美凪と菜月
「ごめんなさいっ!」
耳元で声がひびく。美凪が、真っ赤な顔で、床に散らばったものを拾っている。
強い既視感。これは、さっき頭の中で思い描いていた場面だ。中一のはじめ。五月の半ば、美凪とはじめてしゃべった時。と、いうことは……。
やっちゃった、あたしは思った。これ、ほんとに時空をつかさどるリモコンなんだ。
背すじがひやっとした。ぶるんと身震いする。とっさにその場にしゃがみこむ。
「ううん、こっちこそごめんね。あたし、ボーッとして、前見てなくてさ」
適当に言い訳。さっきの中岡さんのせりふみたい。
美凪のノートをひろいあげる。
「あっ。そ、それは……っ」
あわてる美凪。だけどあたしは、すでに中身を知っている。
「いいじゃん、見せてよ。みな……、じゃなかった、江藤さんの漫画、面白いもん」
「え? 名波さん、なんで、それを……?」
ぱらりとページを繰れば、つぎつぎにあらわれるキュートな女の子たち。
「あー。やっぱうまいわー。どうやったらこんな、漫画家さんみたいな絵が描けるの?」
感嘆の声をあげるあたしを、美凪は、ぽかんと口をあけてみている。
「あー、これこれ。最高だよね、美凪の『腐女子あるある』シリーズ。神無木さんのキャラ、ほんとウケる」
「名波さん……?」
しまった。余計なことを話しすぎた。忘れちゃいけない、ここは一年前の世界。
「千紗ー」
あたしを呼ぶ声に、立ち上がって振り返る。菜月だ。快活そうなショートカットに、大きなひとみ。前髪のはしっこを飾りピンでとめてる。
「何してんの」
「あっ、えっと」
脳みそを高速回転させて、当時のあたしの人間関係を思い出す。菜月とは同じクラスで、小学校の延長で、入学直後は、そのまま一緒に行動してたんだった。
「へんな千紗」菜月がくすっとわらった。「行こ」
菜月は美凪には目もくれず、あたしの手をひく。あたしはずるずるとなかば無理やり連れていかれた。
教室正面の黒板には「五月十二日」と書かれている。ドアの上には「一年三組」のプレート。壁にかかった時計を見る。今、ちょうど昼休みみたい。
「おーいっ! だれか数学の教科書貸してーっ」
廊下側の窓から、ひょっこり、男子が顔を出した。とたんにとくんと心臓が鳴る。片瀬だ。坊主頭から髪が少しのびて、剣山みたいにつんつんしてる。
「今日、うち数学ないし」菜月が答える。「あっ、でも千紗は持ってるよね。ほとんど教科書置きっぱなしだし」
急に話をふられてうろたえる。あわてて机をまさぐると、たしかに数学の教科書がある。
「じゃ、借りてくわ。さんきゅー、千紗。おめーが不良でたすかった」
名前のよびすて。憎まれ口。胸が、きゅんと苦しくなる。
この感じが、ずっとずっと、いまも続いてたら、よかったのにな……。
「ね、今日は、バレー部見てく?」
ホームルームのあと、帰り支度をしていたら、菜月にさそわれた。
「バレー部……。ね、菜月って、もう入部してるんだっけ?」
「何言ってんの? ソッコーで入部したじゃん。あんただって何回も見学に来てんじゃん。ね、千紗も入るんだよね? スポーツ万能の千紗が入ってくれるとすっごい助かるんだけど。何なら、今から先生に言って、入部届もらってこようか?」
忘れてたけど、菜月って、めちゃくちゃ押しが強い。
でも、ここでなびくわけにいかない。あたし、バレー部の先輩と合わなくて、一か月ももたなくてやめることになる。菜月と離れちゃったのはそれが原因だし。最初から入部しなかったら、菜月とはきっと、ずっと仲良しだ。
「悪いけど」申し訳なさそうな表情をつくる。「ほかの部活も見てみたいし、決めらんない」
「ふーん。そっか」菜月は意外にあっさり引いた。「どっか入るなら、さっさと決めたほうがいいよ。あとからだと、いろいろやりにくくなるから」
