賑わしき鎮魂歌
夜更けと共に迷宮遊園地の狂騒は増していく。
遊んで食べて飲んでの享楽三昧の時間もすっかり見慣れていた。
大人も子供も夜通しどころか日がな一日、永久に馬鹿騒ぎ。
飽きるという感情を忘れたかのような大はしゃぎ。
それでも、見送る景色は一つとして同じものはなく、私を精神的に疲弊させることはなかった。
夜空の色が濃紺から漆黒に変わり、この世のものではない美しき満月が中天に座した時、私はようやく足を止めた。
「……これって」
赤と黄色のストライプ。
それを飾る賑々しい電飾。
過多なまでに派手な大看板。
「Cirque du Chanson――」
思わず名を読み上げ、我に帰った。もしかしたら上演が始まっているかもしれない。
急いで中に入ると、ちょうど演技の真っ最中だった。スポットライトの当たる舞台、その上空で、空中ブランコが行われている。
後方の座席が空いていたのでそこに腰をかけた。
「こんばんは」
いきなり声をかけられ驚きつつ顔を向けると、隣の席に老人が座っていた。
しかし、私のイメージする老人とはかけ離れた容姿だった。彼を老人だと判断できたのは、褐色の肌に無数に刻まれた皺のおかげである。
頭に被った重そうな羽飾りを揺らしながら、老人は優しい眼差しで私を見つめた。
「あ、どうも、こんばんは」
「わたしの名はカレタカ。あなたは?」
「楓といいます」
「カエデ。あなたは、この『シルク・ド・シャンソン』を見るのは初めてですか?」
「はい。実は、ここに来たばかりでして」
「それはそれは。羨ましいものだ」
「羨ましい?」
この人の案内役らしき人がどこにも見当たらない。目視で探してみるものの、やはり結果は同じだった。
「わたしはもう、何度来たか分かりません。初めてこれを見た時の感動は、
「そうなんですか。あの、カレタカさん。あなたの案内役はどこですか?」
「ああ。わたしは一人でこの遊園地を回っています」
「じゃあ、あなたも迷子なんですね」
「ええ。この世界は、迷った方が楽しいと思うのです。幾つもの未知が朝が来るたびに完成し、それは終わることを知らない。わたしにとってはその未知が限りなく尊い。長い間この遊園地に留まっていますが、尽きぬ未知がこれほど楽しいとは思ってもみなかった」
カレタカは視線を空中ブランコに移した。
高々と浮き上がった人間の体が勢いよく回転、ブランコをしっかり掴みまた揺れる。
「わたしは生きていた間、こんなものを見た事がありませんでした」
スポットライトを浴びて照り輝き、体重なんてないかのように軽々と飛び上がる。
息もつかせぬパフォーマンス。
「不思議です。ここに来る前、どんな人間だったかももう思い出せなくなってきている。でも、こんな楽しい光景を見るのは初めてだということは、いつも思い出せるのです」
彼はサーカスを知らないまま死んだのだ。でも、私は違う。サーカスを知っていて死んだ。
カレタカはどのように死んだのだろう。部族間の対立か、それとも征服者による虐殺か。
「カエデ。まだ、生きていた頃の記憶が思い出せますか」
「え?」
無言のまま、首を縦に振った。
「でも、思い出さないようにしてるんです。思い出したくないから。せっかく
「そうですか。ならば、楽しい思い出は思い出せますか」
楽しい思い出?
(学校の遠足で友達と一緒にお弁当を食べた事とか?)
(欲しかった物をいっぱい買った事とか?)
(家族に大きなケーキで誕生日を祝ってもらった事とか?)
「……はい」
たっぷりと時間を置いてそう答えた。
カレタカはゆっくりと頷き、一言「そうですか」と言った。
「安心しました。あなたも確かに生きていたのですね。わたしの知らない場所で、確かにその生を
「でもそれは、カレタカさんも同じでしょう?」
「……わたしは時々、ここにいる人々がただの『役割を与えられた存在』であるのではないかと思う時があるのです。この場所で遊び、穏やかな時間を過ごしているだけの、人間の形をしているだけの存在に思えてくる。不思議ですね、ここはとても楽しい所なのに」
「そんな……そんなわけ」
言葉が詰まる。
私は、この人が生きていた時代を知らない。開拓される以前のネイティブアメリカンなんて、本の中でしか読んだことがない。
それは彼、カレタカだって同じだ。彼の常識の内に日本という国はなく、女子高生という身分も存在しない。今こうやって会話が成立するなんて、ありえない。
彼は、私が「かつて生きていた人間」だと認識しているのだろうか?
