有栖 百合子の傷

 私は恵まれている。



 恋人だっている。友達だって、親友だっている。

 好きな音楽も物語もある。高校の時の成績だって悪くない。別によくもないけど。


 口を揃えて「君はいい子だね」とへらへら話しかけてくる大人たちは、私の何を知っているというのだろう。


 こんな何も出来ない私の、何を知っているのだろう。



 「……馬鹿みたい」



 私しかいない部屋に声が響いた。時計を見ると8時を回っていた。さっきまで6時だった気がするのに。

 今日の予定はなんだっただろう。いや、まず私が予定をこなせる日はあっただろうか。


 学校……か、もう、間に合わないな。


 あぁもう。


 そんな朝だから、あなたの声が聴きたくなった。

 電話をしようと携帯に手をかけたところで思い留まる。


 よく考えればそんなことしたことがなかったから、できるわけがないでしょう。



 他人の何倍もの時間をかけてその体を起こす、まあ他人がどれくらいの時間をかけて布団から出るのかなんて知らないんだけど。そのまま急ぐ事も無く身支度をする。


 結局家から最寄りの駅に着いたのは10時半になってしまった。

 こんな様子じゃ学校に着くのはいつになるのだろう。




◆ ◆ ◆




 ホームに電車がくる。いくつもの人が乗り込む。



 「…………」



 そのまま自分が乗るはずだった電車を見送る。

 混んでいる電車にはあまり乗りたくない。

 人のごった返す中央線をそのまま見送る


 あぁ、私は今悪いことをしているんだな。

 忙しそうにかけて行く大人たちは私と違って何かを成し遂げようとしている。黄色い髪にたくさんピアスをして優先席に我が物顔で座っているあの青年だって、私と違って何か目的を持って電車に乗り、どこかへ向かっている。



 私は何をして、何をしなければならないのだろう。



 もう嫌だ。こんな自分に付き合いきれやしない。

 なのになんであなたは私を見るの、なんであたしを褒めるの。


 そんなわけないじゃない。全部、気のせいよ。自分はクズなんです。わかってよ。



「クズだ……」



 一人で呟いて、笑えてくる。なんて安い言葉なのだろう。

 自分で自分を落とし入れることの無意味さ。本当に何もわかっていないんだなあ。

 好きなものだってたくさんある。誇らしいものだってある。でもそれでも何かが足りない、足らない。


 きっと、自分が嫌いなんだ。


 例えば次に来る電車に私が飛び込んだとしたら、ほぼ確実に私の二十年余りの人生に終わりが来るだろう。

 きっと後悔する時間すら無く弾き飛ばされる、そうなる事を私は望んでいるのだろうか。


 そうなることを私は恐れているのだろうか。



 ——おそらく、怖いのだと思う。そんな妄想は毎日のようにしている。


 でもその度にあなたの笑顔が、あなたの声が私をここに引き止める。


 あなたの声が聴きたくてこの残酷な世界を生きている。

 ああ、こんな事思うのも贅沢なのかな。

 明日も変わらずにあなたの声が聞けるなら、私はこの残酷で冷たい世界を生き延びることが出来るから。



◆ ◆ ◆


 どれだけ時間が経ったのだろう。さっきまで頭の中を負の感情に埋め尽くされていた自殺志願者は何でも無い顔で電車に乗り込んだ。

 落ち着いた車内では少しの安らぎを得ることが出来た。一番端の座席に座って窓の外をみる。今から行ったとして何が出来るんだろう。

 いや、最初から行ったところで何が出来るんだろう。


 学校に着いたのは結局、今日の最後の授業がもうすでに始まっている時間だった。



 「はあ……」



 ため息を吐き出して項垂うなだれ、校舎へ向かう坂道の途中にあるベンチに腰掛ける。 


 今日も、なにもできなかったなあ。


 時間だけが過ぎ去って行く。

 誰かにとって大切な時間が、もう取り戻せない、有意義な時間が、

 決して無駄にしていいはずのない時間が流れていく。

 私はここでただ座っているだけなのに。





 あなたは今日も頑張ってるんだろうなあ。



 めんどくさいが口癖の私の一番大切な人。

 あの人は今日も私の大好きな声でめんどくさいと、何度も呟きながらパソコンの前で精神をすり減らしているんだろうな。



 ああ、自分が情けなくて参るなあ。




 彼にメールを飛ばす。




 【今日会えない?】




 きっと、忙しいから返ってこないだろう。

 そうやって自分に何度も言い聞かせて予防線を張る。

 傷つかないようにする。こうでもしないと私は壊れてしまうほど柔い。



 …………本当に、なんで私はこんなに弱いんだろう。



◆ ◆ ◆



 どれくらいの間そうしていたのだろうか。

 あたりはもう暗くなっていた。


 そろそろ帰ろうとベンチから腰を上げたその時、携帯が鳴る。



 「…………」



 きっと私はそこで期待しすぎたんだ。

 期待なんて、欲張りだ。でも仕方が無い。

 携帯から鳴り響く着信音は、まぎれも無くあなたが作って、私があなたのためだけに設定した物だったから。



 ディスプレイに表示された私の一番愛しく思う六文字の文字列。



 それがメールの差出人がまぎれも無く「彼」であることを証明している。



 だから、私は期待をしてしまった。



 急いでメールを開く。








 【今日は無理 ってか今週は忙しいっていったよね 少しは空気読んでくれよ】








 それは今の私を壊すのには十分すぎた。


 きっと、「それ」はちょっとしたきっかけさえあれば実行されてしまうんだと思う。

 どこにも行けない悲しみとか、どこにも向けられない怒りとか、ちょっとした反動で回り回って自分に戻って来ているだけなのだと思う。









 もういやだ、もう、なにもいらない。

 せいぜい、こんな私のまま二十年も生きた事を褒めて欲しい。





















 22時56分


 




 駅のホーム。






 ダイヤが僅かに遅れている。






 私はもう後悔はしない。






 するはずなんてない。




 


 55分発の中央線が2分遅れでホームに近づいてくる。













 勢いはなかった。




 飛び出す、というより落ちていく、に近いかもしれない。




 いろんな人の叫び声が聞こえる。




 どうだっていいんだけど、




 昨日この電車に乗った私は、明日同じ電車に弾かれるなんて考えもしなかったんだろうな。




 目の前でライトがまぶしく光っている。




 電車ってこんなに大きかったんだ。




 あと1秒もしないうちに全部終わる。






 私の右肩が車体に触れようとしたまさにその瞬間、携帯がなった。












 あなたのための着信音。



 後悔なんかする暇も無いはずなのに、



 そのメール、読みたかったな。



 たとえどんな汚い言葉だったとしても、




 読みたかったな。








 

 消えていく意識の中、私は、




 あなたの声が聞きたくなった。




 それだけの話。


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