そう言って菜月は練習に行った。ひとまず、胸をなでおろす。かばんをもって席をたつと、廊下側のすみっこの席にいる美凪と目があった。美凪は遠慮がちにほほえむと、あたしのところにやってきた。菜月がはけるタイミングを待ってたんだろう。
「名波さんって、漫画とか、アニメとか、好きなんですか?」
なぜ敬語。一生懸命笑いをかみころす。
「アニメはあんま見ない。でも、お笑いとか、ギャグ漫画とか、笑えるものは何でも好きだよ」
とたんに、美凪の顔がぱっと明るくなった。
「わ、わたしの漫画……。四コマなんだけど……見る?」
「見る見る!」
なつかしい。これが、あたしと美凪のはじまりだった。
学校帰り。ジュースを買って、遠回りして、いつもの海沿いの道に美凪を連れてきた。
「ここ、いいでしょ。あたしの定番寄り道コース」
はじめて来た、近いのになあ、と言って美凪はものめずらしそうに風景をながめてる。
潮は引いていた。干潟のなかにひかれた細道を、美凪はふしぎそうに指差した。
「ねえ、前から気になってたんだけど、あれ、いったい何?」
「海床路って言うんだよ。ここらへんの海、遠浅で、引き潮になると港まで漁船がはいってこれなくなるんだ。だから、あの道の先に船着き場がつくってある」
海床路を、数台のトラックが行き来しているのが見える。
「うちの近くにもある。ここのよりもっと遠くまで道が続いてて、道なりに、たくさん電柱が建ってて……」
「海浜公園のとこだよね? あそこの外灯がともると綺麗だよね」
この町で一番長い海床路で、一キロ近くもつづいてる。道沿いに何本も並び立つ電柱には水銀灯がつけらている。満潮のときは道が消えて、電柱だけが海面から顔を出す。あかりがつくと、ひかりがゆらゆらと水上でゆらめいて……とっても、不思議。
「ここからも見えるよ。電柱」
目の前にひろがる海の、西の果てを指差した。水平線のあたり、小さく突き出した電信柱が並木のように見える。美凪はそれを、じっと見つめている。
あたしは自転車をとめて、堤防の上をあるいた。
「あぶないよ」
「平気。慣れてるし」
「名波さん、それで、なんのために海の道に外灯がいるの?」
「満潮になったら道が沈んじゃうから、船が座礁しないように」
「ふうん」
「ね、江藤さんは、引っ越してくるまえ、どこにいたの?」
「K市」
「そんな遠くないね」
「うん」
それきり美凪は口をつぐんだ。あとになって、両親の離婚で、母方の祖父母の家があるこの町にお母さんと一緒に来たんだと、美凪本人から聞くことになる。だけどこの時点では、まだそんな事情を打ち明けてくれるほど親しいわけじゃない。だからあたしも知らないふり。あたしはいわば未来人ってわけで。ほんとうにふしぎだ。
そうだ。あの不思議なリモコン。今、どこにあるんだろう。
巻き戻すまえは、ポケットの中にあった。だからとっさにポケットの中をさぐった。すると、たしかにあった。六年生に戻ったときには机のうえにあった。リモコンの位置は、巻き戻す前と後では、変わらないっていうことだろうか。
ボタンのつるりとした輪郭を指でなぞる。その気になればあたし、どこまでも過去に戻ることができる。昭和、大正、明治、江戸。もっとずっと先、人類がいない時代にまで生けるかもしれない。……本当に? タイムマシンとちがって、あたし自身のからだも当時の姿に戻ってるんだよ。万が一あたしがいない時代に巻き戻しちゃったら、きっとあたし自身も消えてなくなっちゃうはずだ。
おそろしい。絶対に、そんなことはしないように注意しなくちゃ。未来へ行くのだってそうだ。かりに十年後、二十年後に行ってみたとして、その時あたしがすでに死んだあとだったりしたら……。ぶるっと寒気がはしる。
なんて危険なアイテムだろう。このリモコン、だれかほかのひとが不注意で触ってしまわないように肌身離さず持っていよう。とくに兄ちゃんには気づかれないようにしなきゃ。
「名波さん?」
