強くなる方法


 つぎの日の放課後、あたしはりなの家をたずねた。学校ではじっくり話せないし、電話やメールだと、うまく伝わらない気がして。

 リビングではりなの弟がゲームをしている。

「ごめんね散らかってて。ソファに座ってて」

 と言いながらりなは、とりこんだばかりの洗濯物をあわててカゴに入れた。

「麦茶でいい? っていうか、それしかないんだけど」

「いいよ、お構いなく。急に来ちゃってごめんね。あのね……」

 りなはローテーブルにグラスを置いて、あたしのとなりに座った。ふんわり、花のような、お菓子のような、いいにおい。

「あたし、志信と別れた」

「えっ……」

「別れたっていうか、もともと、彼氏彼女っぽくなかったし。ただの幼なじみに戻ったほうが気楽だなって思って」

 りながあたしから目をそらした。あたしは続ける。

「だからりなは、自分の気持ちに正直になってね」

「千紗ちゃん」りなが目を潤ませている。そのまま、顔をくしゃくしゃにして、泣きだした。「ごめんね、千紗ちゃん。あたし。あたし……」

 しゃくりあげるりなを、そっと抱きしめる。好きなんだよね、りなも。志信のこと。

 ふたりを邪魔してたのはあたしのほう。もう、ふっきれた。


 学校で、あたしはめちゃくちゃ明るくふるまった。本音を隠すのにはすっかり慣れていたし、うまくやれていると思う。みゆとしおりんは、そんなあたしを見て、はああーっ、とため息をついた。

「ねー。知ってるよー。どうして別れたのー?」

 と、しおりん。情報、はやっ。さては、また日下くんかな。

「うーん。やっぱり志信みたいなガキより、笹っちのほうがいいなーって。笹っちラブ!」

「ばーか」みゆが、あたしのおでこを、ぺちっとたたいた。「カラ元気がいたいたしーわ。あたし、知ってるんだから」

 どきんとする。あたしにりなと志信のことを教えたのは、みゆだ。

「友達の彼氏とるなんて、サイテー」

 吐き捨てるように言った。耳の奥で警報音が鳴り始める。やばい、この流れ。

「何それ。どういうこと?」

「しおりんもそのうち気づくよ。あー、可哀想な千紗。よしよーし」

 あたしの頭を撫でるみゆ。いやな予感がする。

 そして、その予感は当たった。

 みゆが、りなを避け始めた。移動教室のときはいつも、廊下で四人集まってから行くのに、りなのことは待たない。声もかけない。休み時間、特に用事がないときは、誰かの席に集まってだらだらおしゃべりするのが常なのに、りなが来たら口をつぐむ。しおりんも、みゆに聞いたのか、志信をめぐるごたごたを知って無茶苦茶怒っていた。

 昼休み、委員会の仕事から戻ってきたりなが、あたしの席に駆け寄ろうとした。それに気づいてりなに手を振ろうとすると、

「いこ、千紗」

 みゆに手を引かれた。そのままトイレに連行される。しおりんもついて来る。すっごい、あからさま。りなの笑顔が、行き場を失って固まっている。あたしに向けられていた笑顔。

「ていうかさー、千紗、お人よしすぎない?」

 手洗い場の鏡に向かって前髪を整えながら、しおりんが言う。みゆがうなずいた。

「だよねー。あたしだったら顔も見たくないよ。つーか、いつからりなって片瀬くんのこと狙ってたのかなー?」

「さあね。純真無垢ですってカオしてにこにこしといてさー。やってることは泥棒じゃん?」

 あたしは蛇口をひねって水を出した。ばしゃばしゃと顔を洗う。聞きたくない。うなずきたくない。いつから狙ってたの、って。あたしが巻き戻す前からだよ。絶対に誰も使えない、誰にも気づかれない、ありえない手をつかって、りなから志信を奪おうとしたのはあたしなんだ。りなと志信がつき合ってるのが、本来の姿なんだ。あたしがそれを無理やり捻じ曲げようとしたばっかりに、りながハブられて、こんな風に言われてる。ぜんぶ、あたしのせい。

 そのうちだんだん、りながひとりでいる姿が、クラスの中でも目立ちはじめた。女子たちは、りなを見てひそひそ話してる。男子たちは見て見ぬふり。志信は……、教室でりなに優しくしたら事態が悪化するってわかってるのか、何も目立ったアクションは起こさない。電話とかで、はげましているのかもしれない。

