#4 三日月の上で本を読む君は
会社の休憩時間。過ごし方は様々である。外にご飯を食べに行く人や手作りのお弁当を社内で食べる人もいれば、昼からの業務に備えて仮眠をとる人もいる。
俺は、冷凍食品を詰めた弁当を食べ終えた後はパソコンでニュースを漁っている。ログは取られてしまうが、基本的に常識の範囲内であれば、パソコンを使ってのネットサーフィンは認められている。
部長もスマホのゲームのスコアがどうとかで若手社員と盛り上がっていることからも、比較的昼休みの時間はどう過ごそうが個人の裁量に委ねられていることは容易に伺える。
そんな中、俺の同期の更科 美佳(さらしなみか)は毎日毎日読書に勤しんでいる。以前、読書をするくらいなら会社の資料にでも目を通したらどうだと言ったことがあるが、「私は読書がしたいから」と短く返されたことを覚えている。
さらっと長い黒い髪に合わせて黒いメガネをかけている更科は知的に見える。
「……そんなに見られると集中できないんだけど」
更科は小さくため息を漏らし、本を閉じて俺の方を見る。
「張本君、私に何か用でもあるの?」
俺自身としては、そんなに長い間更科のことを見ていた自覚はないが、更科が不快に思ってしまったのならいささか問題だ。更科をねっとりと見つめていた気持ち悪い同期というレッテルを貼られてしまう。
「いや、いつも何の本を読んでいるのかなって思っただけだよ」
「日によって違うけど、今日は推理小説を読んでるの。たまたま本屋によったら面白そうな本があったから」
本の話題を振ると、更科の目元がふっと緩んだ。どうやら上手く話の軌道を修正できたようだ。
「張本君も野球のニュースばかり見ていないで本を読んだらいいのに」
「俺は活字を見るだけで頭が痛くなるタイプだから」
「それこそ野球小説とか読んでみればいいのに。好きなものだったらその小さな頭に入るんじゃないの?」
「いやーどうかなぁ。って、小さなってどういう意味だよ」
更科は悪びれた様子もなくクスクス笑っている。全く持って失礼な奴だ。だが、その更科の言葉を一旦は受け入れてしまいそうな自分もいる。俺は小さなころから頭を使うことよりも体を動かす方を得意にしていた。本や新聞を読んで知識や理性を蓄えることなく、体力と根性でここまで社会の荒波に何とか耐えてきた人間に自分を分類できる。
仕事の覚えも同期の中でも一番悪く、同期には迷惑をかけてきた。
更科にはパソコンの使い方を何度聞いたか分からない。
その時、スマホが小さく震えた。差出人を見るとそれは今の今まで会話をしていた更科からだった。メールを開くとそこには小説のタイトルと思われる文字列が羅列されている。
「そこに書いた本だったら張本君も興味を持って読めると思うよ」
頼んでもないのにおせっかいな奴だ。
「まぁ、気が向いたら読んでみるよ」
口ではそう言ったものの、俺は本を読む気はさらさらなかった。
本を読んでいる暇があったら、ひいきの野球チームの情報を収集することに時間を当てたい。
「本を読むなら今日がおすすめよ」
「何でだよ」
「今日は三日月だから」
三日月なことと読書にお勧めの日がどう関係するんだろうか。
問い詰めたいところだったが、更科はまた読書に戻ってしまった。
……まぁ、どうせ読まないからいいか。俺は野球ニュースを見る作業に戻った。
「ピッチャーの成瀬、満塁のピンチを迎えています……。さぁ、バッテリー、サインが決まったようです」
頼む……抑えてくれよ、成瀬。右手に持っている缶ビールを思わず握りつぶしてしまう。ここを踏ん張れば、後は抑えの西野に繋げるんだ……!
俺の熱意がテレビを通して球場に届いたのか、それとも間合いを嫌ったのか……。いや、間違いなく後者だろうが、バッターの方が間合いを嫌って打席を外す。再び張り詰める緊張感。
しかし、その緊張をほくそ笑むかのように机の上に置いていたスマホが間の抜けた音楽を奏でる。こんな行き詰るシーンに一体誰だよ!