不安げにあたしの顔をのぞきこむ美凪。なんでもない、と笑ってみせると、彼女も笑顔になった。このころの美凪は今と違って、ちょっとだけおどおどしてる。まだ、あたしのことを探ってる段階なんだろう。自分をどこまで見せていいか、とか。なつかしいな。こんな感じだったんだ。
中一の五月は、思いのほか居心地がよかった。あたしはもとの自分にもどる理由を見つけられないでいた。
べつにいいんじゃね? って思った。このままここで過ごして、そしたらふつうに時は流れて、また中二の六月は来るわけだし。あたしだけが未来の記憶をもって、この時代をやり直してるってこと。
やり直す、か……。ひょっとして、あたし、キャラを変えられるかも。そしたら片瀬ともずっと友達でいられて、あわよくば、つ、つき合う、とか……。
「ひゃああああっ」
想像すると火がついたみたいに顔が熱くなって、とっさに教科書でおおった。
「どしたの千紗」
眉間にしわをよせて、怪訝そうにあたしを見やる菜月。
「な、なんでもないよ……」
「そ。んじゃ、はやく音楽室、いこ」
「うん。あ、ちょっと待って」
あたしは美凪の席に駆け寄った。
「ね、江藤さんも一緒にいこっ。いいよね、菜月」
「ん。……いいけど……」
歯切れの悪い菜月。その明るい大きなひとみが、ちょっとだけくもった。
菜月は美凪のことを知らないから。ちょっと話したら、美凪がすっごい面白いヤツだって、きっとわかってくれる。
あたしの思いとは裏腹に、音楽室に着くまでのあいだ、あたしひとりだけが陽気にしゃべってた。美凪は相変わらずおどおどしてたし、菜月もよそよそしかった。
ま、しょうがないよね。その時のあたしは思ったんだ。美凪は警戒心が強い。これから、ゆっくり時間をかけて心をひらいていってくれればいい、って。当然、菜月もそれまで待っててくれると思ってた。
だけどちがった。
次の日から、なんとなく、菜月があたしを避け始めるようになった。移動教室のときとか、昼休みとか、これまでまっさきにあたしに声をかけてくれたのに、そうじゃなくなった。かわりに、体育会系の部活に入ってる子たちのグループのところに行くようになった。
話しかけても、「何? 今ちょっと忙しいんだ」とか、「ごめん。向こうで友達が呼んでるから」とか笑顔で言って、あたしとはそれ以上話さない。
あからさまに無視されてるわけじゃない。だけど……、引っかかる。
菜月が離れていってしまうのと反対に、美凪とはどんどん親しくなっていった。
「降臨中! 降臨中!」
なんて言ってふざけながら、思いついたネタを教えてくれる。
「美凪さあ、お笑い芸人とか、向いてるんじゃない?」
「ムリムリ。ゲイノー界とか、あんな陽のあたるとこ。陰謀うずまいてそうだし」
「えー。美凪がバラエティのひな壇にいたら、面白いと思うけどなー。前に前に出て行かないんだけど、たまーに、ぼそっとシュールなこと言って、オイシイとこ持ってくの」
「いやいやいや、めっそうもない。ていうか名波さん、さっきから、わたしのこと……」
「あ。ごめん、つい。まだ、呼び捨て、いやだった?」
ぶんぶんと全力で首を横にふる美凪。
「美凪もさ、あたしのこと、好きなふうに呼んでいいよ。『名波さん』じゃ、なんか他人行儀だし」
美凪といると、つい中二の時の感覚でしゃべってしまう。ちょっとなれなれしかったかな? しばらくうつむいていた美凪は、顔をあげて、
「わかった。じゃ、『名波』で」って言った。
「ねー、これ超やばくない?」
「えー。コーンスープ味? キャラメルだよね、これ」
「だよー。なんか、怖いもの見たさで買っちゃった」
昼休み。菜月たちが教室でさわいでる。
「ゆっち、あげるー。まっちーも」
「サンキュー菜月。んっ! これ、まじコーンスープの味、するっ!」
きゃははは、と明るい笑い声が響く。なんか話しかけづらい雰囲気。だけどあたしは思い切って、菜月の肩を、たたいた。
「ん? どしたの千紗」
