第8話 恋は育むものでなく、奪うもの
茶トラのかず夫は、その日、腹が減っていた。
野良猫狩りへの警戒から、ここのところ、餌場でも安心してメシが食えていないのだ。
どこかに食いかけの弁当でも落ちていないものかと、人の少ない裏通りを歩いていると、なんだかうまそうな匂いがする。
見ると、草むらの中に、から揚げが落ちていた。
草むらにから揚げ?
いや、ここは渋谷だ。
酔っ払いがから揚げの一つくらい落としていても、不思議はない。
かず夫はそう自分を納得させて、から揚げを咥えた。
瞬間、がしゃん、と、かず夫の尻のほうで音がする。
しまった、と思う間もなく、かず夫は捕獲用のケージごと持ち上げられた。
「おっし、一匹ゲット」
ケージを持つ少年が、仲間らしき少年に向かって言う。
「一匹2,000円とか、マジおいしすぎるでしょ、このバイト」
デデーン(効果音)
山盛組 組員
かず夫 保健所移送
青山の飼い猫マロンの死から10日。
渋谷では、20匹以上のの猫が、続々と野良猫狩りの餌食となり、保健所へと送られていった。その大半が、山盛組の構成員である。
「問題は、組員の統率が弱くなっちょることじゃ」
山盛よしおのしわがれた声が響いた。
虚無助とおき太が、彼の話を黙ったまま聞いている。
「ただの野良猫狩りなら、このまま黙って隠れておれば、そのうち収まる。しかし今回のは、明らかに誰かが狙ろうて仕掛けちょる。恐らく、組が弱体化したところを狙って、攻め込んでくる腹じゃろう」
「宇田川組ですか?」
虚無助の問いに、山盛よしおが首を傾げる。
「宇田川が単独でやっちょるならええが、わしには、他に手ェ貸しとる者がおるように思える。まず、青山のアメショーじゃ」
青山方面は、目立った有力なニャクザがいない代わりに、飼い猫たちの結束が強い。
その中で、特に大きな勢力をもつのが、アメリカン・ショートヘアたちのグループだ。
彼らは「アメショー」と呼ばれ、その飼い主の豊富な資金力を背景に、ニャクザに対しても影響力を発揮するのだ。
「アメショーは、マタタビを使ってニャクザを操る。だが、渋谷じゃカポネが死んで以来、マタタビの流通にゃ制限をかけてきた。アメショーにとっちゃ、わしらァ目の上のコブじゃ。奴らが宇田川のケツ掻いて、山盛に
虚無助が、山盛の言葉に同意して言う。
「アメショーに探りィ入れますか」
「おう。おき太を呼んだのは、それじゃ」
山盛はそう言いながら、おき太の耳元に口を寄せる。
「こんなは、まだ顔が知れとらん。青山に潜り込んで、アメショーの腹ァ探ってこいや」
虚無助が、加えて言う。
「アメショーの頭は、アビゲイルって雌猫だ。アビゲイルに宇田川組の連中が接触しているかを探れ」
おき太がうなずくと、山盛は虚無助に向かって言った。
「きょむ、こんなは宇田川がどこと手ェ組んどるか探れや。野良狩りの最中に仕掛けるつもりなら、必ず他と手ェ組んどる」
虚無助もうなずき、おき太と並んで外に出た。
「……おき太、アビゲイルは食えねえ猫だ。気をつけろ」
虚無助が、別れ際にそう言った。
おき太は、青山に向かう。
クロに会うためだ。
「また来たの」
クロは、おき太にだいぶ心を許しているように見えた。それでも、次のおき太の一言で、表情が変わった。
「アビゲイルに会いたい」
クロは首を振って言う。
「……ダメ。アビーは雌以外に会わないの」
「それなら、姉貴が会う」
ためらうクロの肩を抱いて、おき太が言う。
「渋谷が狙われてるんだ。戦争になる前に、止めたい」
おき太は、クロの肩が震えているのに気づいた。
「……夜、青山霊園の、乃木坂側入り口に来て。アビーには、お姉さんが一匹で会うことになる」
「ありがとう」
……。
その夜、おき太はシロと連れ立って、乃木坂に向かった。
それでも、青山霊園の夜は暗く、深い。
どれだけの猫が、ここに潜んでいるのか。
どんな取引が行われているのか。
ここには、ニャクザも手が出せない。
あらゆる勢力が入り乱れる場所なのだ。
「……ここからは、あなた一匹で来て」
霊園の入り口で待っていたクロが言う。
シロは黙ってうなずき、おき太と別れた。
やがて、霊園の中央にまで進むと、そこには一匹の妖艶な雌猫と、二匹の屈強な雄猫がいた。
「今晩は。私がアメショーのアビゲイル。あなたが渋谷のシロね。噂は聞いてるわ」
アビゲイルが、シロの手を取ってキスをする。
「私のことを知っているの?」
シロが聞くと、アビゲイルは笑う。
「美しい猫で、私の知らない猫はおりませんわ」
そして、シロの頬に唇が触れるほど、顔を近づけて言う。
「あなた、とても美しいわ。私の恋人になりません?」
シロは動かず、話題を逸らす。
「今日は、宇田川組とのことについて、聞きにきたんです」
アビゲイルが再び笑う。
「宇田川組、山盛組。くだらないこと。早晩、どちらの組も消えてなくなりますわ。その理由、あなたがもし、どうしても知りたければ、私のものになりなさい」
「内容をお聞きしてからでなくては、お答えできません」
シロの答えに、アビゲイルはまた笑う。
「わかっていますわ。あなたは、そう易々と自分を売ったりしない猫。でも私、こう見えて、愛されるより愛することのほうが好きなの」
そう言って、アビゲイルは後ろの雄猫に合図を送る。
雄猫たちが、指を鳴らしながら、近づいてくる。
「だから、恋は育むものでなく、奪うものと心得ておりますの」
雄猫二匹が、シロに迫る。
「アビー、やめて! 約束が違う!」
クロが叫ぶ。アビゲイルは笑う。
「どうせ、渋谷にいたら、六本木のならず者どもに犯されてしまいますわ。それなら、私に飼われたほうが、幸せというもの」
雄猫たちがシロに手を伸ばした瞬間、影が走った。
雄猫たちの腕から、鮮血がほとばしる。
おき太が、シロと雄猫たちの間に立っていた。
「……何をやっていますの! そんな小さな猫、さっさと片づけてしまいなさい!」
アビゲイルの声に、雄猫たちは異様な興奮を見せ、おき太に飛びかかる。
電光一閃。
二匹の雄猫たちは、何をされたかすらわからぬまま、おき太の前に崩れ落ちた。
「……逃げられた」
おき太がつぶやく。
いつの間にか、アビゲイルは消えていた。
「おき太……」
クロが、悲痛な面持ちで言う。
「お願い、逃げて。シロと一緒に。もう、渋谷は終わりなの」
「どうして?」
おき太が聞くと、クロは涙を零しながら言った。
「六本木の
その言葉が終わるのを待たず、おき太は駆け出していた。
月が、雲に隠れた。
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