俺は無視を決め込めようとしたが、その振動は一向にやまない。仕事関係の着信の場合、取らないわけにはいかないので俺は渋々スマホの画面を開く。
着信表示には更科 美佳と表示されていた。珍しい表示に驚いたが、俺はスマホを耳に当てる。
「もしもし」
「こんばんは、張本君。窓の外見て?」
「は? 外?」
俺はカーテンを開け、身を乗り出して空を確認する。先程シャワーを浴びたばかりの生乾きの髪を夜風が撫でていく。6月になったばかりの涼しさを一身に受けるが、何とも心地よい。そして空にはぽっかりと三日月が浮かんでいた。
「もしかして三日月か?」
「うん。綺麗だと思わない?」
「……昼も思ったけど、更科、三日月好きなのか?」
「好きだよ。私は月の中でも三日月が一番好き」
電話越しに更科の笑っている声が聞こえる。そういえば仕事場以外で更科の声を聞くのはずいぶん久しぶりだな。なんか用でもあったのだろうか。
「私ね、三日月を見るといつもその上で本を読みたいなって思っちゃうの」
「……うん?」
「え?」
ぎこちない空気が俺と更科の間に流れる。
「もしもし? 張本君、聞こえてる?」
先にきまずい沈黙を破ったのは困惑したような更科の声だった。
「聞こえてるよ。聞こえてたけどさっきの更科の言葉の意味が分からなかった」
「意味? いや、別に。ただ三日月の上に座って本を読みたいなってそのまんまの意味だけど」
「いやだから、更科の言うそのまんまが分からないんだってば」
俺はもう一度夜空を見上げる。今日はやけに鮮明に三日月が見える。
「背もたれがあって読みやすそうじゃない?」
「せ、背もたれ?」
「うん。三日月に身を預けてさ。
夜空に吹かれながら、誰にも邪魔されない場所でゆっくりと本を読む。想像しただけで素敵じゃない?」
まだ突っ込みたいことは山のようにあったが、とりあえず頭の中に更科の言う情景を浮かべてみた。三日月に背中を預け、本をめくる更科。いつもの黒いメガネは付けているんだろうか。付けていたらなんとも知的だ。
そして夜のにおいを含んだ風が更科の黒い髪を揺らしていく。想像してみるとなんだかその情景は普段、更科が醸し出す雰囲気にマッチしていた。
「更科には合ってるかもな」
「あら、張本君には合わないの?」
「俺は典型的な花より団子タイプだから。三日月見たら、明日の朝はクロワッサンを食べたくなったよ」
「なにそれ、変なの」
電話越しに漏れてくるささやかな笑い声に恥ずかしさがこみ上げてくる。
「じゃあ私、読書に戻るね。ばいばい、翔太」
「……え?」
突然かかってきた更科からの電話はあっけなく終わってしまった。
……一体何の用だったんだ? それにあいつ……最後に俺のこと、翔太って呼んだよな? 普段とは違う更科の言動に心が騒ぐ。
「なんなんだよ……更科の奴。あ、そういえば野球どうなった!?」
俺は窓から離れ、テレビの画面に注目する。さっきの満塁の場面ではなく、俺の贔屓チームが攻撃している。スコアは先程同様1-0のまま変わっていない。ということは、成瀬、抑えたのか。いつもならば喜びを爆発させるところだが、今日はどこか中途半端だ。
そうなってしまった原因は分かっている。俺は窓の空の三日月を眺める。その三日月の上で更科がいつものようにすました顔で本を読んでいる気がした。
更科からの謎の電話以来、視線の隅に更科が入り込んでくることが多くなった。とはいえ、じっと、見つめていても更科の読書の邪魔になってしまうので、こっそり様子をうかがう程度に眺めるという自分ルールを設けている。
『ばいばい、翔太』
仕事の時に聞くようなはっきりと澄んだ声ではなく、どこか甘みを帯びた声が耳にこびりついている。更科はあの電話の時以外、俺のことを翔太と呼ぶことはない。結局あの電話はなんだったんだろうか。
ただ面と向かって確認するのも恥ずかしかったので、更科には直接聞いてはいない。あーくそ、何でこんなことで悩まないといけないんだろう。贔屓の野球チームの調子も良くないし、最近面白くないことばかりだ。
「なに怖い顔してるの」
声をかけられたのでふと顔を上げるとそこには更科の顔があった。
「別に」
「昨日サヨナラ負けしたことをまだ引きずってるの?」
「まあな。だってあそこで西野が打たれるか?」
昨日は勝ちを確信していた。一点差で迎えた9回の裏に満を持して守護神の西野を送りこんだ。簡単にツーアウトを取った後、イージーゴロをサードがエラー。動揺したのか西野のフォークはすっぽ抜け、相手の外人打者が降りぬいた打球は夜空へ消えていった。
昨日は何が何でも勝ってほしかった試合だった。……ん? 待てよ?
