第26話:花に咲いた世界




 いない。いない。いない。

 腕の中に、いない。胸の中に、いない。

 いない。いない。いない。

 瞼を閉じていた。口を閉じていた。

 探しても、探しても、探しても。

 どこにも、どこにもいない、ルナートが。


「ルナ……、と?」


 答えはない。

 涙はついに枯れ、流れるものは何もない。


「返事してよ、ルナート」


 答えはない。

 声はついに枯れ、湧き出るものは何もない。


「ルナート、返事してよ。ルナート。私、嫌よ。あなたがいなくなるなんて。あなたがいなくなった世界で生きるなんて」


 すると、何かの糸が切れたかのような、頭の奥の奥にある小さな固い意志がポキッと割れてしまうような、そんな感覚にとらわれた時、薄氷を踏んでいるかのような無力感、何日も食事をしていないような飢餓感に不意に襲われた。

 あ……、れ?

 自分が自分じゃないような、さっきまでの記憶が全部吹き飛んだような。そんな感覚に襲われる。

 でも、そんなことどうだっていい。今、私のすぐ側にルナートがいるんだから凍てついた心なんてすぐに溶かしてくれる。

 今、私の腕の中にいる愛しいルナートが……。

 冷たい。どうしてかしら。

 どんどん、どんどん、どんどん、どんどん。私の中で冷たくなっていくの。

 さっきまで暖かかったのに?あの暖かみは何だったのだろう。

 あれ、おかしいな。こんなに、ルナートは無表情だったっけ。


「ね、え。ルナート?」


 返事をしないはずなんてないじゃない。

 ルナートよ? あの、ルナート。

 絶対に私たちを裏切ったり、嘘をついたりしない。無視なんて以ての外よ。


「気分でも、悪い?」


 目を閉じたままの。肌の白い。真っ白な。ルナート。


「どうして答えてくれないの?ねえ」


 こんなに、白かったかな。ルナートの唇は、こんなにも色がなかったかな。


「白いの、白い。私、この白、好き」


 何を言っているんだろうか。

 すると、消え掛かっていた記憶の中に、一欠片だけ、何かが入り込む。これは……。


「ファーミア……、の、白い、花」


 ずっと、ずっと前にルナートにもらったものだ。お祝いだって、これからもよろしくってくれた花。私と同じ名前だからって、くれたファーミアの白い花。ずっと育て続けてきた花が咲いてた……。こんな壊れた世界に、強く凛と咲いてたの。革命を誓ったときから私たちと育ち生き続けた変革の花。

 種からずっと、私は育ててきた。毎日、毎日欠かさず。……いつか、ルナートに『大きくなったね、綺麗になったね』って言ってもらいたかったから。

 ファーミアの花。何かが、流れてこんでくる。

 最初は、種だった。私たちの関係も曖昧だった。だって、どう接していいのか分かんないんだもん。ルナートは私を他の人たちと同じように接してくれたけど、何だか私じゃない、別の誰かに接しているようだった。

 次は、芽が出た。ルナートの関係なんて、変わらなかった。<零暗の衣>のみんなはずっと前から一緒なんだって知った。私が途中から入り込めるような所なんかじゃなかった。みんな、普通のように接してくれたけど。居心地は……、悪かった。

 茎と葉が成長した。私は、人間に成長したような気がした。奴隷から……、家畜から人間になれた。居心地は良かったんだと思う、周りのみんなも良い人ばっかりだった。ルナートへの胸の高鳴りも止むことはなかった。

 蕾が膨らんだ。胸が張り裂けそうだった。言いたいって、ずっと思ってた。誰にも相談できなかった、脳がいっつも焼かれるようで、苦しかった。ルナートを見るだけで、側にいるだけで痛かった、辛かった。

 花が、咲いた。ルビンちゃんのおかげで、全部伝えられた。全部、伝えた。キスだってした、私がルナートの物になった喜びが全身を駆け巡った。幸せだった……。

 ファーミアの花は、綺麗に育った。とても、とても綺麗に。



「ねぇ、ルナート。ルナートは、見てくれた?ファーミアの白い花。私、頑張って育てたの……」


 ルナートは答えてくれない。


「綺麗に、なったでしょ? 大きく、なったでしょ? 私、まだルナートに聞かせてもらってないよ」


 ルナートは答えてくれない。


「ねぇ」


 ルナート。


「ねぇ……」


 ルナート……。


「ねぇ、ねぇ……っ! どうして? どうして答えてくれないの?! 前までのルナートなら、答えてくれてたじゃない。ねぇ、ねぇってば」


 答えない、ルナートは、答えない。

 分かってる、分かってる、分かってる!!

