し首を傾げたものの、それ以上何も聞かなかった。

 ただ、殺されたボナセーラの娘が、父の死骸に縋りつきながら、いつまでも泣いているのを、じっと見ていた。


 ……。

 そのちょうどひと月後の朝、二匹は餌場の前で立ち止まった。

「……ファンクーロくそったれ!」

 ルカはそう吐き捨てて、ゴミ場を蹴とばす。

 餌場に、ひと月前に見たのと同じ、肉球の手形がついていたのだ。

「どうする」

 ビトが聞く。

「どうするって……ベルッチに上納餌を納めるしかねえ。無視すりゃあ、おれかお前のどっちかが殺られるんだぜ」

 ルカの答えを聞いて、ビトは少し考えてから言った。

「おれに任せてくれ。上納餌は、月に缶詰1個で話をつける。文句は言わせない」

 ルカはあっけにとられて聞く。

「どうやって?」

「任せてほしい」

 ビトが、ルカの瞳を真っ直ぐに見つめる。

 ルカは、何かを悟ったように、うなずいた。

「わかった。お前の好きなようにやりな。おれはついていくぜ」

「……ありがとう」

 ビトは、そう言って、餌場を後にした。


 ――……。

 ベルッチは、昼になると必ず、一匹で古いビルの屋上に登る。ビルの縁から足を垂らして、恵比寿の街を見下ろしながら、マタタビを嗅ぐのが、彼の習慣だった。

「ドン・ベルッチ」

 そのベルッチに、ビトは恭しく話しかける。

 ベルッチは一瞬警戒の姿勢を取ったものの、相手が少年のビトだと知ると、緊張を解いた。

「おう、おめえか」

 ベルッチが、太鼓腹を揺らして言う。

「上納餌をお持ちしました」

 そう言って、ビトはベルッチに缶詰を渡す。

「缶詰1個か」

 ベルッチが不服そうな顔をする。

「餌場が悪くて。でも、ドン・ベルッチのお許しがあれば、隣のクレメンザの餌場を奪います。そうしたら、普通の三倍、お支払いできますよ」

 ベルッチは、クレメンザの姿を思い浮かべる。

 最近力をつけてきた、若い猫だ。もし殴り合いのケンカをすれば、ベルッチは勝てないだろう。

「どうやって?」

 ベルッチが聞く。

「任せてください」

 ビトが、燃えるような瞳で、ベルッチを見つめる。

 その瞳を見るうちに、ベルッチは、ビトの中に、普通の猫とは違う何かを認めた。

 やらせてみるのも悪くない。

 失敗したところで、ベルッチに損はないのだ。

「へっ、いいだろう。ひと月だけ、これで勘弁してやるよ。その間に、クレメンザのやつをやっちまいな」

「ありがとうございます、ドン」

 ビトが頭を下げると、ベルッチはさっそく、ビトの持って来た缶詰を開けた。

 その瞬間、ビトがベルッチに体当たりをくらわす。

 ベルッチの体が、宙に浮いた。

 口をぽかんと開けたまま、何が起こったか理解できず、ビルの屋上から落ちていくベルッチ。

 肥満したその体が、地上で破裂した。


デデーン(効果音)

黒い手形マーノ・ネーラ

ベルッチ 死亡


 ビトは、その死を確認すると、何事もなかったかのように、ルカのもとに向かう。

「ルカ、ついてきてくれ。土井組の事務所に向かう」

 突然の言葉に、餌を食っていたルカは驚く。

「なんで?」

「ベルッチをった。土井組と話をつける」

 ルカは、一瞬息をのんだものの、どこかでこのことを予想していたのだろう。すぐに落ち着きを取り戻し、ビトとともに、土井組の本部へと向かった。

「ベルッチの件について、土井きよし組長にご相談あって」

 そう伝えると、ビトとルカは、本部の奥に通された。

「……ベルッチをったのはてめえらか」

 土井きよしは、せぎすな老猫だった。低い声で、相手を威圧するように話す。

 ビトが、土井の問いに答えた。

「そうです。恵比寿のイタリア猫で、ベルッチを恐れる猫なんて、ほとんどいません。おれみたいなガキでさえ」

 土井がビトをにらんで言う。

「何が言いてえ」

「恵比寿の黒い手形マーノ・ネーラはもう終わりです。こんなガキにボスをられるような組織に、ビビる猫はいません。明日から、上納餌を集めるのも難しいでしょう。でも、おれたちに任せてもらえれば、今までと同じだけの餌を上納します」

 土井は、黙ったまま、ビトを見ている。

 ビトは、静かに続ける。

「今年は今までと同じだけ。来年は、その倍。再来年には、さらにその倍を上納できます」

「ほう、どうやって?」

 土井の声音が変わった。

 ビトは、場違いなほど優しい微笑みを浮かべて言った。

「ご存知でしょう? ベルッチは、土井組への報告よりかなり多くの餌を徴収していました。だから殺された。その分を上納すれば、今の倍にはなる。それに、今までベルッチをナメて餌を納めていなかったやつらにも上納させれば、その倍になる」

 しばらく考えてから、土井が言った。

「おめえにできるのか」

スィ、チェルタメンテええ、もちろん

 イタリア猫の言葉で答えるビトに、土井が笑う。

「いいだろう。その代わり、上納餌が1日でも遅れたら、てめえらはお終いだ。心しておきな」

 ビトとルカは、神妙に頭を下げ、土井組の事務所を去った。

 帰り道に、ルカがビトに聞く。

「おい、ビト。土井の後ろ盾が得られたのはいいけど、上納餌二倍ってのは、どうなんだ? 2年後にはさらにその倍って……」

 ルカの問いに、ビトが答える。

「2年もいらない。1年で土井組に勝てる組織をつくる」

 そして、ルカを見て言った。

「任せてくれ」

 ルカは、ビトの中に新たな力が生まれつつあるのを知った。

 そして、彼に対する畏れと同時に、抗い難い魅力を感じ、自分の運命を確かめるように、ルカは言う。

「わかった。おれは、お前についていくよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る