俺の頭の上には大きなはてなマークが浮かんだ。
「なんでそれを更科が知ってるんだよ? もしかして野球ファン?」
「ううん。普段は全然見ないよ」
首を横に振る更科を見て疑問は更に深まる。じゃあなんで更科は昨日の俺の贔屓チームの悲惨な試合の結果を知っているんだろう。しかも大して人気のない球団なのに。
「ただ、張本君があまりにも表情に出すから」
更科はふっと小さく笑った。微かに漏れた笑い声はあの日の電話越しに聞こえてきた声に似ている。
「結構分かるんだよ? 朝ご機嫌だったら勝った日。眉間にしわが寄っていたら負けた日。毎日見てるうちに分かるようになっちゃった」
「……そんなに顔に出てた?」
俺は思わず顔をなぞる。恥ずかしさと情けなさがこみ上げてくる。
そんなようでは俺の毎日は野球で象られていますと言っているようなものじゃないか。
「ふふ、分かるよ。だから職場内での円滑なコミュニケーションを図る為に、予めスポーツニュースをチェックしておくようにしたの」
「……極力、翌日まで結果を引きずらないように善処します」
「いいじゃん、その単純で分かりやすい所、私結構好きだよ」
好き。何故かその二文字が俺の心に纏わりついて離れない。更科は軽い気持ちで言っているに違いない。それなのに、何でこんなにドキドキしてしまうんだろう。
「でも野球は一週間に六回もあって羨ましい。三日月は一ヶ月に一回だというのに」
更科はため息交じりにポツリと漏らす。
「次の三日月はいつだ?」
「今日が下弦の月だから10日後かしらね」
下弦の月……。昔、理科の授業の時に聞いたような言葉だ。右か左かはわからないが確かちょうど半分の月だ。
「下弦の月、そして上弦の月の上で読書をしたい気分もあるのよ」
「んん?」
また始まった。どうしてこう更科の奴は訳の分からないことを唐突にぶっこんでくるのだろうか。
「下弦の月ってさ、右がちょうど半分欠けてるんだけどね。上る時には下半分が現れて、上半分が見えないような時があるのよ。そしたら丁度座って本を読みやすいじゃない?」
成程、確かに本は読みやすそうだ。そう思えてしまうということは、俺が更科に洗脳されているということだろうか。だからこそこんな疑問も湧いてきてしまう。
「でも三日月のように背もたれがない分座りにくくないか?」
「いい着眼点ね、張本君。じゃあ下弦の月に出来て、三日月に出来ないことはなんでしょう? 今夜までに答え考えておいてね」
「……は? おい、それじゃ何がなんだか……」
俺はもう少し更科を問い詰めたかったが、タイミング悪く昼休み終了の時間が来てしまった。
「じゃあまた電話するね」
するりと俺の手から逃げるように更科は自分の席に戻っていく。……考えておいてと言われてもなぁ。俺はその答えを探すのに頭がいっぱいで、昼の業務に集中することが出来なかった。
その日の夜、宣告通り更科から電話がかかってきた。
「もしもし」
「こんばんは、張本君。答え合わせの時間だよ」
プライベートの時間に聞く更科の声にまだ慣れない。
「……駄目だ、さっぱりわからない」
「もう、少しは考えたの?」
「考えすぎて、書類に不備が見つかって部長にいびられたよ」
「ごめんごめん」
更科の奴、ちっとも悪いと思っていないな。電話越しに笑い声が漏れている。
「じゃあ、答え教えてあげるね。翔太」
二回目の翔太。なんで、張本君って呼んだり、呼び捨てにしたりする時があるんだ。……好き勝手謎ばかりばらまきやがって。
「下弦の月だったら、二人で本を読めるじゃない」
「……そうきたか」
俺は窓から空に浮かぶ下弦の月を見つめる。今は、右半分がかけてしまっていて、座れる状態じゃない。けれどあの月が水平だったら確かに二人並んで腰かけることが出来るかもしれない。
「誰だってたまには、構ってほしい夜があるのよ」
「更科にも?」
「秘密」
「でもさ、下弦の月が安全だよ」
「安全? 安全って何が?」
更科が食いついてくる。想像以上の反応に俺は内心ニンマリする。
「野球にな。"月に向かって打て"っていう名言があるんだよ。読書している時にホームランボールが飛んできたら、危ないだろ」
月に向かって打て。昔の大杉選手が打撃不振に陥っていた時に当時の打撃コーチに言われた一言だ。その時空にぽっかりと浮かんでいた中秋の名月がターゲットになってしまった。
「三日月でも下弦の月でも飛んできたら一緒じゃない」
「下弦の月だったら、更科の読書を邪魔することなく俺がキャッチできるだろ」
「翔太が? エラーとかしないでよね」
「あのな、俺は草野球チームだと不動のセンターだから落とさないっての」
「本当? じゃあ頼りにしてるね。また、三日月の夜に電話する」
前の時もそうだった。更科のタイミングで電話をかけてきて、電話を終える。いつもペースを握られてばかりなのは男として情けない。だったら、今度はこっちから。
「ああ、またな、美佳」
「……うん。またね、翔太」
柔らかい声が聞こえてしばらくして電話は切れた。
ツー、ツーと無機質な音に苛立ちを感じるくらい、名残惜しい気持ちを覚えた。月はほぼ同じ周期で満ち欠けを繰り返す。三日月は10日後、下弦の月は、一か月後。それまでにやるべきことはまだありそうだ。俺は携帯にメール画面を呼び出した。
その日は残業で帰りが遅くなった。
更科は先に帰ってしまっている。
きっと三日月の夜の電話は俺の方からかけなければいけないだろう。
ふと空を見上げてみる。
星がまばらに映える空にぽっかりと三日月は浮かんでいる。きっと心地よさそうに更科は本を読んでいるだろう。
ここからホームランを打って更科に伝えたいことが二つある。
一つは、仕事が終わったこと。
そして二つ目は読書が案外面白い物であると分かったこと。
更科に勧められた本は野球関連の物語だったので俺の頭にスッと入ってきた。だけど全部を読み終わるわけにはいかない。だって読み終えてしまったのならば、下弦の月の時に一緒に本を読めないから。
そんなことを思っているなんて、三日月の上で本を読む君は知らなくていい。
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