 そうじゃない! 分かってる……。


――死


 違う。


――ルナートは、もう


 違う!


――死っ


「違う! ねぇ、ルナート、私を見て。ちゃんと、私に答えて。何で……、なんでよ」


 涙は流れなかった。流れていくのは、私の中で温め続けた仄かな恋心。そして、長い、恋慕の記憶。


「何で、私を置いて死んじゃうのよ……! 一緒にいるっていったじゃない。ルナートは何にもわかってない! 拠り所って、言ってくれたのに。ずっとルナートは私の心の拠り所で、私はルナートの心の拠り所だったのに」


 胸が、苦しい。


「私ずっと一緒にいられるんだって思ったら本当に嬉しかったのよ? 結婚しようって言われて、私、生きてることの意味、ようやく見つけたのよ? なのに、なのに――っ!!」


 辛い。


「私を置いていくなら、先に行っちゃうならそんなこと言わないでよ! 私の嬉しいっていう気持ちを裏切らないでよ。戻ってきて、お願い! お願い、私を――」


 ルナートは――


「……一人に、しないでよ。るナぁ、ト……ぉ、おおお!!」


――答えて、くれない


 裏切られた。私の気持ち。そんなことなら、一緒に行きたかった。

 

 ルナートのいない世界なんて、どうだっていいよ。ルナート以外の人なんて、どうなったていい。

 だから、お願い。ルナートだけでも、私の所に戻ってきて。

 貴方といれて、貴方に救われて本当にいい人生を送れたって思ってる。感謝も一杯した。直接は出来なかったけど、一杯。

 それに、いっぱい、いっぱい笑った。楽しかった。

光景が蘇る。私はもう、ここにいないみたいに。

 ルナートの声が、温もりが脳に蘇る。


 ”もう会えない”


 その言葉が身体中に響き渡った時、私の鼓動が静かに止まった。


 おかしいよ。だって、だって私……。

 頑張ってきたのに、私、ずっと、ずっとーー願ってたのに

 やっと……、やっと言えたのに!

 やっと分かり合えたのに!!

 やっと温もりを感じられたのに!!

 やっとルナートの心の拠り所になれたのにっ!!

 唇を重ね幸せを掴んで……、ようやく……、ようやくこれから私の人生がもう一度始まるところだったのにっ!!

 幸せになれるって思ったのにッッッ!!


『どうしてなの?! どうして私の世界は壊されなきゃ行けないの?! 奪われなきゃいけないの?!

……私。何も……、何も悪いことしてないじゃないっ! どうして……、どうしてこうなるのッッッ!?』


 理不尽は廃風に流れ、復讐心は心底しんていから噴き上げる。

 あぁ……、こんなにも恋い焦がれた恋慕の日々が非道ひどく懐かしくなるなんて。

 私の……、私の幸せは終わったんだ。後は……、ルナートに会いにいくだけ。


 そう思うと、不意に胸が軽くなる。


 そうよ、ルナートが先に行ったのなら、私から会いに行けばいい。

 ルナートが私を裏切って先に行ってしまったのなら私から会いに行けばいい。


 そして、目一杯怒ってやるんだ。

 一回もルナートに怒ったことなんてないんだから、初めて、ルナートに言ってやるんだ。


『寂しかったんだから』って。『次は絶対、先に行かせたりなんてしないからね』って。


 どうして、こんな簡単なことに気づかなかったんだろう。告白することだって何だって、自分から行かなきゃ行けないじゃない。


 自分を、殺せば……、ルナートのところに行ける。

 葛藤も抵抗も背徳も、何もない。

 だって私が死んで悲しんでくれるのなんてルナートしかいないから。みんな、私の死じゃなくて、ルナートの死にしか悲しまないから。


『まってて、ルナート。私、直ぐにそっちに行くね』


 その、前に――


――唇に触れた、冷たい冷たいルナートの唇に


 最期にルナートと一つになれる方法なんて、これしかないから。

 今、あなたの瞳に映るのは私だけでしょう?