この迷宮遊園地という場所に置かれたキャラクター、賑やかすための役――例えるならばテーマパークの着ぐるみ。そんな風に認識しているとしても、おかしくない。
今私の中で、カレタカの存在が急に不自然なものに思えた。
国籍も生きた時代も全く違う。スミちゃんのように案内役と行動しているわけでもない。遊園地の関係者とも思えない。
彼こそが、「人間の形をしているだけの存在」だとしたら――テーマパークの着ぐるみなのだとしたら。
「……カレタカさんは、楽しいですか?」
「楽しいとは、なんですか?」
「死んだ後、ここに来て――楽しいと感じていますか? どうしてあの時死んじゃったんだろうって、思っていませんか?」
「――――先程も言ったように、わたしは、ここに来る前のことを思い出せなくなってきている。死んだ事に対する後悔も、悲しみも、忘れてしまった。思い出も寝食も忘れ、この場所で飽きず楽しみ続けている。もう、わたしを証明できるものは、カレタカという名前しか残っていない。それほど長い時間を、この死の国で過ごしてきました…………それでもわたしは、迷宮遊園地で遊ぶ事を、楽しいと思っていますよ」
いつのまにか私の顔から視線を外し、彼は空中ブランコに見入っていた。
跳躍する肉体――最大限に生を感じさせる演目を凝視していた。けれどその視線に、生への執着や嫉妬はない。
「赤ん坊があらゆる物を見て笑うような、何の意味も修飾も持たない原初の楽しさ。それが今のわたしの感情なのかもしれない。恐らく、生前のわたしがこれを見たら、全く違う感情を抱いていた。しかし今は、無条件でこれを楽しいと感じている。まるで、迷宮遊園地に存在するあらゆる物が、わたしを楽しませてくれているかのように。
……カエデ、あなたもその内に、生きていた頃の記憶を忘れてしまうでしょう。辛さ、楽しさ、悲しみ、喜び、あなたがかつて感じた熱は、ここで過ごす時間の中に埋没していくことでしょう。そうして、かつて自分がここではない世界に生きていたという事を忘れた時、わたし達は本当の死を迎える」
呆気にとられた私の顔を、暖色の照明が照らした。
ライトが縦横に駆け巡る舞台上にブランコ乗りの姿はない。代わりに、舞台袖から登場した踊り子達が主役となっていた。
フラミンゴのような色の羽飾りをつけた年若い踊り子達が、楽器の調べとダンスする。
紳士の皆様 よいお日柄で
淑女の皆様 御機嫌いかが
辛気臭い話は忘れて歌おう
そうすりゃお顔は可愛い薔薇色
陽気なステップで地球を揺らしゃ
地底の悪魔が小粋なジルバ
さあさ、賢者も愚者も楽しくやろう
ここは
涙は大粒のダイヤモンド
怒鳴り声はどでかい音符
枯れ木には林檎が実り
朽ちた花はにっこり笑う
いいぞ、その調子で神様を驚かせてやれ
騒ぎに乗った天使達が
甘いラブソング歌い出す
さあさ、敵も味方も言いっこなしさ
ここは
見事な一体感でサーカス小屋が熱狂の
歌いながらもチアガールのような大掛かりなパフォーマンスを続ける踊り子――というより、
「これが、このサーカスの最後の演目です」
「……すごいですね」
歌うサーカスの面目躍如、
フィナーレを飾るにふさわしい、最大級に騷がしい演目。
ここがあの世だと微塵も思わせない明るい雰囲気は、やはり意図したものなのか。
「カレタカさんは、これが終わったら、どうするんですか」
「まだここにいます。もう一度最初から、サーカスを観ます」
「本当に大好きなんですね」
「ええ。やめられません」
トランペットの雄叫び。
ライトを浴びてポーズを決めた舞台の主役に、割れんばかりの拍手喝采が届けられていた。
そこで真紅の幕が閉じる。これでおしまいとばかりに、勢いよく舞台への視線がシャットアウトされる。
まだ、拍手と指笛の音は止んでいない。席を立つ人もちらほら見られる中、私も立ち上がった。
「私、そろそろ行きます。今日はありがとうございました」
「いいえ。こちらこそ、感謝しています。わたしのような老いぼれに付き合ってくれて――おかげで余分に楽しめました」
「また、どこかで会えるといいですね」
「はい。迷子を見つけるのは困難でしょうが、再会を願っていますよ」
「さようなら、カレタカさん」
「さようなら、カエデ」
かつての勇士は穏やかな微笑みを浮かべて、サーカスを去る私をいつまでも見送っていた。
彼はいつまでもサーカスにいる。カレタカという名前を忘れてしまうまで。楽しい時間の中に自分を埋(うず)めてしまうまで。
だから、きっと、また会える。
「……ここはシルク・ド・シャンソン……」
最後の小節を口ずさみながら、私は夜の遊園地の人混みへと歩いていった。
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