 みゆたちは、休み時間のたびに、トイレに連れだってりなの悪口を言う。ふたりが盛り上がってる間、あたしはひたすら髪をいじったり、単語帳を見たりして、話に加わらないようにしてる。

「つーか千紗はどうなんよ」しおりんが、ついにあたしに話を振ってきた。「いちばんの被害者は、あんたじゃん?」

 その言い分が通るなら、みゆとしおりんは部外者ってことだよね。だったら放っておいてほしいんだけど。って、もちろんそんな本音は言えるわけもない。

「いいんだ、あたしは。もともと志信はあたしのこと、友達以上には見てなかったんだよ。それだけのことだよ」

 へらへらと笑いながら、つとめて明るく言い放つ。あたしがいいって言ってるんだから、もうこれで終わりにしてほしい。でも、いったん開けられた不満のふたはそう簡単には閉じない。

「ていうかさ、そもそもあたし、りなってちょっと苦手っていうか……いい子すぎて鼻につくって感じ、しない?」

 みゆが言った。そうそう、としおりんがそれに同意する。

「それ、わかるー。いい子ぶりっ子っていうの? 学級委員長的な。こういう毒舌トークとか、絶対ノッてこないじゃん?」

 みゆが手を叩いて笑う。毒舌トークって……。毒舌と悪口は、ちがうよね?

 そりゃあ正直、ふたりの言い分、わからないわけじゃない。りなは色白小柄で可憐で、性格もよくって、あたしの欲しいもの全部持ってる。家のことが大変なのに愚痴ひとつ言わない。時々、りなに比べてあたしはなんてダメな子なんだろう、って思う。でも。それ以上に、あたしはりなのことが好き。昔はちがった。見た目の印象だけで、勝手にうらやんでひがんでた。

「千紗もそう思うでしょ?」

 みゆとしおりんがあたしを見た。同意を求めてる四つの目。きっと、「だよねー」とか「あたしもー」とか言うのがベストアンサー。そうしないと、あたしまで「いい子ぶりっ子」って言われる。ハブられる。

 脳裏に、これまでのことがフラッシュ・バックした。ゆっちとまっちーに悪口言われた時のこと。下駄箱に入れられた手紙。乱暴に書きなぐられた、「うざい」「ブス」の文字。あんな思い、もう二度としたくないよ。つらくて、痛くて……。

「最低だね」

 吐き捨てるようなセリフが飛んでくる。鏡に、あたしたちの背後、美凪の姿が映っている。射抜くような目であたしたちをにらんでる。

 みゆとしおりんは、さっと振り返った。

「何が?」「江藤さん、盗み聞きしてたの?」

「き、聞きたくなくても、ムダに声大きいから聞こえてくるんですけど」

 美凪の、低い、感情をおさえたような声。かすかに震えてる。

「言いたいことあるなら本人に言えばいいのに。わ、わざとらしく無視して、こんなところで陰口なんて。陰険だね」

 みゆとしおりんは、ぐっと言葉に詰まった。あたしは美凪のほうを振り返ることができない。鏡を見つめたまま。足のうら、つま先のほうから、すうっと冷えていく感覚。

 美凪が去ったあと、みゆたちは、今度は美凪の悪口で盛り上がりはじめた。

「何なのあれ」

「正義の味方のつもり?」

「ダサくて根暗で、いるかいないのかわかんないくせに」

「あたしたちの問題に口出しすんなっての」

 あたしたちの問題? 違うでしょ? ただ単に、りなに悪意をぶつけたいだけでしょ?

「ごめん」あたしは顔をあげた。「先生に呼ばれてたの、忘れてた。行かなきゃ」

 トイレを飛び出して、美凪を追いかける。時を巻き戻す前。あたしへの嫌がらせの手紙を、泣きながらびりびりに裂いてくれたのは美凪だった。名波さんは悪くないって言ってくれた。こんなことするやつのほうが悪いに決まってるんだ、って。

「江藤さんっ」

 廊下を歩いている美凪の後ろ姿に向かって叫ぶ。美凪はゆっくりと振り返る。

「なに……?」

「あの。……あの。教えてほしいの」

「何を?」

「強くなる、方法」

 どうしたら美凪みたいになれるのか。許せないことを、許せないって、はっきり言えるのか。嫌なことを、ちゃんと、嫌だって言えるのか。

 美凪は、くちびるの端っこを、少しだけ持ち上げた。笑っているように見える。

「そんなこと、自分で考えたら?」

 見事に突き放される。あたしは、次の授業のチャイムがなるまで、その場に立ちすくんでいた。


 みゆとしおりんの悪口のターゲットは、りなから美凪へとうつった。伝染するように、クラスのみんなも、美凪を意識し出す。梅雨は明けて、空はもうすっきりと青いのに。我がクラスは、あたしが今まで経験したなかで、最悪の雰囲気だった。りなは相変わらずひとりだし、美凪はあちこちのグループで悪口を言われてる。今までもひとりだったけど、こんなにあからさまに攻撃されることはなかった。保たれていた均衡が、くずれたんだ。