 今から、二人だけの世界に行こう。これから伝えるはずだった言葉を、もう伝えられない思いを、全てルナートの瞳に零すように深く唇を押し込む。

 死ぬことなんて躊躇わない。そうだ……、このままずっとルナートに口付けをしていたら、死ねるんじゃないかな。

 なら、ルナート。私の息を奪って、死なせて。


 すると、何かが私の中に浮かび上がってくる。これは何かなんて、聞かなくたって分かる。これは、私が私を殺せるモノ。

 きっと、最後の最後に神様がくれたんだ。私の願いは聞き遂げられたんだ。

 そして、その技を心の中で口にする。

 どうしてこんな技を使えるのか、いつの間に覚えたかなんて分からない。

 けど誰か……、私の中の誰かが。一緒に、そっと呟いてきたような気がした。


///『貴女の望むもの、私なら与えられるわ』///


 誰――?


///『使いなさい、この技を。そうすれば、貴女の望む場所へと誘ってくれるはずよ』///


 懐かしささえ感じるその言葉に、私は迷うことなく口にした。


『ルーンスキルXX……、リ・セクレイム・ルナティアン』


 すると、心が魂が二度と交わることのない身体から離れていくのを感じる。

 目を閉じる――

 目を開く――


 私は、白い世界にいた

 何もない、白い世界に。


 ついに、行けたのだろうか。ルナートの所に。

 身体の感覚が、何もない。意識だけが飛ばされたのだろうか。

 だけど、ルナートの所へ行けるのなら、どうたっていい。


『どこにいるのかな? ルナート……』


 辺りを見回すも、白い光だけしかない。

 寂しさが胸を焦がす。どこ――?


 すると、光の粒が何かを模していく。

 人の……。いや、私の中で思い描いていた、ルナートの輪郭。


『良かった……、会えた。ルナートに……』


 さっきまで私の中にあった怒りなんて全て消えていた。

 伝えたかった言葉を紡ぐように、私の口は自然と開いていた。


『ルナート……。私が、見える?』

『ぁ……、あ。その姿……、その声は、ミアなのか』


 声だ。間違いない。

 ルナートの、声。

 貴女の顔は見えないけれど、感じる。貴女の温度が。


『どうして、俺はこんな所に……』

『きっと、死んだのよ。私は、貴女に逢いに来たのよ?』

『そ……っか。何だか、ミアがいると全部どうでもよくなったよ』


 光は徐々に形成していた輪郭を崩していく、光を失っていく。


『ルナート。次はちゃんと、結婚しようね?』

『あぁ、絶対に』


 ルナートに近づこうとしても、縮まらない。

 走っても走っても、近づかない。


 もう、本当に消えてしまいそうだ。だからこそちゃんと、最期に聞いておかないと。


『ねぇ、ルナート。ルナートは見た? あの白い、花』


 ずっと、聞きたかった事をルナートに伝える。


『見たよ。本当に、綺麗に咲いていた。……よく、育てたな』

『うん……っ』


 嬉しい。充足感が弾けるように胸の中で踊る。

 もうすぐ、おわっちゃう。ルナートとのここでの時間が。


『ルナート、いつか私に言ってくれたよね。小さな存在でも生きてる輝いてる……って。きっとあの花もそんな存在なんだよね』

『ミアはもう俺にとってはかけがえのないほど、大きな存在だし眩しいほどに輝いてる』

『ありがと……。ぁ〜あ……。私、もっとルナートと色んなことしたかったな。家族を持ってずっと一緒に、幸せに暮らしたかった。それに、また一緒に夜空も見上げたかった……』


 でも、良かった……。ルナートに、好きって伝えられて。

 私……、昨日の夜が、人生で一番頑張ったんじゃないかな?

 ルナートに名付けられたミアという名前に恥じないようにちっぽけな存在じゃないってことみんなに気づかせてあげられたかな?


……悔いはなかった。


 すると――


――うっすらと……。意識が、視界が消えていく




――ルナートもそれに気づいたのか、そっと私に手を差し出した。あの日の、ように




――私も……、手を伸ばす




――ルナートと離れ離れになるのは、寂しい。でも、今はもう辛くない。だって、絶対に……。また、出会えるから




――光が輪郭を失っていく、輝きを失っていく




――そういえば……、まだ……、言えてなかった




――光に溶け込もうとするのを必死に踏み止め残りの力を全て振り絞って最後の言葉を……、紡ぐ




――「ル……、ナァ……、ト。ぁなたに……、会……、て……、良……っ、た……




――…………愛……、して、る……、よ」




――そして私はゆっくりと。白く膨大な光の世界へ……、歩み出した



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る