第2部 恵比寿ニャフィア編

第1話 子猫ちゃん、出ておいで。首をもいで、うちに飾ってあげるよ

 かすかに甘く、胸がしめつけられるほどに切ない、不思議なにおいがした。

 猫が死ぬときのにおいだ。

 物語は、渋谷抗争の10年前にさかのぼる。

 ここ、渋谷スペイン坂には、イタリア系の野良猫が、独自の縄張りを築いてきた。

 猫たちが叫ぶ、悲痛な声が聞こえる。

「殺された!」

「あんたのとこの旦那が殺されたよ!」


デデーン(効果音)

渋谷ニャフィア

アントニオ・カルデローネ 死亡


 そのしらせを聞いて、アントニオの妻、アンナ・カルデローネは、悲しむよりも先に、ついに来るべき時が来たのだと感じた。そうして、まだ幼い子猫のビトに向かって、こう言った。

「ビト、誰にも見つからないように、駅に行きなさい。そうして、日暮れまでマンマが来なければ、教えた通りになさい」

 ビトは、素直にうなずいて、歩き出した。

 渋谷では、数か月前から、ニャフィア同士のいさかいが激化している。

 カポネと呼ばれる若いニャフィアが、強引な手法で、渋谷のイタリアン・ニャフィアを統合しようとしているためだ。

 ニャフィアたちの中でも穏健派を束ねる、ビトの父アントニオは、カポネにとって目の上の瘤だった。そのアントニオを殺したカポネは、復讐を恐れ、今、その家族をも抹殺しようとしているのである。

 ビトがスペイン坂の下に着いたとき、後ろから、母の悲鳴が聞こえた。

「ビト、逃げて!」

 続いて、カポネの甲高かんだかい声が聞こえる。

「ビト・カルデローネを逃がすな。渋谷から出る道を封鎖しろ」

 子猫を殺せと命ずるカポネの声に、反発を覚えるニャフィアも多かった。

 それでも、カポネの命令を忠実に実行する猫がいる。

 カポネ自慢の殺し屋、カッショ・フェロだ。

 ビルとビルの狭間はざまに隠れるビトの目の前を、フェロの巨体が通り過ぎていく。

 潰れた片目。

 波打つ太鼓腹たいこばら

 よごれた牙。

 その爪からは、まだ新しい血がしたたっていた。

 ビトの父と母の血だ。

「子猫ちゃん、出ておいで。首をもいで、うちに飾ってあげるよ」

 フェロが、身の毛もよだつような声で言う。

 恐怖と怒りに耐えながら、ビトは待った。

 やがて日が落ちると、ビトは走った。

 ニャフィアたちの目が、渋谷から出る猫に向いている中で、彼は渋谷の中心である駅に向かった。

 人の波に隠れながら、彼は渋谷駅の中心へと向かう。

 そこに、猫たちの死角があった。

 JR山手線。

 子猫が、何食わぬ顔で改札を通り過ぎ、電車に乗る。

 渋谷中のどの猫にも見つからずに、渋谷を脱出する、ただ一つの方法だった。

 電車に揺られながら、ビトは決意する。

 いつか、ここに帰ってこよう。

 父の仇を討てるだけの力をつけて。


 ……。

 ビトが山手線に乗っていたのは、わずか2分程度の短い時間だった。

 隣の駅で電車を降りると、ビトは街に出た。

 恵比寿えびす

 渋谷の南に位置する街だ。

 飲まず食わずで日没を待ったビトは、空いた腹を抱えて、餌場を探す。

 しかし、いくら歩けど餌場は見つからない。

 見知らぬ土地の洗礼が、早くもビトを打ちのめした。

 極度の緊張と、恐怖による疲労と、空腹とが相まって、ビトはその場に倒れ込み、気を失った。


 ――……。

 ビトが目を覚ますと、そこは暗い路地裏だった。

 一匹の猫が、彼を見ている。

 ビトと同じくらいの、子猫だ。

「よお、起きたか。腹が減ってんだろ? 食えよ」

 そう言って、猫が小さな皿を差し出す。

 半ば乾いてしまったレバー・パテだ。

 ビトは、むさぼるようにそれを食った。

「おれはルカ。この辺りで野良猫やってる。お前は?」

 ルカの問いに、ビトは真っ直ぐに目を見て答える。

「ビト。ビト・カルデローネ」

 ビトの瞳は、まるで太陽のように輝いていた。

 ルカは、まぶしいものを見るように、しばらく目を細めて彼を見つめてから、そんな自分に驚いたように首を振って、言った。

「ビトか。親父とおふくろは?」

「死んだ」

 ビトの言葉は短く、ためらいがなかった。

「そうか……おれと一緒だな。それならおれが、ここでの生き方を教えてやるよ」

 そう言って、ルカは笑った。

 のちにカルデローネ・ファミリーと呼ばれる巨大なニャフィア組織をつくりあげる二匹も、今はまだ、小さな子猫でしかなかった。

 空には満天の星が、彼らの出会いを祝福するかのように輝いていた。

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