 そんなとき、事件は起こった。

 数学の授業中。先生が突然、顔色を変えて美凪の席へつかつかと歩み寄ったんだ。

「江藤。授業中に、何を書いてるんだ」

 ノートをとりあげる。みんなの視線が集まる。美凪のノートがめくれて、中に描かれたイラストがちらりと見えた。

 ざわっ……と、教室が揺れた気がした。

 次の日。学校に来ると、美凪の机がない。それに気づいたとき、さあっと、全身の血の気がひいた。登校してきた美凪がそれに気づく。くすくすと笑う声がきこえる。くすくす、くすくす……。頭の中で重なり合ってひびく。

 美凪はくちびるを噛みしめて耐えている。これみよがしにあざ笑うひと、遠巻きにひそひそ言い合うひと、目をそらすひと。りなは泣きそうな顔をして見ていた。志信は何か言言いたそうにして、でも、何も言わない。日下くんの顔からも、いつものへらへら笑いが消えている。みゆとしおりんの顔は見れない。こわくて。彼女たちじゃないって信じたい。でも、こわい。

 あたしはずっとうつむいていた。やがて、美凪は教室から出て行った。ホームルームがはじまって先生が来る前に、男子の数人が、どこからか机を運んできて戻した。何事もなかったかのように。

 意気地なし。あたしの、意気地なし。

 美凪はあたしのために泣いてくれたのに。りなのために怒ってくれたのに。

 こんな時、美凪のために何も言えないなんて。友達なのに。

 ……友達。

 そうだ。友達。時間を操るリモコンを手に入れてから。時間を巻き戻してキャラを変えてからずっと、あたしは仮面をかぶっていた。演技していた。本当の自分なんてどこかに行ってしまった。そんなあたしがいちばん素になれたのは、誰といたとき?

 目を閉じると、まぶたの裏に、夏の夕暮れの海がひろがる。ぬるい潮風。めくれるスケッチブック。

 美凪。

 あたしの、友達。

 やっと気づいた。あたし、なんて馬鹿だったんだろう。


 つぎの日の朝。美凪の机はちゃんとあった。だけど、……だけど。

 黒板に、大きく「キモイ」「うざい」という文字。美凪の描いた漫画ノートがマグネットで止められている。それは、めためたに黒く塗りつぶされていた。

 ひどい。……ひどい。どうして、こんなひどいこと?

 美凪が教室に入ってくる。黒板に気づく。顔色が変わる。すぐにノートをはがす。

 美凪が大事に描きためた四コマ漫画。いつもあたしに見せてくれた。あたし、たくさん笑った。美凪と一緒に、たくさん……笑ったんだ。

 男子のひとりが、背面黒板のチョーク入れを持ってきて、中身を美凪にぶちまけた。白い煙があがる。粉をかぶった美凪が苦しそうにむせている。笑い声が起こる。

 笑ってない人もいる。だけど何もしない。できない。美凪をかばったら……、自分が、やられるから。

 動かなきゃ。あたしが、動かなきゃ。でも、金縛りにあったように、からだが動かない。

――名波さんは悪くない。いつかの、美凪の声が耳の奥でひびいた。

――こんなことするやつのほうが、悪いに決まってる。

 そうだ。こんなことするやつのほうが悪い。そして、あたしも同じだ。

 あたしも、あのひとたちのことを言えない。同じことをしたんだ。時間を巻き戻して、美凪をひとりにした。友達だったのに。

 もう、あの銀色のリモコンはない。あたしが美凪のかわりにいじめられるようになっても、もう時は巻き戻せない。だけど。……だけど。

 がたん、と音をたてて立ち上がる。それは思いがけず大きな音で、クラスのみんなの視線が、一斉にあたしに刺さった。瞬間、ひるみそうになる。だけど。

「もう、やめて」

 悲鳴のような声だった。自分の、声。

「やめようよ、こんなこと」

 みんながあたしを見ている。にらみつけてる人もいる。

「ねえ。誰かと違う趣味をもっていたり、ちょっと地味で人とかかわるのが下手だったり。友達に秘密持ったり。みんなが盛り上がってる話題にノれなかったり。そういうのって、そんなに、悪いこと?」