きらきらとさざめいていた菜月たちの空気が、すっ、と冷えたような気がした。でもそれは一瞬だけで、すぐに女子たちはまた明るくさわぎ出した。
「菜月、ちょっと、いい?」
「今、どうしても話したいこと?」
「うん。放課後は部活っしょ?」
菜月は、仕方ないな、とばかりにため息をつき、グループの子たちに、「ごめん」と手を合わせるしぐさをした。
校舎別館と本館のあいだにある非常階段に腰かけて、あたしは菜月と話をした。
「菜月。あたし、何か、菜月を怒らせるようなこと、したっけ?」
直球をぶつける。小学校からの仲だ。あたしたちはふたりとも、まわりくどいことがきらい。の、はずだ。
「なにも」
菜月は空をみあげてはぐらかす。空はすかっと青い。綿菓子みたいな雲が泳いでる。
「じゃあ、どうして避けるの?」
「ずばずば言うね。千紗らしいわ」
「菜月は最近、菜月らしくないよね」
菜月は、ふうと長い息をついた。そして言った。
「千紗、さ。最近、江藤さんと仲いいよね」
うん、とうなずくあたし。
「あたしはさ、ちょっと江藤さんって苦手。千紗のこと嫌いになったわけじゃないけど。でも江藤さんはむりだから。そういうこと」
「で、でも。美凪って、じっくり話してみると、面白いんだよ? へんなギャグとかも言うし」
「ムリなものはムリ。あたし、オタクな会話とかついていけないし」
「オタクな会話ばっかりしてるわけじゃないよ。ってか、むしろ、あんまりしないよ」
「千紗さあ」いらいらと、菜月はあたしのせりふをさえぎった。「知らないっしょ」
「なにを?」
「江藤さん、前の学校でいじめられてたらしーよ。それで、だれも知り合いのいないこっちに引っ越してきたって」
そのうわさは聞いたことがないわけじゃない。中一の今の時点では、あたしはまだ知らなかったわけだけど。だけど。
「本人は、両親の離婚で、って言ってるよ」
「離婚については知らないけどー。でも、江藤さん自身はぜったい言わないっしょ。そんな黒歴史」
「でも。たとえほんとうにいじめられてたとしても。それって美凪のせいじゃなくない? だって、いい子だよ」
「いい子かどうかなんて関係ないんだよ」菜月は、すっと立ちあがった。「千紗だからはっきり言うけど。あんた、江藤さんと離れたほうがいいよ」
晴天をバックに、あたしを見下ろす。
「あの子と一緒にいたら、あんたまで、暗いキャラだって思われるよ」
菜月が教室に戻ったあとも、あたしはまだ非常階段でひとり、ぼんやりしている。
菜月があたしから離れて行った本当の理由を知った。
菜月を取るか美凪を取るか。
明るい場所で笑ってる自分を選ぶか。地味で暗いって思われて縮こまってる自分を選ぶか。
もちろん、明るい場所に行きたいよ。でも、美凪のことは好き。仲良くなったのに、今さら傷つけたくない。
じゃあ、仲良くなる前だったら……? そもそも最初から、友達にならなかったら……?
ううん、そんなのあり得ないよ。思いついてしまったアイデアを全力で否定する。
「おーい。千紗―。何たそがれてんのー?」
快活な声に呼ばれて顔をあげる。
「片瀬」
別館から出てきた片瀬が駆けよってくる。とくとくと速くなる鼓動。
「どしたん千紗? 苗字で呼ぶとか他人行儀―」
「だれー? カノジョー?」
片瀬と一緒にいる男子がにやにや笑って片瀬をこづいている。
「バッカ、違うし。同小のヤツだよ。名波千紗っつーの。すげーサッカーうまいんだよ」
片瀬はあわてて友達に説明する。そして再び、あたしに向きなおった。
「オレさー。バスケ部入ったんだー。千紗も女子バス入れば? めっちゃ面白いぜ、バスケ。ってかマジお前が男子だったらよかったのになー。すげえ戦力になる」
あたしはあいまいに笑った。片瀬はまだまだ無邪気そのものだ。
胸がくるしい。このままじゃ、片瀬のことも失っちゃう。
いやだ、そんなの。
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