 誰も何も答えない。教室は、しん、と静まり返っている。

 ずんずんと、黒板に向かって歩いていった。黒板消しを手に取る。大きく書かれた悪口を、美凪への理不尽な暴力を、この手で、消していく。

 美凪は、呆然と、そんなあたしを見ている。

 かたん、と背後で音がした。

「ちっとも悪いことじゃない」

 かぼそいけれど、芯の通った声。振り返る。りなだ。りなが立ち上がっている。

 目があった。りな。ごめんね。思いをこめて見つめる。りなは、うなずいた。

 そして。志信が立ち上がった。あたしのとなりに来て、落書きを消すのを手伝ってくれる。次いで、日下くんも。

「みんな。もっとさ、楽しいことやろうぜ。俺、こんなん、やだよっ」

 いつもの調子で、明るく、言った。


 放課後。美凪とりなと三人で、海を見に来た。神社と灯台のある小山のぐるり。あじさいは、もう枯れていた。

 堤防に腰かけて、アイスを食べる。

 七月の太陽はぎらぎらと熱い。潮は引いている。どこまでも遠く、干潟が広がっている。その中に引かれた細道を、貝や海苔をはこぶトラックが行き来している。

 誰もなにも言わない。みずいろのソーダバーが溶けていく。沈黙が、なぜか心地いい。

 これからあたしたち、どうなるかわからない。みゆやしおりんと、どう接していけばいいのかも。だけど、ひとりじゃない。

 日が傾きはじめる前にりなが帰った。夕食の準備があるから、と言って笑った。

「江藤さん。また、漫画、描くの?」

 聞いてみた。美凪はまっすぐに、海の中の道の果てを見つめている。

「……描くよ」

「そう言うと思った」

 いつか見せてねと言うと、美凪はこくんとうなずいた。にこりともせず、お得意のポーカーフェイスで。そして、指切りをした。自分を変えても、過去を変えても、引き合ってしまうあたしたち。今度こそ、ずっと、大切にするよ。

 夕陽が落ちる。美凪は堤防から降りた。

「わたしは帰る。名波さんは?」

「名波、でいいよ」あたしも、ひらりと堤防から飛び降りた。「あたしは……もう少し、いようかな」

 ばいばい、と手を振った美凪を呼び止める。なに? と首をかしげる彼女を見ていたら、なんだか胸がいっぱいになって。

「……ごめんね」と、絞り出すように、告げた。ごめんね、美凪。ひどいこと、したよね。あたし。美凪はかしげた首を元に戻して、「へんな名波」と言った。そして、笑った。「ばいばい」

 ばいばい、また明日。

 過去から未来へ。昨日から今日へ。今日から明日へ。

 だけど忘れない。傷ついたことも、傷つけたことも、忘れないよ。もう二度と、大切なものを見失わないように。

 夏だ。日が沈んでも、まだ空は明るい。鳥居をくぐる。石段をのぼる。灯台のそばに埋めたタイムカプセルを掘り起こした日。あの日のあたしは、はじめて味わう恋の痛みに、飲みこまれてしまっていた。

 それから、不思議な黒猫に、銀色のリモコンをもらった。ありえないことが起こった。現在から過去へ。そして、未来へ。くるくると時計の針はまわった。

 神社の森。重なり合う木々がつくる影が濃くなる。石段をのぼるごとに、背中に滲みだしていたはずの汗が、すうっと引いていく。涼しい風が吹いているのだ。どこから吹いているのかはわからない。

 展望台のベンチに腰かけて、あたしはたそがれの海を見下ろしていた。風が額を撫でていく。気持ちいい。あたしはいつしか、うとうととまどろみはじめた。

 そして……。

 まぶしい光がまぶたにつきささって目がさめた。一瞬、灯台の光かと思ったけどちがう。この、無機質な銀色の光。覚えがある。

「ハロー」

 声が降ってきて顔をあげると、目の前の木の、高いところにある枝に、青いワンピース姿の女の子が座っていた。白いニーハイブーツに包まれた両足を、ぶらぶらさせている。そして、肩には黒猫。木の真上、深い群青色した空の上には、銀色の円盤がぷかぷか浮かんでいる。

「スピカ……と、スバル……?」

「覚えていてくれたのね」

 スピカはにっこりとほほ笑んだ。そりゃあ、こんなへんてこな人たちのこと、忘れようとしても忘れられるわけがない。

「どうして、またあたしのところに? あのリモコンは返したはずだけど」

「TCGだね」スバルが答える。「いかにも。TCGは今スピカの手の中にあるよ」

「なら、もうあたしに用はないはずだよね? それとも、また、レポートを書くとか?」

「レポートはA評価をもらったわ」スピカは笑った。「それより、あなたって。せっかく時をあやつれる道具を手に入れたのに、男の子に振り向いてもらうために使うなんて、ちっちゃいわね!」

「何よ。バカにしてるの?」あたしはむくれた。「っていうか、何で知ってるの? ずっと見てたの?」

「まあまあ」スバルがくるんと宙返りして、あたしの横に降り立った。

「見てたのは、最後の巻き戻しのあと、少しだけだよ。僕は止めたんだけどね」

「って、あたしのせい? スバルが、いいネタになるぞってけしかけたんじゃない!」

 けんかをはじめたふたりを、あたしは「もういいよ」と止めた。

「で、結局、何の用なわけ?」

 用があるなら早く終わらせてほしい。今何時なのかわからないけど、やたらあたりが暗いとこを見ると、相当遅いはず。早く帰らないと。

 スピカは、かたちのいいくちびるの両端を持ち上げて、にっと笑った。

「ところで名波千紗さん。結局あなた、望んだ未来は手に入れられたのかしら?」

「ううん」あたしは首を横に振った。

「好きな子には何度も振られるし。友達とはうまくいかなくなるし。ムリして自分を変えても、しんどいし。だけど」

 だけど? とスピカは笑顔のまま、首をかたむけた。あたしは彼女の、エメラルド・グリーンの瞳を、じっと見つめた。ゆっくりと口を開く。

「大事なものが何か、わかったよ」

 一瞬、間があった。それからスピカは、

「なら、もう、大丈夫ね」

 と言って、木の上から、あたしに何かを投げてよこした。たまごくらいの大きさのそれは、すっぽりと手の中におさまった。

「ナイス・キャッチ」

 スバルがひげをぴんと伸ばした。

「これ……、TCG?」

「そう。タイム・コントロール・ゲーム」

 スバルがあたしのひざにぴょこんと飛び乗った。

「ゲ、ゲーム?」

「そう。タイム・コントロール・ゲーム。意味はそのまんまだよ。何のひねりもない」

「ゲームって……。じゃあ、あたしが今まで、時を巻き戻したり早送りしてすごしてた日々は、何? まぼろしを見てただけとか? バーチャルリアリティ―的な?」

 まさかとは思うけど。だってすごくリアルだったし、ほんとうに、いつもと同じ感覚で時間は流れて、一か月、二か月、三か月って……、過ごしたんだよ。それが、ゲーム?

「仮想現実ではない。ただ、時間を操っていたのでもない。異なる並行世界へと意識だけトリップを繰り返していたと解釈してほしい」

 並行世界……。いわゆる、パラレル・ワールド?

「きみの気がすんだのなら、もう、元の世界に帰らないとな。行きっぱなしはよくないぞ」

 スバルが長いしっぽを、まるで指差すように、あたしに突きつける。

 もとの世界。もとの、さえないあたし。クラスでは日陰にいて、好きな男子ともしゃべれない。菜月いわく、「陰キャラ」。

「戻れるのなら、戻ります」

 あたしはスピカを見上げた。ただひとつ心残りなのは、りなとも元どおり、接点がなくなってしまうこと。だけどあたしは、「あるべき姿」に世界を戻さなければいけない。

 スピカはうなずいた。

「真ん中に、赤いボタンがあるでしょ?」

「うん」

 巻き戻しのボタンと早送りのボタンの間にある、謎の赤いボタン。

「それが、リセットボタンよ。押したらおしまい。あっという間にもとの世界に戻るわ。TCGは力を失って、どのボタンを押そうが、うんともすんとも言わなくなる」

「TCGはあげるよ。ただし、だれにも見せないこと。墓場まで持っていく秘密だよ」

 スバルが片目をつぶった。何度見ても妙な感じ、猫のウインクって。

 未来少女とスバルが見つめるなか、あたしはそっと、その赤いボタンを、押した。

 

 ぐるぐると景色がまわる。スピカの円盤がふわん、ふわんって点滅している。だんだん、意識が遠のいていく。空のはて、銀河のはてまで飛んでいきそうな浮遊感。

 さよなら、と、声が聞こえた。

 ――さよなら。

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